第39話 ガンギマリ@ばん

 痛い。


 痛い。


 痛い。


 右腕が痛い。


 多分左手も痛い。


 左の脇腹も痛い。


 全身のどこもかしこも痛い気がする。


 なんでこんなに痛い思いをしているのだろう。


 どうしてこんなに頑張っているのだろう。


 あの時の私は痛い痛いと嘆くだけをして、列車に乗って流れる景色でも眺めるようにして狼の起こす円を見ていた。


 気怠さが頭を鈍くする。興奮が痛みを誤魔化して。

 それでもひたすら痛い痛いと嘆いていた。


 命の危険を感じなかった。

 正しくは、多分、死ぬことが良くわかっていなかった。


 楽しそうにくるくる回る大型犬が夢みたいに高速移動して、しまいには残像まで残して、一本の線となった。

 こんなの、現実感がない。

 眠っている間は真剣に怖ろしさを覚えているのに、目が覚めたら馬鹿馬鹿しさに呆れてしまう、そんな悪夢を見た時のようだ。


 なんで。どうして。

 大嫌いだった持久走大会の中盤みたいに、「どうしてこんなに苦しい思いをしなくてはならないのだろう?」「もう足なんて止めてしまえばいいのに」そんな感覚で車窓の円を眺める。


 けれども小心者な私は、「足を止めたら怒られるに違いない」と痛む脇腹を労わりながら、ほとんど歩くようにして進むのだ。

 そうしてゴールした後に「なんであんなに真面目に走っていたのだろう」と馬鹿馬鹿しく思うのだ。

 実際は真面目に走ってもいないし体育の成績も振るわなかった。


 「なんのために最後まで」。


 きっとなんのためでもなく、何も考えてもいない。


 ただただ無意識で「正しいルート」を選ぼうとして、そこを進んでいれば問題は何もないと免罪符のようにして、考えることもせず、善性的行動を漠然と信仰していただけ。


 大して仲良くもない子供なんてほおっておけばよかったんだ。

 私の故郷のどこかの国で、多分いつだって無力な子供が戦場に立たされて死んでいる。

 だから今日誰かが死んだりしたって、その数字が一つ増えるだけなのだから。

 私が頑張って頑張って痛くて馬鹿馬鹿しくなる必要なんてなかったんだ。


 「善い人間でありたい」と、恐らく社会性のある人間の大多数がそうであるように、善性信仰は私の腹の奥底には染みついている。

 だけど自己犠牲なり、誰かのためだったり、「正義」でありたいだなんて大それたことは全く思わない。

 そんなのはもっと凄くて余裕のある人間が勝手にすればいいくらいに思っている。


 じゃあなんだ。これは。


 ヒーローみたいなのに憧れはあっても、実際やるとなると私に英雄願望なんてない。

 なのに今私はぼろきれになりながら戦っている。


 ああ。意味が解らない。


 でも、一度走り始めてしまったならば、もう、止まってはいけない。


 不格好で、最下位で、とぼとぼと歩くようで、それでもゴールはする。

 それが私だ。


 その日もそんな私のままだった。

 痛かった戦いは、狼の大技の準備時間によるインターバル。

 それによってクールダウン。

 アドレナリンで麻痺した痛みに自覚が追い付き、頭をぐちゃぐちゃに混線させた殺意も薄れる。

 それでもとりあえずでこの状況に決着を付けなければならない、小市民な私は今日も流れに身を任せる。



 私の周りを取り囲む円。

 その意味は解っている。

 だから私は覚悟を決めねばいけないだろう。


 ああ……いやだなあ……。


 でも、やらないとなぶり殺しだものなあ……。


 ああ……いやだ……だってこれをやると……


 私は頭の回転を上げる。頭の中を加速させる。

 クロック数を上げる。五感も思考も、自分の全感覚をクロックアップさせる。


 カチ……カチ……ああ、来るぞ……


 カチ…カチ…カチ……痛みが……


 カチカチ…カチカチ…引き延ばされえええ


 カチカチカチカチカチカチいたいいたいいたいいたいいたああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


 ゆるしてゆるしてごめんなさいいいいいいいたいいいいいたああああああああああいいいい!!!!!!!!!!!!!!



 私は誰に許しを求めているのか。

 でもそうなってしまうのも、なんとなく気持ちがわかるでしょう?


 自分の感覚、思考、すべてを速くする。

 そんなことをすれば痛みも同様に引き延ばされる。


 脳内麻薬を分泌してなんとか立っていられた痛みも、引き延ばされた世界で与えられれば何倍にも膨れ上がる。


 でも、でも、そうしなきゃ。やらなきゃ。やられちゃう。


 円の中から何かが飛び出してくる。


 いや、速くなった世界の中なら、それが真っ白な狼だとはっきりわかる。


 これがもしもなんの対策もしていなかったら、私はこの飛び出す毛玉に轢き殺されていただろう。


 何度も何度も内側にいる標的に攻撃する。

 高速軌道に乗ったその攻撃は目に負えない。

 そして標的がぐしゃぐしゃになるまでひたすらそれを続ける。


 単純に円を狭めるように動くでもいいだろう。

 この円はそんな攻撃。


 だから私は痛いのを我慢しなきゃいけない。

 我慢しなくちゃ、こいつを、殺せない。


 痛みは怒りを増幅させる。

 ムカつく。

 足の小指をぶつけたら「ん゛ー!!!」って、うなじをぴりぴりさせるような感情が飛び出してくる。

 ひどいときは物にあたったりもする。


 でも今度は敵がいる。

 私にこんな思いをさせる犬がいる。

 今もゆっくりとこちらに噛みつこうと牙を剝きだしてふわりと飛んでいる。


 だから痛い怒りを込めてそれを睨みつける。

 そうやって精一杯威嚇しながら左手に魔力を集める。


 相手を切り刻めるように。風のような、刃物のような、よくわからない小さな竜巻を掌にくっつける。


 そろそろ体を動かし始めないと。

 ゆっくりと、それでいて忘れずに体に魔力を乗せてしっかりと。


 間違ってももう痛くならないように。


 狼とすれ違う。

 そのお腹に左手を添わせる。

 振りぬかなくていい。殴らなくていい。

 撫でるくらいで小さな竜巻を塗り付ける。


 がりがりと削る。

 ゆっくりと削る。

 そのために竜巻にした。

 私に痛い思いをさせた敵に痛い思いをさせるために。

 実際は一瞬のことだ。

 だけど毛玉を削ぎ落す感触は私を少しだけ癒してくれた。


 まだ狼は止まらない。まだあきらめない。

 速度は恐らく魔法で出している。

 だから狼の体力が足りなくなっても、魔力で補強されているうちは動きは速いままだ。


 私の目にはもう、円には見えない定位置に戻る。

 この世界でみた狼の「奥の手」は、大型犬と公園で戯れるくらいに感じる。


 再度突撃してくる。

 今度は爪を振りかぶっている。

 ならお前は敵だ。また私を痛くしようとするのなら。


 今度は吹き飛ばす。

 もう痛すぎて早く終わらせたいんだ。


 竜巻に爆炎を混ぜる。

 風と爆発とで思い切り吹き飛ばす。


 お前の「奥の手」ごと吹き飛ばす。

 そうすればもうお前に打つ手なんてないんだろう?


 上段から叩きつけるように爪を伸ばす狼。

 私はそれをそのまま見送るように、力を抜くように後ろに倒れる。

 実際はちゃんと魔法で速度なりを補助している。

 だからきっと周りに見えるのは一瞬の出来事。


 狼を見上げる。腕を伸ばす。そのまま真上に魔法を放つ。


 地面に背中が当たる。

 そのままゆっくりとぐにゃりと背中は地面に沈んでいく。

 全身に鈍痛が来る。

 体も肺も重力と地面に挟まれて圧迫される。

 息が止まる。

 体が跳ね上がる。

 その工程が、羽が落ちるよりも何十倍もゆっくりとした感覚で襲い掛かる。


 ああ。でも。狼は未だ空へ引っ張られていく。


 ああ。これで、ようやく。――――――終わった……。

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