第35話 勇気2

 目の前の光景が良くわからなかった。

 大人が何もできずに死んでいった。

 見たことも聞いたこともない狼の魔物に殺されてしまった。


 事実だけは頭に並んだ。

 「けれど、だからどうすればいいのだろう」という疑問とも呼べない困惑に包まれるほかなかった。


 私も死ぬのだろうか。こんなにあっけなく。ただ通り過ぎる風にのまれていくように。


 真っ白な獣を纏った死。

 恐怖のあまりそれから目を離せないようでいて、どこかに助かる余地はないものかと視界の隅々まで意識を向ける。

 恐怖は私に絶望という枷を付けるが、枷だけならまだ生き足掻くためにと、自然と藻掻いてしまうのだ。


 その視界の端にはヴァンダルム君がいた。

 そうだ!彼ならもしかしたら!まだ実力の底が見えない彼ならば、私を助けてくれるかもしれない!!


 体から歓喜が溢れそうになる。

 そこで更に意識を彼に向ける。そして気づいてしまう。


 彼は震えていた。あの時と同じように。

 彼はこの中で最も幼く、多分最も繊細だった。

 顔色は変わらない。

 無表情で冷静なまま。けれど彼の虹彩は微かに揺れていた。


 気付いてしまった。それと同時に自分を責めた。

 今自分は何に頼ろうとしていた?今自分はどれだけ勝手な考えをした?


 彼はまだ自分よりも小さな少年で、私は年上でお姉さんなのに。

 「助けてもらいたい」なんて恥ずかしいことを、無責任なことを、恐怖を全部押し付けるようなことを、どうして彼にぶつけようとしたのか。


 小さな少年は足が棒になって、地面に張り付いたように固まっていたというのに。



 身じろぐ音。

 良かった、まだ仲間たちは、たぶん誰も死んでいない。

 この先なんの救いがなかったとしても、その事実に安堵できる気持ちが残っていた。


「ヴァンダルムくん。走って、助けを呼んでください」


 びっくりしたように少年はこちらを見た。

 優しい。とてもやさしい彼の本質を見た気がした。

 君は、恐いのに、無理はしなくていい。

 

 だって、私の方がお姉さんなのだから。


「ワタクシも……援護をしますわ……!」


 唾を飲み込むようにして、一息に恐怖を飲み込んだ。

 実際に何かを喉の奥に押し込みながら絞り出した、ヴィクトリアの言葉。

 私も一緒になって飲み込んだ恐怖から勇気が生まれる。そんな気がしてきた。


 お腹に沈み込んだ怖さは、きっと消化されると勇気へと変わるのだ。

 そうだと思い込むことが出来たなら、私はきっと「お姉さん」のままでいられる。


「ヴィクトリア……!……とにかく狼の動きを止めるように、時間を稼いで……!」


 指示は最後衛の私の仕事だ。そして私が少年を逃がすのだ。


 狼を十分足止めするなら、攻撃を通さなければならない。

 きっと先程のような拮抗した攻防というだけでは、完全に少年を逃がしきることはできない。


 『自分にダメージを通す手段がない』。

 そう狼が気が付いてしまったのならば、逃げていく獲物を優先したってなにも不思議じゃないのだ。

 攻撃してくる者に背を向けたって、なんの危険も起こらないのだから。


 だから必ず一度は狼にぶつけなければいけない。脅威を。

 そのために必要なのは、威力。


 先程の冒険者の剣だって、威力が小さかったわけがない。

 その振り下ろしの鋭さは、少なくとも私たちにはまねできない。

 それでも足りないのならば……。



 ヴィクトリアが両腕を大きく広げる。

 がりがりと痛々しいほどに彼女の体内を巡る魔力経路が目まぐるしく循環していく。

 明らかに彼女の許容範囲を超えた魔力循環。

 これによって齎される効果は魔法行使の高速化と作用範囲の拡大。

 副作用は恐らく、血管が破裂するような全身の痛みと気を抜けば気絶してしまうほどの激しい頭痛。


「大波……!!!特大ですわ!!!!!」


 伸ばした腕の延長線上から大きな水が溢れ出す。

 狼がどれだけ素早くても巻き込んでしまえるように、広く、高く。


 左右から大波が押し寄せてくる。


 水と風の魔法が得意なヴィクトリアだからできる芸当。

 けれど彼女でも負担が大きすぎる魔法。

 眼は身体的異変を訴えるように充血し、鼻から血が流れている。


 水場は目の届く場所になく、大気に混じった水の気を必死にかき集めたのだろう。それを詠唱もなく、この一瞬で。


 どのような魔力運用をしたのか、想像するだけで頭痛がしてくる。

 せめて近くにある水場を利用できれば、こんな無茶なことはしないでも済んだかもしれないのに。


 魔法の速度を上げる方法の内、彼女の行ったような『無茶』は身体への害が大きいだけで利は殆どない。

 基本は滑らかな魔力運用、要は熟達や慣れによる高速化が望ましい。なによりその方が速度も出しやすいのだ。


 しかし今はその『無茶』を通す時。


 これが彼女の意地。ならばそれに応えるのが私の覚悟。



 ヴィクトリアの産み出した高波は天を覆い隠すように生い茂る木々の、更に上まで伸びる。

 大抵の生き物ならこの大波の圧力に骨を砕かれ、呑まれ、少なくとも行動不能に陥るだろう。


 しかしこの狼が纏う雷は、きっと波の圧力すらも受け流す。

 そして魔力で産み出された歪な水流は、自然のそれよりも早くに流れ尽き、地の底へと吸い込まれてしまうだろう。

 そうすれば狼を水没し窒息させることも叶わない。


 『これだけでは勝てない』というシンプルな答えは考える前に感覚として肌で感じていた。


「畏きは真なる理、賢きは愚者の灯。―――ゲネシスの炎。自壊する縁。下界の獄。降臨し顕現し招来せし異形。生ける炎。屍求浄罪かばねもとむじょうざい――――――」


 ならば応えは一つ。

 大人の力も通らず、大きな波も受け流すならば、ただ一点。

 私のできる最大限で貫くように一点集中。


 百五十七節の呪文、それを淀みなく。

 唱えろ。集中しろ。迷うな。ただ早く、ただまっすぐ、相手に。


 高波が引いていく。

 狼は流されつつも、大木に寄り添うようにしてそこにいる。

 水に濡れた毛皮を重そうにしながらゆっくりと立ち上がる。

 そしてこちらに向かってくる。

 それに合わせるように私は右手を突き出す。


 ヴィクトリアは力尽きたように膝から崩れ落ちる。

 魔法の過剰行使で体に力が入らないのだろう。


 狼は雷を纏う。

 知っている。

 『雷速狼』はこの稲光が伸びるラインそのままに移動してくることを私は知っている。


 ならば私の胸元一直線に伸びているこの光の線があいつの進むルートだ。


「明けの明星、ウェヌスの使者よ。ここに我が灯を示し、翳るセレネの導きを審らかとす―――」


 狼の纏う光がより一層強くなる。

 地を踏みしめ、獣らしい柔軟で強靭な下腿の筋肉が膨張していく。

 ――――――次に瞬きをすれば、きっと目の前に狼が迫り、私の喉を食いちぎるだろう。


 ならば――――――


「―――恐み、恐み、奏上、吟詠。今生、勢を持って寂、静をもって灼。称えよ。『灼道征く閻躰しゃくどうゆくえんてい』……!!!」


 詠唱が終わる。

 右手が吹き飛ばないように肘を支えた左手に力を籠める。

 狼が消える。

 時が引き延ばされたような感覚。


 じりじりと導火線が燃えて尽きるように、稲光に沿ってがこちらに近付いてくる。


 合わせたかのような導線が私の右掌から伸びていく。

 交差する光と光。

 次の瞬間吹き荒れる火炎の濁流。

 渦巻のような炎が稲光を飲み込んでいく。


 ――――――これで……終わり……!



 まっすぐ伸びた、溶けた道。

 私の右手から伸びた炎の導線は、進むまま木々を溶かし、火災を起こす間もなく焼失させた。


 残るのは地面を抉ってまっすぐ伸びた道。

 どろり抉られた道は、元が土だったのか石だったのか、それとも他の何かだったのか、どうやっても判別できないほどに溶けて混ざり合っていた。


 力が抜ける。

 さっきから頭痛が酷くて耳がよく聞こえない気がする。

 その場で崩れ落ち、へたりとお尻を地面につけて座り込む。


 その時胸の内を占めていたのは安堵だったのだろうか。

 そんな単純な心地ではなかったような気もする。


 ただ間違いなく「終わった」という言葉だけは頭に響いていた。


 先程からこめかみにくっついてきて離れないようにあった頭痛。それに伴った耳鳴りも段々と治まって、ぼやんと曇っていた視界も焦点があってきた。


 音が戻る。


 風が木々を揺らす音、ぱちぱちと熱がはじける音、獣の喉から絞り出した唸り声――――――


 ばっと右を見る。

 そこには右耳を半分溶かした真っ白な狼がいた。


 手を伸ばせば届く距離、とまでは言わないが、後三歩寄れば息が吹きかかるだろう距離。


 ダメだったのか。

 あーあ。かっこつかなかったなあ。


 なんだかひどく疲れてしまって、なぜだか顔は笑みを浮かべた。


 ゆらりと狼が動き出すと、パチンと弾けて、消えた。


 どすんという音が聞こえる。


 目を向ける。


 そこには狼の首を掴み、そのまま地面に押し込むように抑え込む、ヴァンダルムくんの姿があった。

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