第2話

 不思議なひとだった。

 少なくとも今まで私の周りにいた大人とはまるで違った。

“これからさき、なにがあっても私があなたを愛することはないでしょう”

 あの場で泣いてしまった私も私だが、あの人もあの人だ。普通、お見合い相手に、お見合い相手でなくても、目の前の人間にあんなことは言わないだろう。でも、あの一見冷たく突き放すような言葉は私には、どこまでも誠実で、なによりも優しい言葉のように思えた。

 お見合い相手の目の前で泣くという大失態を侵してしまった私のもとに快諾の返事がきたのはそれから一週間後のことだった。お見合いというもの自体が初めてであった私にはそれが一般的に早いものなのか遅いものであったのかわからなかったが、私がきっと駄目だったのだと思った矢先のことであった。

 三月と経たないうちに婚儀がとりおこなわれて、私は彼と結婚した。

「う……」

 式の後、まだお酒の飲めない私に代わって幾人かの大人たちに山ほどお酒を飲まされた円城寺さんは、切羽詰まったようなうめき声を漏らしながら控えの間に戻るなりくずおれた。

 顔は真っ赤で、熱が出たのとは少し違うような苦し気な表情で、なんだか今にも死にそうに見える。

「お水、飲まれますか」

 私が尋ねると円城寺さんはゆるゆると首を振った。

「…… 私のことは気にしないで……、あなたも休んでください。疲れたでしょう」

 まるで拒絶するかのように目を逸らされては、引き下がるしかない。なにせ、会うのは今日がたったの二度目なのだから。たったの二度しか会っていない相手と一緒に暮らすことになるだなんて、以前の自分に伝えても受け入れてもらえないだろう。

 私は着替えを終えると、円城寺さんのいる部屋の前に戻って戸をそろりと開けた。畳の上に転がる生気のない顔に、私は一瞬縮みあがった。顔にはお酒で赤みが差しているのに、くせ毛ぎみの長い黒髪がまとわりついたそこは陶器のように白く、死人のようにすら思えた。お酒に酔った人というのはみなこうなってしまうのだろうか。

「―― 子……」

「はい!」

 突然名前を呼ばれて、びっくりして反射で返事をした。

 円城寺さんの爬虫類のような、鋭い瞳がうっすらと開いて、私をとらえた。

「…… 薫子さん」

「はい」

「休んでくださいと、さっき……」

 長い前髪の隙間から見つめられると大抵の子どもは怯えてしまいそうだ。でも今は、お酒のせいかなんだか覇気がない。

「あの、お布団がここに二人分あると聞いたので」

「…………」

「お布団敷きますね」

 部屋の隅に置かれていた二組の布団をふたつともその場へのべてしまうつもりで動き出すと、円城寺さんが邪魔にならないようにか部屋の端によりながら口を開いた。

「いいですよ、ご自分のだけで。私は自分で」

 すらりと開けられた窓からひやりとする風が吹きこんでくる。円城寺さんの長い髪の毛がなびく。

「以前も言いましたけれど、あなたは私の妻としてなにかを為そうとする必要はありません」

 どういう意味なんだろう。お見合いの時にも思ったけれど、やはりわからない。重ねて言うほど大事なことなのだろうか。円城寺さんは戸惑う私の横に来たかと思うと、布団を壁に沿うようにして乱雑に広げた。横になれさえすればいいとでもいうような大雑把さだ。私側の布団と、彼の布団の間には剥き出しの畳が深い溝のように存在している。

「私の家に来ても、あなたの過ごしやすいようにしてください。その権利があなたにはある。―― 電気消します」

「あ、はい」

 私が布団を広げたのを見て円城寺さんは部屋の電気を消した。

 やっぱり変な人だ、と思いながら私は目を閉じた。



 円城寺さんの家に住まわせていただくにあたって、約束したことがふたつある。

 ひとつは、学業をおろそかにしないこと(ただし、諸々の事情により本人の意思で学校を辞めた場合はその限りではない)。円城寺さんは、出ておいて損はないからと私の意思を確認したうえで帝都の女学校に通うように勧めてくださった。私はこの春から帝都女学校の生徒になる。本当なら今年から最終学年だったはずだが、休学していたためもう一度四年生だ。

 もうひとつは、家の北側にある円城寺さんの部屋には入らないこと。ならびにその付近の区域にも立入禁止。ちなみに炊事も洗濯も通いの使用人の方がやってくださっているようで、私の出る幕はない。ついでに休学中に伯母さまに教え込まされた一通りの家事のノウハウも出る幕なしだ。

 そんなわけで、この家に来てからこっち、私は勉強ばかりしている。

 そして基本的に円城寺さんは朝は起きていらっしゃらない。この家はちょうど口という漢字の上の部分を取り払ったような形をしているのだが、私の部屋として与えられた南側の窓から円城寺さんの部屋が見えるのだ。といってもわかるのは電気がついているかいないかくらいのもので、円城寺さんの部屋の電気はここ数日ずっと夜遅くまでついている。ここに住み始めたばかりの私には、それがいつものことなのか、最近に限った話なのかわからない。

 私は毎朝、一応円城寺さんのいる北側に足を向け、立ち入りを禁じられている境界線のそばで行ってまいりますと声をかけて出ていくことにした。まだやりはじめて三日ほどだが、返事はないので寝ているのかもしれない。

 女学校までは徒歩だ。少し歩くが、以前自分の家から通っていた時に比べれば大した距離ではない。

「薫子さん、おはよう」

 時折人や馬車が行き交うなか、女学校に近づくにつれ多くなっていく人の間から聞こえる声に、私は振り返った。

「綾乃ちゃん」

 おはようと返しながら私は意図的でなく顔をほころばせた。彼女―― 綾乃ちゃんこと四辻綾乃ちゃんとは小学校が同じ、いわゆる幼馴染みだ。とはいっても私が八歳のときに彼女は引っ越してしまったので会うのは実に八年ぶりのことだった。

「―― そういえば、昨日のことは他の誰かにも話したの?」

「ううん、綾乃ちゃんだけ。先生は知っていらっしゃるけど」

 私は昨日、こうなったいきさつを綾乃ちゃんにだけ説明した。私が答えると綾乃ちゃんは神妙な顔で頷いた。

「それがいいと思うわ。結婚してるってだけで物珍しがる人は多いし、円城寺って名前は昔流行った天才画家と同じくらい有名だもの」

「そうなの?」

「まあ、噂だけね。あまり気にすることはないと思うわ」

 綾乃ちゃんは落ち着いた表情で、私を安心させるように言った。たった一歳だけれど、私よりも年下とは思えない。

 名字は円城寺さんのはからいで学校には旧姓のまま籍を置かせていただいている。噂の内容は知らないが、そういった部分を考えてくれてのことだろうか。どんな噂があるのか多少は気になるところだが、綾乃ちゃんの言う通り円城寺さんの方から直接言われたことでもない限り気にする必要はないんだろう。

「うん、ありがとう。やっぱり綾乃ちゃんに一番に話して良かった」

 私がそう言うと、綾乃ちゃんは少し照れたように頬を染めた。

「私も、薫子さんに一番に話してもらえて嬉しい」


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