2-11 8/9(iii)

 帰り道、僕の家の方が近かったので、そちらから先に回った。

「今日もありがとうございました、日向野くん」

 カメラをケースに入れたまま肩に下げている本浄。それが落っこちないように気を遣いながら、小さく頭を下げた。

「あのさ、別れ際なのに申し訳ないんだけどさ、一つだけ質問をしていいかな」

 僕はしばらく黙っていたが、やっとの思いで一つの質問をすることを決意した。

「はい、構いませんよ。どうしましたか」

 本浄が頷く。僕は一つ息をついた。

 ここからは僕にとっても、本浄にとっても、決して面白くないものであるだろう。けれど、僕は答え合わせを求めた。


「本浄、昨日の夜から今日にかけて、なにか夢を見たんじゃないの」

「はい、見ました。でも、それがどうかしたんですか」

 突然よくわからない話をしてきた、というような困惑を本浄はそのまま顔に浮かべていた。

「僕も夢を見たことがあるんだ。小さいころ、ピアノの発表会があってさ」

 夢、という話に本浄がぴくりと反応する。それは彼女にとってある程度重要なキーワードであることが示された。

「……それはそうでしょう。夢なんてしばしば見ますよ、多くの人は」

 本浄は何かに気付いたようだ。けれども、何もわかっていないような反応を取り繕った。

「主観的に見ても、客観的に見ても、間違いなくあの日の僕の演奏は完璧なものだった。勿論プロには遠く及ばないけれど、子供の演奏にしては上手くできすぎているぐらいのもので。審査員も手放しで褒めていた」

「はい」本浄は相づちを打つ。

「その日の夜、たぶん君と同じような夢を見た。何か懐かしいような、けれども今となっては思い出せない、他愛もない夢」

「それが、どうかしましたか」本浄はおそらくすべてわかっている。それなのに、そんな返事をした。

「そして、僕が練習に使っていたピアノの鍵盤がひとつ消えたんだ。それも一番汚れていたやつが」

 あの日の、あの感覚は、何か美しいものを生み出すことに成功したサインなのだと。

 そしてどういう理屈かはわからない。だけど、あの夢はそれに関連するものなのだろう。それは確かだ。

「僕がピアノをやめた理由、話してなかったよね。それがこれなんだ。<法則>が発動したからなんだよ。それがなんとなく嫌で、そのあと鍵盤に触れなくなった」

 本浄は黙ったままだった。唇を少しだけ動かそうとして、結局何も喋らなかった。きっと喋れなかった。

「それを思い出してから、僕は考えていたんだ。もし、僕と同じように君が夢を見るための引き金が『綺麗なもの』を生み出すことなのだとすれば、君が失っている『汚いもの』は一体何なのだろうって」

 本浄は黙ったままだった。左手でカメラのケースを撫でた。おそらく無意識に。

「君は今日も納得のいく写真が撮れたのかな、いや、何かを消すことができたのかな」

 本浄は何も答えない。


「本浄、君は……何が消えているんだ。いや……何を『消して』いるんだ?」

 言い終えたのち、僕は心の中で少しだけ怯えていた。それなりの時間、僕は待った。これが勘違いであればいい、そう何度も思った。

 やがて待つだけの時間は終わり、彼女が僕の名前を呼んだ。指先は微かに震えていた。

「……わたしとずっと一緒にいたから、そろそろわかってきたんじゃないですか」

「……もちろん、僕が今君にこの話をするのは、おおよそ目星がついたからだよ」

 それは、よく考えたら真っ先に浮かぶべきことだったようにも思えるし、僕が自ら目を逸らしていたことのようにも思える。

「そうですよね、そしてそれはわたしの考えている事実と同じなのだろうと思います」

 彼女の周りにあるものの中で、最も汚いものはなんなのだろうか。最も不必要なものは何なのだろうか。

 できればその答えを彼女から聞きたくはなかった。

 けれども彼女はゆっくりと口を開き、僕の想像しうる「最も望んでいない」言葉を発する。




「ねえ、日向野くん。わたしの周りで、最もこの世から消えるべきものは何でしょうか。一番汚いものは、何でしょうか。


……いや、誰なんでしょうか」


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