第3話

 休学していたから仕方ないのだが、途中までは一度習った内容なので少しつまらない。授業中も一度聞いた内容だと身が入らないし、教科書にある例題もすっかり覚えてしまって、つい余計なことを考えてしまう。

 どうして両親は私の前から姿を消してしまったのか。どうして私を置いていってしまったのか。そればかりが私の頭のなかでぐるぐると渦巻いて、周囲が真っ暗になる。

「―― さん、薫子さん」

 突然後ろから左手をぐいと引かれて立ち止まらざるをえない。振り返ると一緒に過ごしてまだ間もない同居人がそこにいた。

「そっちは駅の方ですよ。家はこっちで…… それとも、駅になにか用事が?」

 爬虫類のような、黒光りする瞳は私が幼い子どもであれば怯えていたことだろう。私はいいえ、と答えたあと、ではなぜ自分がこちらへ向かっていたのかわからず口ごもった。

「…… 頭がぼーっとしますか?」

「…… はい」

 見透かされているのかと思うほどずばりと言い当てられて、私は頷いた。円城寺さんは表情を変えないまま私を見下ろして、帰りましょう、と言ってゆっくり歩き出した。

「本を、読むといいですよ。嫌なことをなにも考えずに済む。…… 嫌なことが――、考えたくないことがある場合に限りますが。薫子さん、本は読みますか?」

 よれた背広に包まれた丸まった背中が半身だけ振り返る。顔は半分以上が黒髪で覆われていて表情どころか、年齢すら推測できない。男としてはあまりに長すぎるぼさぼさの肩まである髪は、大抵の人が見たらだらしないと渋い顔をするにちがいない。

 円城寺さんの質問に、私はまたいいえ、と首を振った。

「学校で使う教科書くらいしか。勉強自体もすごく得意というわけではないのでそれもすぐ飽きてしまうし」

「無理に長い文章を読もうとしなくていいですよ」

 勉強とも違うし、と円城寺さんは言った。無理に長い文を読まなくていいだとか、勉強とも違うだとか、なんだか白米は食べ物ではないとでも言われたような気分だ。

 …… 変な人。

 慰めてくれているのとも、寄り添ってくれているのとも違う。彼の言葉はどこか遠くて、突き放すようですらあるのに、どこか安心する。私がひとりであるのは変わらないけれど、私のなかできゅうとちぢこまっていた寂しさが少しだけ肩の力を抜いたような気がした。



 家に帰ると早速円城寺さんは本をいくつか居間まで持ってきてくださった。

 鳥や動物の描かれた画集のようなのから、短歌や俳句をまとめた詩集まである。

「読み終わったら教えてください。あと、つまらなかったときも。別の本を持ってきますから」

 言いながら、彼は別の本を持って縁側の隅に腰を下ろした。

「これはつまらない本なのですか?」

 私が尋ねると「え?」と意表を突かれたような顔で円城寺さんは本を開こうとした手を止めた。それから少しの間無表情のまま黙って、

「…… それはあなたが感じることですよ」

とだけ言った。そして再び本に視線を戻した。

 私は彼の言葉に意味をしばらく考えた。考えたけれどわからなかったので、

「それはどういう意味ですか?」

と聞いた。円城寺さんは、手元に目を落としたまま返事をしてくれない。…… 自分で考えろということだろうか。私は円城寺さんにならって縁側に腰かけた。隣、というにはすこし離れた、やはり縁側の隅で、画集の方を開く。

 画集のようなそれは、画集のようでしかし画集ではなくて、鳥の絵が種類別に名前とともに記されている。空や海といった背景はなく、それぞれの鳥の絵だけが白黒で緻密に描かれている。私はそれをじっくり眺めながらゆっくりと頁を進めた。思った以上に、いや思っていた何倍も面白い。ただ鳥の絵とその名が記されているだけだというのにこんなにも面白いのか。頭部から嘴、翼、爪先に至るまで細かに描かれている鳥の絵は、どれだけ見ていても飽きない。そんなふうに思って、文字や絵の読みづらさにふと顔を上げた私は、驚きのあまりびくりと肩を震わせた。

 すっかり日が暮れてしまっている。これはいったいどういうことだろう。

 私の隣で、円城寺さんが顔を上げてさっきの私とまったくおんなじようにびくりと肩を震わせた。円城寺さんがゆっくりと私の方を見る。私はまだなにがなんだかわからない状態のまま、

「時間……」

と呟いた。そこでぼーんぼーんと居間に置かれた振り子時計が規則正しく鳴り響く。時計の音と奇妙な静寂がそこへ充満するなか、ふいに円城寺さんがくっと笑い声を漏らした。

(え、うそ、今笑った?)

 彼だっておそらく人間なのだから笑うこともあるだろうとは頭では理解できるが、今目の前で起こっていることをたやすく受け入れられるかどうかはまた別の話だ。

 円城寺さんは顔の下半分を本で隠しながらすみません、と一言謝ってきた。

「でも気持ちはよくわかります。私もよくやるので」

 今のこれを? …… なんだかよくわからない。

「夕飯の時間ですね。続きはあとにしましょう」

 やっぱり変な人だ。そう思いながら立ち上がる円城寺さんと一緒に本を持ち立ち上がる。

 変だけれど、不信感や不快感はない。彼に借りた本を見つめながらふと、私は地方の女学校にいた時のことを思い出した。

『薫子ちゃんって、笑わないよね』

『ねえ、ちょっと笑ってみてよ』

 幼い頃から幾度も目の前で繰り返された言葉だ。なんの悪意もない言葉なのだろうが、いや、だからこそ――

『なに考えてるか、わかんないよね』

 どん、と重たい音とともに本が私の手中からすべり落ちた。音に振り返った円城寺さんが「大丈夫ですか」と足元にしゃがみこんだ。

「薫子さん?」

 笑わないと決めていたわけではない。

 けれど、そうやって指摘されるごとに、どんどん顔はこわばっていった。父に、母に、たったひとり置き去りにされてなお、泣けなくなるくらいには。

「…… 無理することはないですよ。目標のためにがんばるのと、なにかに押されて無理するのは違います」

「っでも」

 今日まで、自分はどこかおかしいんじゃないかと思って生きてきた。人間として、人として、あるべきものが備わっていないのではないか、そういう不安のなかでは、体はますますこわばっていくばかりだった。

「こんな状況で、泣けないのはおかしいですよね……」

 円城寺さんは、不意を突かれたような顔で私を見ていた。今日は、円城寺さんの表情がよく変わる。あくまで普段と比べれば、だが。

 彼はいつもの無表情に戻っていた。そして私の顔をしばらくじっと見つめると、

「さあ」

と一言だけ、そう口にした。

「おかしい、というのは個人の主観でしかないし、私があなたにそう断ずることはできないししません。同時に、あなたが私に対して変だ、変わっていると感じたとして、口に出さない限りは自由です」

「…… 口に出した場合は?」

「………… 傷付きます。私が」

 今度は私が本で顔の下半分を隠す番だった。

 さあ、などという、誰かが聞けば突き放すようで、別の誰かが聞けば無関心であるかのような、無機質で硬く、氷のように冷たい声はしかし、私にずっと触っていたいと思わせるには充分だった。

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