0は輝く

ひなた

第1話 不良生徒の作り方


「人とは違う意見を持つべきです。大事なのは多様性なのです。私達はソメイヨシノを反面教師にすべきなのです」

 午後一番、生物学の授業中に、隣の席に座る幼馴染である瀬戸唯奈は、さも自分の言葉のように流行を語った。なんでも全てのソメイヨシノは同じDNAを持つクローンで、ちょっとした病気や環境変化で絶滅する恐れがあるそうだ。理論は納得できるが、借り物の言葉だから説得力がないと思う。

 それに僕は、植物の生存戦略を人の営みに当てはめるのは間違っていると思う。集団生活の場においては、人と同じ方が都合が良い。人間社会では共感能力こそが必須スキルなのだ。だから多様性を強制し、無理に人をカテゴライズするのは不自然だ。ある程度人生経験を積んだ高校生にもなればそのくらい百も承知で、本来ならば、ほとんどのクラスメートはこの理想論を鼻で笑うだろう。

 だが、この女が発言するのは非常にまずい。

 瀬戸唯奈の外面を端的に表現すると清楚系お嬢様である。手入れの行き届いた黒檀のような艶やかな黒髪は、何色にも染まらない純粋さを醸し出す。白磁のように透明感のある肌は、その白さのあまり青く見える。けれど体育の授業で少し息が上がるなど興奮すると、その青白は瞬く間に情熱的な赤に染まるのだ。その扇情的な様子は多くの男を惹きつける。それが僕にとっては非常にまずい。

 彼女の発言を受けて、生物学の教師である白衣を纏った中村翔悟は、凛々しく引き締まった頬を緩めた。今日も大変麗しい。この笑顔が僕に向けられていたならばどれほど幸福だっただろうか。

「さすが瀬戸さんですね。僕の授業を正確に理解した上で、それを咀嚼して自分の意見へと昇華させている。本当に素晴らしい。」

 滅多に表情の変わらない翔悟先生は嬉しそうに目を細めて、瀬戸唯奈を褒め称える。

 あぁ、彼女は大人の教師までもを虜にしてしまうのだろうか。無意識的に唇を噛み締めていたようで、口の中に錆びついた血の味が広がる。それは舌先から全身を隈なく巡り、興奮で息が荒くなる。僕はバレない程度に横目で彼女を睨みつけた。

 

 授業終わりの小テストは落第だった。集中して授業を受けることができなかったためである。これは偏に翔悟先生に色気を使うあの女のせいに違いない。


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 生物学の授業終わりの休み時間、僕はどうしてこんなことになってしまったのだろうかと、弱気な自分に落胆しながら、学校の屋上に立っていた。開けた視界には澄んだ青空が覗き、春の穏やかさを含んだ陽気は滑らかに肌を包む。それなのに、絶対零度の眼差しで僕を睨みつける存在が春眠の邪魔をする。

「それで?一体私に何の恨みがあるわけ?」

 唯奈は、ドスの利いた声でじろりと僕を睨む。僕は背中に冷や汗を垂れ流しながら、怖くなって目を伏せた。彼女と面と向かって話をするのは、随分と久しぶりだ。どうして、こんなことになってしまったのだろう。


 つまりこういうことだ。生物の授業が終わった後、隣の席から不穏な空気感じ取った僕は、トイレに逃げ込もうと席から立ち上がった。だが直後、後ろから強く制服の袖を掴まれた。それは獲物を捕らえたライオンのように無慈悲で、すぐに逃げることは不可能だと悟った。徐に振り返ると、唯奈が天使のような微笑みを浮かべていた。

 物事の上っ面しか見えていないクラスの盲者どもは、口々にヒューヒューと騒ぎ立て始めた。思春期の男女はどうして、物事の全てを色恋沙汰に捉えてしまうのだろうか。どうしてあれが見えないのだろう。黒々とした目の奥で揺れる憤怒の炎が。

「赤羽荊君、ちょっと込み入った話があるのだけれどよろしい?」

 彼女は血に飢えたバンパイヤみたいに真っ赤な唇をつり上げた。僕は殺戮の天使を刺激してしまったことを、今更ながらに後悔した。


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「言いたいことがあるのならば早く言いなさい。」

 唯奈はイライラとした様子で、僕を見つめている。僕は、本当にどうして良いかわからない。

 麗らかな陽気を内包した東風が、彼女の髪をなびかせる。すると甘酸っぱいカシスのような香りが、風に乗って、僕の鼻腔を震わせた。この匂いが男を惑わせるのだろうか。そしてこいつは違う、そう思った。どう違うのか説明するのは難しいのだが、はっきりと他の女とは違うのだ。彼女はとても、夜の気配がする。何人もの男とベッドを共にしてきた、そんな魔性の女に思えた。恋だの愛だのに、きゃあきゃあと騒ぎ立てる未成熟でぼんやりとした僕らとははっきりと違う。何というか、とてもくっきりとした輪郭で、腹がたつ。すると胸の内から自然に言葉が吐き出された。

「お前、ビッチだろ」

 言ってしまった後で、後悔の2文字がぐるぐると頭の中で渦を巻く。僕は知っている、人を傷つける言葉は反発力が高く、きっちり自分に返ってくるのだ。中学時代は、それで失敗して何度もひどい目にあった。それなのに、また同じ失敗を犯してしまった。

 慌てて、あ・・え・・と言い訳をしようとして、その時初めて唯奈の顔を見た。

 彼女は能面のような顔で、何言ってんねん、こいつ、という感じで僕を見ていた。

本当にどうしよう。

「今のは、語弊があるというか・・その・・」


 ビシッ! 唐突に空気の裂ける音が聞こえた。唯奈が人差し指を僕に突き立てている。僕は、その人差し指が心臓に触れている心地がして、冷や汗が溢れる。

しかしそんな僕に構うことなく、血色の良いふっくらとした唇は開かれる。


「あなた、中村翔悟先生のことが好きなんでしょ」

 僕は驚きのあまり言葉を失った。ぽかんとした僕の間抜けヅラを見て、唯奈は盛大に吹き出した。

「ちょっと何を言ってるのかわからない・・かな」

 言葉を発した直後から、毛ジラミが湧いたかのように頭が疼きだす。それを消えろ、消えろとガリガリ掻きむしる。

 普通を第一に掲げている僕が、恋愛において男の人を好きになるはずがない。絶対にありえない。この女は一体全体何を根拠にそんなことを言っているんだ。

「自慢じゃないけどね、私は男にモテるのよ。これまで何人もの素敵な男性と体を重ねてきたわ。そうね、時には彼女がいる男となんかも。だから、わかるの。」

 興奮して赤みを増した唯奈の口元に汗の雫が流れ落ちる。彼女は妖艶な舌でそれをペロリと舐めた。その真紅に心臓が踊らされる。はぁっはぁっ、息継ぎが早くなる。頼むからそれ以上は言わないでくれと、願わずにはいられなかった。

 だが、唯奈はたっぷりと間を空けてから言い放つ。

「嫉妬に駆られた女の視線がね」

 

 瞬間、僕は唯奈の胸ぐらを掴み上げていた。この女の言葉が、紛れもなく真実を言い当てているような気がしてならなかった。そんなことはあってはならなかった。 

 唯奈は苦しげに顔を歪めながら、話し続ける。

「あなたはとても歪、不自然だわ。」

 

 僕は彼女の胸ぐらを掴む手にさらに力を込めた。汚れと無縁の真っ白な制服が波打ち、谷間にいくつもの影ができる。

 不自然・・それは僕が一番嫌う言葉だ。

「それは俺が男の癖に、男が好きなことか?」

 そうやって俺を見下し、憐んでいるのだろう。

 だけど唯奈は、僕の言葉を否定するかのように、ふるふると首を横に振る。


「あなたが必死に自然を装っているところよ」

 僕は一瞬何を言っているのかわからなくなって、彼女の胸ぐらを掴む手の力が抜けた。

 だって、社会から爪弾きに合わない為に、自然を装うのは当たり前のことだろう。

 その一瞬の隙に、彼女は体を翻して、僕の拘束から逃れる。そして宣言する。

「私は自分が自然に見えるように努力してきたからわかるわ。あなたは、とても周りから自然に見えることを意識していることがね。だけどね、根本的な所で私とあなたは違う。私が自然を演じるのは、男の人にちやほやされたいからよ。言ってみれば、自分の欲求を叶えるためね。でもあなたが自然を演じるのは、不自然を隠すためね。私に言わせてみれば、こんなにも不自然なことってないわよ。自分の心に嘘をついているのだもの。これは、あなた自身の人間性の尊厳を傷つける、最も悪質な自傷行為よ。」


 彼女の言葉は、熱を宿した火種の様だ。心を閉ざすろうの壁がメラメラと焼け爛れていくのがわかる。その炎は積み上げてきた虚飾すらもばらばらと空中分解させるだろう。

「・・・・・・違う・・・・違う・・違う! 俺は自分の矛盾を隠すために、自然を意識しているんじゃない。俺もお前と同じだ。社会でより良く生きるため、欲求に忠実に生きるためだ!」


 あぁ、熱い。目の前が焼けるように熱い。どうしてこんなに熱いんだ。冷静になれよ。必死に抵抗して、馬鹿みたいだ。それじゃあ・・まるで俺が図星を突かれているみたいじゃないか。

 唯奈はそんな俺を嘲笑うかのように言葉を続ける。

「じゃあ中村翔吾先生は私が美味しく頂くわね。私の手にかかれば、彼を落とすことは難しいことではないわ。あぁっ! とっても楽しみ! 翔吾先生はとても落ち着いて見えるけれど、私にはわかる! ベッドの上ではすごく情熱的よ。」

 ひゅっと喉が鳴った。体は熱いのに、寒さで凍えるようにガタガタ震え始めた。心は先ほどからずっと冷静になれよと体に訴えかけているのに、体は正常に戻らない。俺はこの時初めて、心と身体が一致しないことを知った。そして実に不思議だ。中村翔吾先生のことを考えると甘酸っぱい果実の香りで胸が一杯になるのに、どうしてこんなに辛いんだ。この感情の正体は何なんだ。


「それが、恋よ」

 彼女は、ぐちゃぐちゃにかき回された俺の心に終止符を打った。そんな2文字で表せる単純な思いではないと思いたいのに、どうしてもその2文字が頭にこびりついて離れない。

「ねぇ、想像してみなさい。あなたは翔吾先生とベッドの上でシーツに包まれているの。手を伸ばせば触れ合える位置よ。でも彼は必要以上にあなたに近づいてこない。すぐにあなたは我慢できたくなるの。彼の体が欲しくて、彼と交わりたくて仕方なくなるの。きっとブロウ・ジョブだってしたくなるわ。・・あら、どうしたの?」

 先ほどから、純粋を絵に描いたような普段の彼女からは想像もつかないような言葉が次々に出てくる。俺は呆然としてしまって、何も言葉を発せない。そんな俺に、唯奈は耳元でブロウ・ジョブってのは男のあそこを口で弄ぶことよと、しっとりとした声で教えてくれた。俺は今年で17歳になるのに、生娘みたいに頬を赤く染めた。唯奈はそんな俺を見て、初心ねぇと笑った。

「唯奈は、その・・男の人にブロウジョブしたことあるのか?」

 際どい質問に唯奈は間、髪を入れずに答える。

「当たり前じゃない。あなたも本気で恋をしてみればわかるわ。その人の全部が恋しくて、甘い綿菓子に見えてくるのよ。そうなったら食べるしかないわよねぇ?」

 なんて動物的で、自分の感情に真っ直ぐな女なんだ。俺はまた頬を赤く染めた。なんだか彼女が眩しく見えてきた。でも綿菓子って可愛いな。


 唯奈はこれにて一件落着ねと呟いて、胸ポケットからピアニッシモシガレットとライターを取り出し、タバコに火をつけた。品行方正だと信じて疑わなかった彼女がプハァと呑気にタバコをふかしている。だが、不思議と違和感はなかった。寧ろ妙に様になっていると思った。

 大人と子供が混然一体となった不思議な景色をじっと見ていると、視線に気づいた唯奈が、あなたも欲しいの? と目で訴えかけてきた。

 俺はシンナー派だからと、軽いボケを入れて断ろうとするも、翔吾先生は喫煙者よと、素早い動作で口に咥えたタバコを手に取ると、それを俺の口にねじ込んできた。舌が痺れるような苦味に眉を顰めるも、吸口に残る唯奈の唾液はなんだか蜂蜜みたいに甘くて、俺は今境界線上にいる、そう思えた。


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 鞄からスマホを取り出して、ホーム画面に映し出されたのは14:00という文字列、6限目の授業はもう始まってしまっている。数学の授業だった気がするけど、もういいか。雲一つない大海原に雑多な感情は全て溶け込んでいく。

 隣でくつろぐ唯奈は、花柄の可愛らしい小物入れにタバコの吸殻をトントンッと押し当て、大きく欠伸をしている。そのアンバランスさに思わず笑ってしまう。

 そんな大人と子供の境界線上を揺蕩う唯奈はとても魅力的で、俺もそうなりたいと、自然に思えた。しかし、放課後には生物学の小テストの再試が控えており、翔吾先生と会わなければならないことが、心に引っかかっている。逢いたいはずなのに、逢いたくない。相反する感情が胸の内でせめぎ合っている。その理由にはすぐに思い当たる。隣の幼馴染はこんなにも自信に溢れ、青春の煌めきに満ちているのだ。この素敵な女に勝てる気が全くしない。思わず、はぁとため息を一つ吐く。それを聞いた唯奈が、まだなんか悩んでるの? ナヨナヨしててキモいわよと、俺を責める。

「唯奈があまりにも魅力的だからさ・・今のままの俺では自信を持って、翔吾先生にアプローチできないなと思ってな。」

 すると唯奈はピシッっと鉛筆みたいに背筋を伸ばして胸を張る。そして内側に孕んだ熱意を押し隠すように、努めて冷静な口調で語り始める。

「ありがとう。でも私が魅力的なのは当然なのよ。自然に可愛く見せる為に相手の思考、場の雰囲気、自分の行動が相手に与える影響などの様々なファクターを計算し続けているからね。初心者のあなたがこれをするのは不可能。だから私が、すぐに効き目のある処方箋を出してあげるわ。」

 唯奈はそう言って、いたずらっぽい笑みを浮かべた。それは小さい頃、俺を着せ替え人形にして遊んでいた姉貴を彷彿とさせた。


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 放課後、生物学再テストの行われる生物学実験室にて、内心なんでこんなことになっちゃったんだろうなと、元凶である唯奈にわずかな恨みを覚えながら、俺は複数の奇異な視線に晒されていた。

 それもそうだろう。高校生のアイデンティティである黒髪は、ミダスの手に触れられたかのように黄金に変色し、窓から射し込む西日に淡く煌めいている。さらに耳たぶにはシルバーのピアスが鈍く光り、奥ゆかしさを演出している。まさに絵に描いたような不良生徒だ。確かにこれは即効性のある処方箋かもしれない。だが、レールからは脱線した、きっとソメイヨシノは枯れてしまった。こんな俺を翔吾先生はどう思っているのだろうか? 

 ぐっと喉の奥に唾を飲み込み、教室の前に目を遣る。翔吾先生は、劇的ビフォーアフターを遂げた俺を、なんとも形容できない表情で見つめている。

 プラスかマイナスなのかはわからないが、注目は浴びているようだ。今までみたいに0ではない。ならば、方法はいくらでもあるはず。

 目にかかる前髪を横に流し、さりげない上目遣いで翔悟先生にアピールする。すると翔悟先生は、ますます意味がわからないという表情になる。

 翔悟先生の注意が俺に向いていることに心の中でガッツポーズを作りながら、俺は手元の小テストに目を遣る。手始めに、この小テストだ。まずは翔吾先生のことをたくさん知りたい。攻略法を探るのだ。そのために翔吾先生には、俺に特別居残り授業をしてもらおう。絶対振り向かせてやるからな、翔吾先生! 

 小テストの名前欄に赤羽荊とだけ書き、ペンを置く。全てが空白の解答欄は、鬱蒼とした森で覆われた未開地の入り口に立っているみたいで、なんだかドキドキする。この時初めて、解答欄は空白がよく似合うと思った。いや、これこそが解答欄のあるべき姿なのだ。

 俺は小テストで0点を取ることを決意した。


 春という季節は、心の移り変わりと同様に気候の変動も激しい。東の空からは暗澹たる雲海が近づいてきている。今晩は春の嵐になりそうだ。

 湿り気を帯びた生温い微風が、白い桜の花びらを教室の闇に溶かし込んだ。



オワリ⚾️

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0は輝く ひなた @Hinayanokagerou

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