手紙
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『本浄瑠璃へ』
きっかけは、やっぱりあの岬での会話だったんだ。
『私のことを忘れないで、なんて言いません。
全部のことを覚えていて、なんておこがましいことは言いません。
たった一つで構わないんです。
私と出会ったことを、過ごした日々を、会話の内容を、一つでいいから忘れないでください』
知っての通り、僕もあまり華やかな学生生活を送ってきたわけじゃなくてね。
君と出会う前も、君が消えた後も、中身がなくてつまらないものだった。
こんなことを言うと誇張していると思われるかもしれないけれど、君と出会った数か月が、僕にとっての全てだったんだ。
だから君と初めて話した時のことも覚えていた。
君は結局エネルギーの保存について理解できていたのかな。
あの時確かに、君はそれを美しいと言った。
世の中に綺麗なモノが生み出されて、同じだけ汚いモノが失われていく。そんな法則が。
けれども、僕らが知っているあの<法則>は、エネルギーの保存則とは真逆だったんだ。
世の中の綺麗なものがプラスであるとして、汚いものがマイナスであるとするならば、それは等価ではないだろう?
そんな式は、君から言わせれば『美しくない』んだろう。そう思った。
だから僕は考えた。この世界から消えているものは、もしかするとこの世界に生み出されたものと同じくらい綺麗なものだったのではないか、ということを。
だって、僕にとって、本浄瑠璃はとても『綺麗な』存在だったから。
他の誰もが『汚い』と罵ろうと、僕だけは君が『綺麗』であると知っていた。
その細い体躯も、憂いをたたえた瞳も、勉強ができないけれど聡明な頭も、世界に怯えながらもその世界を愛す心も、全てが綺麗だった。
もちろん初めはこんなの詭弁だと自分でも思った。
世界の法則がそんな簡単に覆るはずがない、そう思った。
だけどどうしても、本能がその仮説を拒むことができなかった。
だからそれを確かめることにしたんだ。
そんな事だけを考えていると、いつの間にか何十年も経ってさ、僕は気付けば大人になっていた。
けれども今一つ、世界の法則を理解できずにいたんだ。
もちろん、僕に何か原因があるのはわかっていたのだけれど、それでも確かな答えを掴めないままでいた。
そんなとき、あることがきっかけで、僕は変わることを決意した。
もう少し<世界>に近づこうとしたんだよ。君の言う通りに。
僕は自分の外側の色々なものに向き合い始めた。
それだけで見方っていうのは随分変わるものだよね。
世界や他者にしっかりと手を伸ばすと、今まで見えてこなかったものが、たくさん見え始めた。
それから、僕の考えていた仮説は足りないんじゃないかということを予感し始めた。
こんなに長い間同じ仮説を考えておいて、それなのにこんな簡単に言うことが変わるのは少しおかしな話だけど。
でも、今の自分を信じることにしたよ。そして多分、僕はやっとわかったんだ。
<世界>とはモノの見方なんだと思う。
僕ら一人一人が見ているモノはきっと、全ての真実のうちのほんの一部でしかない。
そんなほんの一部を見て、僕たちはそれを見定めなければならない。
だから、綺麗なものに気付かないことは往々にしてある。
世の中から消えたものをみんなが汚いと思っていたのは、そういう理由だったんだ。
そして、ふとした時に、それがとても綺麗なものだと思えるんだろう。
僕にとっての本浄瑠璃が、そうであったように。
そこまでわかってやっと、君が最後の最後に言ったことを思い出した。
『きっと、この世界はね、わたし達の場所や見方で、良くも悪くも見えるんですよ』
君はもう答えを言っていたんだ、そんなことに今更気付いたよ。
僕は君のために、世間から見れば大して価値のない研究をずっと続けてきたのかもしれない。
もしかすると、みんなからはこれまで以上に、歴史に残る笑いものにされるかもしれない。
それでもいいんだ。
僕には名誉も真理も必要ない。
世界の仕組みなんてどうだっていい。
ただ、君が要らない存在なんかじゃなかったこと。
醜い存在ではなかったこと。
君が、誰よりも綺麗な存在だったこと。
ただ、それだけを示すために何十年も費やした。
そんなことに全てを費やした僕は、無価値だっただろうか?
価値があるかはわからないけれど、
ここから記すことが、せめて意味があるものになれば良いな、と思う。
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そして、のちに『世界一美しい公式』と呼ばれるそれが生み出された日、
ひとりの綺麗な人間が、この世界から姿を消した。
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