3-3 8/23(iii)
僕らはいくつかの交通機関を乗り継ぎ、山を登った。自転車はどこかに捨て置いた。
その間、長い時間、僕と本浄は一言も言葉を交わさなかった。この沈黙はとても辛かった。僕の行動は徒労に終わるのではないかと不安になった。それでも夜になるのを待った。夜になればきっと、少しはましな方向に進む。たとえ僕が何も変えられなくても、時の経過が何かを変えてくれる。そんな誰かの言葉、今まで僕がチープだと思っていたその言葉を信じるほかなかった。言葉は拒絶しても、僕の手は拒絶していないという事実だけに縋った。
僕らは山の上にたどり着いた。
やがて雨は止み、鈍色の雲は消え、嘘みたいな星空が浮かんだ。それまで下を向いてばかりだった本浄も、やっと顔を上げた。
かつて僕は、こうやって本浄に自分の身の上話をした。彼女が同じようにしてくれることをただ祈った。
「わたし、小学校六年生の頃から、父も母もいないんです」
どれだけ長い時間が経っただろうか、ぽつりと本浄が話し始める。
「あの頃からわたしは内向的で、自分の意見を話さない性格でしたが、それでも人並みに童心を持っていました。ある日、わたしは珍しく遊園地に行きたいと駄々をこねます。父も母も仕事の疲れが残っていましたが、わたしがあんまり喚くのでついには折れてしまいました。父と母とわたしで、車に乗って近くにある遊園地に向かいます」
話し始めると、本浄は雪崩のようにすべてを吐露させ始めた。僕は黙って話を聞いた。
「しかしその日はたまたま運が悪く、高速道路で事故が起こりました。わたしたちの目の前で車と車が衝突しました。その巻き添えとして、わたしたちの車も他の車に衝突してしまいました。わたしは衝撃からすぐに記憶を失ってしまったため、そこからはよく覚えていません。覚えているのは、運転席と助手席は酷く歪んでしまっていたということ、そして死の匂いはとんでもない異臭であるということ、それだけです」
彼女にはもう家族が居ないという事を、この日僕は初めて知った。
「なんの因果かはわかりませんが、最初に衝突した車の運転手は生きていたらしいです。彼の呼気からは明らかなアルコール反応が見られたらしいです」
僕に父親がいないことを察せずに、必死に謝っていた彼女の姿を思い出した。あんなに謝った自分は母親までいないのに。僕の父親と違って、二人とももう二度と会えないのに。
「両親はいつも土日は家でゆっくり本でも読んでいて、わたしも同じようにそうしているか、ときどき近所の図書館に一人で遊びに行くか、それぐらいのものでした。本当にたまたま、年に一回あるかないかのわがままだったんです。それなのに、そのせいでわたしは何もかもを失ってしまいました」
そこで僕は先週彼女と行った場所を思い出した。あの遊園地は彼女にとって、とてもとても大きな意味を持った場所だったのだ。僕の考えていた『行きたくても行けなかった』なんて比にならないほどの感情を彼女はそこに残していた。
むしろ、何もなくなった今だからこそ、やっと彼女はあの地に行けたのかもしれない。
「あの頃からわたしは、自分が要らない存在なんじゃないかと思い始めました。今まではただの役立たずならいいだろう、と思っていたところが、親を殺してしまった罪悪感から一気に壊れてしまいました」
僕は今、彼女が孤独になっていく過程を聞いている。
きっと今僕が感じている痛みは、彼女が本当に感じた痛みの10分の1にも満たないのだろうけれど、それでもこの上なく辛かった。
「幸い、親戚に沢山お金を持っている人がいました。けれども優しい心はそんなに持っていませんでした。わたしは今のアパートに一人で住まわされました。『わたしたちはすぐ近くに住んでいるから』と言っていた彼等は、わたしに何の連絡もなく引っ越してしまいました。こうしてわたしは本当のひとりぼっちになりました。毎月お金がもらえるだけマシだったと言えるのでしょうか」
フィクションみたいな話ですよね、でも本当なんです。彼女はいつも以上に消え入りそうな声でそう言った。
「そんなふうに一人を強いられて、わたしはわがままを言うのをやめました。自分のために、人に何かをしてもらおうとすることをやめました。金銭面を親族に頼ることだけは仕方ないとして、それ以外で誰にも頼ることなく生きようと決めました」
彼女が連絡手段を持っていないことが脳裏をよぎる。頑なにそれが必要ないと言っていたのは、ふとしたとき誰かに助けを求めないようにしたかったからだ。帰りが遅くなっても連絡の必要が無いのは、そもそも連絡をするような人間がいなかったからだ。これまで交わした彼女との会話が、すべてむき出しの腫瘍であったことを知った。
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