3-2 8/23(ii)
「…………っ」声にならない声が零れる。
本浄はいままでに見たことのないような悲しい表情をしていた。同時にその表情は、いつもの悲しそうな本浄であるような気がした。いつもの<世界>の冷たさに、いつも通り傷ついているような気がした。ああ、やっぱり<世界>はこんな風だったな。僕も彼女と同じように、いつも通りそれに絶望した。
本浄はそのまま無言で踵を返し、教室から離れた。誰一人として、本浄のことを心配する人間はいないように見えた。
あーあ、と悪い笑みを浮かべながら当事者の肩を叩く人。
言い方があるでしょ、ねー。そう話す女子のグループ。
ちらりと入り口を見たが、すぐに手元の本に視線を戻す眼鏡の委員長。
「もうちょっとオブラートに包めばよかった」当事者はそう言った。
僕はその日、初めてクラスメイトを殴り、初めて学校を抜け出した。
急いで校舎中を走り回り、一通り確認が終わった後、それが無駄だという事に気が付いた。学校はいま、彼女にとって完全に敵意を持った<世界>になってしまっているのだ。きっと一秒だってこんな場所に居たくもないだろう。そんな場所に対して嫌気が指したし、そんなことに気付けずに時間を無駄にした自分に吐き気がした。
外に出ると雨が降っていた。お構いなしに僕は自転車を走らせた。彼女の行く先を考える。よく考える。彼女を見下す誰かが彼女を傷つけた。言葉が彼女を傷つけた。だとすれば、彼女は何に縋るだろうか。言葉による繋がりに怯えたその先に、彼女は何を求めるのだろう。
僕は一つの可能性に懸けて走った。
東公園に行くと、本浄瑠璃はそこに居た。屋根付きベンチに座っていた。猫を抱えて座っていた。いつかと同じ雨宿りをしていた。けれど、ここに来るまでに傘を差していなかったようで、髪は濡れ、ブラウスは肌に張り付いている。
「……自分でも同じことを思っているはずなのに、誰かにそれを言われて傷つくなんて。わたしって、やっぱりあまのじゃくですよね」
本浄がそう言う。僕に向かって言っているのではなかった。抱えた猫に向かってそう囁いていた。僕の存在を認識していないみたいだった。今の彼女にとっては、言葉を理解できない生き物の方が、よっぽど安らぐのだろう。それは悲しいはずなのに、美しい真実であるように思えた。
名前を呼ぶ。本浄は一瞬ピクリと震えたが、こちらを向くことは無かった。
「ああ、最後の日ぐらいは、日向野くんに会いに行こうと思ったんですけれど。たとえ失望されていたって、それでも仕方ないことだけど、せめて確認しに行こうって。それなのに、わたし、駄目ですね。関係のない一人の言葉で、こんなになっちゃって」
そのまま抱えていた猫を見つつ、そう答える。
僕は本浄と会話がしたかった。彼女の本音が聞きたかった。あの日の話の続きがしたかった。
「教えてくれないかな、昨日聞けなかった続きを。君が自分を消そうとしている、その理由を」
彼女はこちらを向かない。何も喋らない。けれど、喋らないのではなく喋れないのだと僕は察した。きっと彼女は孤独だから、ここで<自己>以外の何かに目を向けることを躊躇ってしまうのだ。あんな事が起こった後だと尚更だ。同じ孤独であると思っていた僕でさえ、本当に似た者同士なのかわからなくなっている。そして迷った末、考えることを放棄している。
少しだけ悩んで、彼女の手を取った。
僕は自分が孤独であることを知っていた。世界の外側にいることを認めた。自分が彼女と同じ空間にいることを誓った。だとすれば、そんな悲しいままごとを最後まで続ける義務があるのだと感じた。
「今は話す気にならないかもしれないけどさ……身の上話の一つや二つを言いたくなる場所を知っているんだ。そこに行って考えよう」
本浄は何も言わない。
雨に濡れた彼女の手は、とても冷たい。
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