第1179話 【きっと最後の日常回・その15】山根春香さんの「……あの、健斗さん? 気付いたんですけど。その貧弱な腰。治癒スキルで治してもらえば良くないですか?」 ~気付いちゃった春香さん~

 再び日本本部。

 ぶっ壊れた施設の中で唯一まだ健在、かつ稼働中の1号館オペレーター室では、山根健斗Aランク探索員がカタカタターンとサーベイランスを操ってお仕事中。


 日常回時空なのに働き者である。


 否。


 彼は気付いていないのだ。

 もう彼の中では本編時空に入っている感覚が確かに存在しており、それは「いやいやー。今回もナグモさんコレクション増やしたっすねー。これを京華さんに納品しときゃ、自分の仕事も完了っすよ。あとはマジメに働かなきゃっす」という、ある種この環境に適応し過ぎたことによる慢心、そして油断。


 なにせ、日常回時空は3つ遡っても同日という異常事態。

 その時空で3度過ごし、さほどダメージを負っていない山根くん。

 なにせのなにせ、彼は既に腰をやっちまっており、全治は1ヶ月。


 本作戦中もずーっとロキソニンテープを貼って、ロキソニンをキメて、漢方薬はポカリで飲もうとして横にいる嫁さんに怒られた。

 そう、失念していたのである。



 前回の日常回時空で急に春香さん回が新設された事を。

 加えて、前回のタイミングで「ネタ切れ起こして場つなぎに出したうちの嫁さん回なんか人気出ないっすよ」と高を括っていた事を。



 失念したいのは失恋の記憶だが、既婚者の彼はもう失恋などしない。

 恋は愛に変わっており、愛を失う時は聖帝十字陵の建築が終わる時と相場が決まっており、天翔十字鳳が破られて死ぬ時と決まっている。


 この世界は最終決戦に突入してからやや聖帝サウザーを擦り過ぎかもしれない。

 だが、諸君には思い出して頂きたい。


 この世界で最も強きものとは何か。

 そう。


 愛である。


 愛ゆえに人は苦しまねばならぬ。

 愛ゆえに人は悲しまねばならぬ。



 ただ、これを言った人は死にましたね。



「健斗さん」

「なんすか? 春香さ……ん……」


 その時、健斗さんは思い出していた。

 この感覚。

 首筋に冷えた氷柱の先端を突き付けられたかのような寒気の正体を。


「腰、治しましょうか? このタイミングで!」

「このタイミングってなんすか!? 今、戦争中っすよ!? 自分、非戦闘員っすから! ……まさか。……妙っすね。そう言えば、こっちでサーベイランスを散々動かしてるのに何の通信も入って来ないのはおかしいっすもんね。青山さんからクレームが来たくらいっす。……春香さん?」


「腰! 治しましょう! このタイミングで!! だって他の皆さんが愛し合っているのに、私だけ愛し合えないのってなんだか不公平だと思うんです! 私、自分で言うのもあれですけどかなり働いてますし! それなのにろくに描写もされないで!! ですので! ご褒美みたいなものを頂いても良いと思うんです! 旦那様の腰を治したいっていう事情なら鑑みてもらえるんじゃないかなと! 試算結果もこちらに産出しています!」

「なんか産まれてないっすか? ……春香さん? オペレーターとしてその誤変換はまずいっすよ。算出っすよね?」



「産出してます!!」


 こんなに苦しいのなら、愛などいらぬ。



 そんな事は言えない、実は良夫の山根くん。

 ここは春香さん回です。



◆◇◆◇◆◇◆◇



 オペレーターは即断即決。

 新米ならばいざ知らず、ある程度の経験を積めば上の指示を待つ前に独断で動いて一流。


「こちらオペレーター室です。和泉監察官室。応答願います」

「いやいやいやいや! 春香さん! ダメっすよ!? 和泉さんは死んでるんすから!!」


「健斗さん。とっくに産出していると言いましたよね? この謎時空、時々本当に意味不明な時空の歪みが発生して、過去とか未来とかと繋がるんです」

「ちょっと何言ってんのか分かんないっす!!」


 春香さんの端末の右端にあるランプが青く光った。

 監察官室の端末とオンライン状態になった証明の輝き。


『こちら和泉監察官。副官の土門佳純Aランク探索員です。ご用を伺います』

「繰り返し、こちらはオペレーター室。山根春香Aランク探索員です。端的にお聞きします。作戦行動に関わる案件です」


『……っ! どうぞ!』

「和泉監察官に至急こちらへ出頭して頂き、治癒スキルによる旦那の治療は可能でしょうか!!」


 端末の向こうで佳純さんが少しだけ沈黙してから「あ! 作戦行動って、そっちの!!」と謎の納得をした。

 続けて申し訳なさそうに応答する。



『すみません! 春香さん……! 和泉さんは先ほど意識を取り戻しまして、現在は点滴による煌気オーラ回復の最中なんです! 念のためにスッポンを生簀から出して和泉さんの周りをお散歩させていますが、あまり芳しくなく……!!』


 山根くんが「良かったっす。和泉さんが自分のために死ななくて」と安堵の息を漏らした。



 「了解しました。残念です」と告げた春香さんが通信端末のスイッチを切る。

 「残念です」というのはどちらの意味なのか、性的なヤツなのか適正なヤツなのか、これはもう春香さんの胸の内を開かないと分からない。


 春香さんの胸をパージできるのは山根くんだけなので、シュレディンガーの春香さんがここに生まれる。

 シュレディンガー方程式を常に誤用で取り扱うのがこの世界。


 だって猫が死ぬかも知れない可能性のある理屈なんて、認められるはずないのである。

 この世界には今、メインの猫が2匹、便利なネコ科が1匹いる。


 これらを失う可能性があるシュレディンガー方程式など、誤用しまくるのが正しいのだ。


「仕方がありません。この手は使いたくなかったのですが……」

「じゃあヤメましょ? 春香さん! すんませんっした! 春香さんの下着用洗濯ネットのチャックぶっ壊したの自分っす! でも釈明させて欲しいんすよ! あれ、無理やり引っ張ったら意外とイケるって教えてくれたの南雲さんなんすから! で、無理やり行ったら、逝ったんすよ! ちゃんと百均で買って来るから機嫌直して仕事しましょ! ねっ!」


「健斗さん。別に私、怒ってる訳じゃないんですよ? けど、自分の価値観がすべて正しいって考え方、あまり好きじゃないです。いえ、健斗さんは好きですよ。たまに穿った価値観を持ってしまうおっちょこちょいなところも含めて愛しています」


 山根くんの電流走る。

 恐る恐るその火元の確認をするのはオペレーターの性か。



「……百円ショップで売ってるヤツじゃないんすか? 南雲さんちは百円ショップで買ってるとか言ってたもんで。その。先に、すんませんっした」

「1つ4000円と少しします。あ。もちろん、私のお小遣いで買いましたからね。家計からは出してません。私たち結婚する時に決めましたもんね。お互いに1ヶ月のお小遣いは4万円で、高額のものを買う時は相談って! ふふっ!」


 世の中にはブラジャー専用の洗濯ネットがあったり、何ならブランド専用の洗濯ネットがあったりすることはメンズの間であまり知られていない。



 南極海から高潔な声が聞こえて来る。

 「山根くん。君とは終ぞ、それほど接点もなかったが。敢えて言おう。おっぱいを守るブラジャーを守る洗濯ネットが安いはずないだろう。君は奥様のおっぱいと1度しっかり向き合って、きちんと対話すべきだ」と。


 奥様と向き合って対話しろではなく、「奥様のおっぱいと対話せよ」と啓示をくれる、みんな大好きおっぱい男爵。

 もう日本本部に未練はないので忌憚なき意見を本当に忌憚なく投げつけてきた。


 川端さんに代わりお伝えしておくと、ストウェアでのお洗濯大臣も提督である川端さんが兼務している。

 おっぱいに寄り添った洗濯ネットは構築スキル(おっぱい関連専用)によって創れるようになった。


「……すんませんっした!! どうぞ! 使いたくなかった手を使ってくださいっす!! 自分、全部受け止めるっす!!」

「健斗さん……!! はい! 使います!!」


 ここで「分かってくれたんですね!!」と感激して抱擁からの仲直りにならないのが山根夫妻。

 夫婦のあり方も夫婦の数だけあるのだ。


 カタカタカタカタカタカタターンと旦那よりもずっと早いタイピングで端末を操作した春香さん。

 直後、山根くんの端末が鳴った。


「え゛。……うっす。こちら、山根健斗Aランク探索員っす。お休みのところ、お疲れ様っす。……確認なんすけど。うちの妻が何かしたっすか?」



『山根。お前ほどの男がそこまで分かっていて、どうして腰をいわせた? 私は産休中だ。腹の子にストレスを与えるな。春香からものすごい長文のラインが届いた。スクロールするのも億劫になる量だったので、逆に1文字も確認せずに答えが出た。探索員憲章にある、探索員は私用のスキル発現を禁ずるの一言だが。南雲京華が命ずる。この瞬間、不問とする。すぐに医療班を呼んで腰を治せ。……そしてもう通信して来るな。ではな』


 産休に入ったおかげでお排泄物との接触が減った代わりに、出番が来るとだいたい修羅場な京華夫人が仕事をしてくれました。



 それから医療班によって山根くんの腰は治療された。



◆◇◆◇◆◇◆◇



 オペレーター室を預かる次代のホープが頭を抱えていた。


「良くないっすよ。こういうのは……。これ、絶対にあっちの時空にも反映されてるヤツっすよね……。戦後、南雲さんがいじって来るじゃないっすか。山根くん、腰どうしたの? 腰だよ! 君がクリスマスにやった腰!! って。嬉しそうに……」

「あ。大丈夫ですよ?」


「えっ。ちょっと意味が本当に分かんなくて怖いんすけど」


 春香さんがにっこり微笑んだ。



「日常回時空ですから! ちょっと致すだけです! ワンチャン、授かりものがあった場合だけあっちに反映されると思うので! 中庭に五十五さんの出した薔薇の休憩ドームがあります! ちょっとすうじかん行きましょう! ささ、早く、早く!!」


 この後、どういう訳か山根くんは腰を再び負傷していた。



 オペレーターとは分析だけをやっていれば良いものではない。

 全体を見通す能力が不可欠。


 見通しが甘かった結果、山根くんは腰が治ってまた負傷した。

 ただ、春香さんはとても嬉しそうだったので、それはそれでハッピーなのかもしれない。


 彼女を育成したのは若き日の、女帝だった頃の京華さんです。

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