国立水族館ペンギン担当
九乃カナ
第1話 ペンギン担当の一日(1)
国立水族館、南極の展示スペース。全面ガラスの壁を隔てて水槽があり、水槽内には南極に住むペンギンが展示されている。エンペラーペンギン、キングペンギン、アデリーペンギンの三種だ。
南極はあまりに寒く菌やウィルスが存在しない。そのせいで、南極に住むペンギンは菌やウィルスに耐性がない。ヨーロッパ人がやってきたときのアメリカ大陸の人たちみたいなものだ。ペンギンの生命を守るため、飼育員は水槽にはいるまえに滅菌済みのパンツとジャケットに着替えなければならない。
水槽内は気温マイナス三度。冷凍庫よりはいくらかマシだけど冷蔵庫より冷えている。空気も水も冷やされているにもかかわらず、水の匂い、ペンギンたちのフンの匂いが充満していて臭い。飼育員は、寒さと臭いに耐える覚悟を決めて水槽にはいってゆかなければならない。消毒薬のプールを歩いて長靴の消毒もする。
アデリーペンギンたちが壮介に気づいて襲いかかる。餌のはいったバケツを床に置いて、せかされて与える。キングペンギンもノコノコやってくる。キングペンギンの餌は小型のアデリーペンギンのものと魚の種類がちがう。アデリーペンギンの給餌が終わるまで、しばらく待たせなければならない。
給餌のときに、体調の悪そうなペンギンがいないかチェックする。食欲がないとか、羽のツヤがないとか、そんなペンギンがいないかを見ながら一羽一羽餌を与える。同時に、大まかながらも各ペンギンに均等に餌をわけることも大切だ。そうすると、事前に立てた計画通りに給餌できる。
キングペンギンとエンペラーペンギンでもやることは同じだ。体が大きいから、合わせて餌もホッケなど大きい魚を与える。
この水槽の照明は、南極の現在の日照に合わせて抑えてある。時間による変化も機械の制御により再現される。ペンギンたちは、ペア形成、産卵、換羽などのタイミングを日照から知る。照明の管理は重要だ。ちなみに、ネコの換毛と違って、ペンギンの換羽は年に一度だけ。
水槽から観覧フロアの様子が目に入る。大学生らしい女の子が、階段状になった観覧スペースに腰かけている。スケッチブックに向かってなにやらスケッチしているらしい。このところ毎日のようにやってきてスケッチしていることに、壮介は気づいていた。毎日通うには、入場チケットを買っていては出費がかさむ。年間パスポートを持っているのだろう。熱心な子だ。どんな絵を描いているのか気になる。
キングペンギンのあとに、エンペラーペンギンに餌を与える。エンペラーペンギンは、ひとりぼっちで立ちつくしている。壮介が近づいてバケツをとなりに置いても反応がない。餌をくちばしにもっていって食べさせる。いつものことだ。あまり食に興味がないらしい。
エンペラーペンギンは国立水族館にこの一羽しかいない。両親は、日本の和歌山にあるアドベンチャーワールドにいる。アドベンチャーワールドはペンギンの飼育など広い分野で国立水族館と協力関係にある。壮介は、一年間アドベンチャーワールドで研修を受け、エンペラーペンギンの育雛と飼育を学んだ。研修終了時にエンペラーペンギンの卵をゆずりうけ、ペンギン担当飼育員の中心となって卵を孵し育雛した。このエンペラーペンギンは、壮介にとって子供みたいなものだ。ペンスケという名前を勝手につけて呼んでいる。正式名はアルファベットと数字でできた味気ない記号に過ぎない。
一日の仕事が終わって自転車で家まで五分。水族館のある群馬県館林市にアパートを借りている。
壮介はペンギン担当の飼育員ではあるけど、実は冷え性だ。水槽の中は寒いし、職場でも夏の時期はクーラーが効いている。家でもクーラーを使う。寝ている間もつけっぱなしにするくらいだ。夏にクーラーで涼しいのは快適だけど、体の芯まで冷える気がする。冬場はもちろん、夏でもゆっくり湯船につかって、体をあたためることをせいぜいの日課としている。
風呂からあがったら、クラゲの水槽に餌をいれてぼーっと眺める。ふわりふわり水中に浮かびながら、時折パクッと傘を閉じる。見ていて飽きないし、ソファに体を沈めてクラゲの水槽を見ていると、気分が落ち着いてきてよく眠れる気がする。
朝出勤すると、はじめにじっくり時間をかけてコーヒーをいれる。壮介は一杯十九円のレギュラーコーヒーを愛飲している。安いからといってバカにできないおいしさだ。二杯分のコーヒーをマグカップにつくる。コーヒーをすすりながら、デスクのパソコンの電源を入れてログイン。これで始業の時間までノンビリする。
朝礼のあと仕事ではじめにするのは、ペンギンたちの様子を見に行くことだ。すぐに対処しなければならないことがあれば、仕事の優先順位がかわる。変わりなければ、水槽の掃除をする。
壮介は掃除が好きだ。つい掃除に集中してしまって、時間が経つのを忘れることがある。自宅の掃除もおなじで、休みの日のかなりの部分を費やして掃除したりすることがある。ルンバがほしいと思っているけど、狭い部屋に家具をつめこんでいる。ルンバがやってきても、掃除してもらう場所があまりない。あれは広い部屋に住んでいる人のためのロボットだ。
掃除のあとは、給餌。壮介は人間の顔と名前を覚えるのは苦手だけど、なぜかペンギンの顔と名前はすんなり覚えることができる。名前といっても記号にすぎず、顔を覚えなくてもフリッパーにとめてあるバンドを見れば見分けられる。抵抗の値みたいなものだ。一羽一羽区別しながら餌を与える。
給餌のために水槽にはいってゆくと、また学生らしき女の子がスケッチしているのが目に入った。なにを描いているのだろう。ペンギンに決まってるか。どんな絵になっているのだろう。
給餌のあと、観覧スペースまで出張してきた。端の方から段をあがって、学生の横にまわりこむ。スケッチブックをのぞくと、ペンギンのいろんな姿をスケッチしていることがわかった。訓練されていて、すごくうまい。
「あの、ペンギンを描いているんですね」
「え?」
女の子が横から話しかけた壮介を見上げる。ドキッとするくらい綺麗な目をしている。
「あ、すみません、邪魔してしまって。ちょっと絵のぞいちゃったんですけど」
「いいです。飼育員さん」
「エンペラーペンギンを描いてるんですか?」
「そうなんですけど、なかなか思うように描けなくて」
本人は意識していないだろうけど、すこしの表情の変化が壮介に悲しみを訴えかけてくる。
「どういうところを?」
「水中を飛ぶように泳ぐところなんですけど」
「ずっと突っ立ってるだけで描けないと」
ペンスケは水嫌いだ。本当は水にはいって泳いだ方がいい。立ってばかりいると足が血行不良になったり、羽毛によごれがたまったりしてしまう。
「何日も通ってるんですけど。なかなか」
知っている。壮介もつられてトホホな気分だ。
「よかったら動画で見ます?」
「いいんですか?」
「でも、期待しすぎないでください。いまインターネットで動画を検索すればいろいろ出てくるから、そっちのほうがいいのがあるかもしれません。アドベンチャーワールドにもエンペラーペンギンいるんで。それに、本当に南極で撮影した映画もあります」
「大丈夫です。お願いします」
かわいい女の子に、魅力的な目で見つめられてお願いされると、なんでもしたくなってしまう。
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