第81話 困惑が原因を隠してしまいます
「ぅ⋯⋯ぅうん~」
ハルはゆっくりと伸びをして、目を開けていく。見知った天井に安堵を覚え、頭を覚醒させていった。
どれくらい寝たのかな?
ピントの合わない視界で窓の外を眺めた。煌々と降り注ぐ陽光に、たいして時間が経っていないのだと理解する。
スッキリしないのは寝不足の頭ではく、煮え切らない思い。ベッドに潜り込んだ所で、まんじりとしない
ベッドの傍らで寝そべる
「クエイサー」
その一声にむくりと起き上がり、共に廊下へと向かった。
静まり返る店内に違和感を覚えながら進む。いつもであれば届くはずの喧騒が聞こえてこない。それどころか気配すら感じなかった。
どういう事?
異質な空間にでも迷い込んだかのような、非現実感に首を捻りながら廊下をさらに進んだ。
そっと受付を覗く。いつもより暗い空間が広がっているだけ。
誰もいない⋯⋯。
玄関は閉じられ、陽光を遮っていた。
閉めるにはまだ早い時間。昼休み?
そんな時間でもない。積み上がるのは困惑。
人の気配を求め、さらに奥へと歩みを進める。
「ハルさん! ストップ!」
「な、何??!!」
両手を広げるモモが、突然現れた。その表情は明らかな焦りを映し出す。
廊下に張られた
ハルの顔が一瞬で険しくなる。
店を閉じ、立入禁止区域の実行。
まさか?
「院内での感染症⋯⋯発症の可能性です。というか発症しています」
「どういう事? みんな大丈夫なの?? 現状は??!!」
想像していた通りのモモの言葉にハルの心拍は跳ね上がる。ぼんやりと揺れていた意識は一気に覚醒していった。
矢継ぎ早に問い詰めるハルの言葉に、モモは苦しい表情を浮かべ口を開く。
「ギルドからの要請で、閉鎖した【ライザテイム】の後始末を【オルファステイム】と共に行いました。経験した事の無い惨状の中、命を繋いだ仔を集中治療室に運びこんだのだけど⋯⋯。その中にいたセントニッシュがどうやら何かしらの保菌獣だったみたい。運び込んだ翌日に発症。同室及び、他の部屋の仔達に今の所は発症はなしです⋯⋯」
「そう。そのセントニッシュ一頭だけね。このまま終息してくれればいいわね」
安堵の溜め息を漏らすハルに、モモは厳しい表情を向け苦しい現状を告げた。
「ただ、同室で治療に当たっていたアウロさんとエレナが発症。セントニッシュと共にふたりも隔離。セントニッシュの世話はアウロさんとエレナで当たっています。無理だからいいって言ったのだけど、アウロさんが頑として首を縦に振ってくれなくて⋯⋯。これ以上の人への感染は絶対に防止すると⋯⋯。今、ラーサが菌の特定を急いでいるけど、正直難航しているみたい」
「なんて事に⋯⋯分かった」
廊下の奥を睨み、ハルは奥歯を噛み締めた。やり切れない思いに、頭を掻き乱したい程の衝動を抑える。
どうかみんな無事に帰って来て。
ハルの瞳が悔しさを爆発させた。次の瞬間には鋭さを増し、やるべき事へと頭を切り替えていく。悔しさを噛み殺し、悲痛な表情を向ける。
「ごめん。頑張って」
廊下の奥を見つめ、やるせない思いが零れ落ちていった。
◇◇◇◇
「つうっ⋯⋯」
苦しい。痛い。気持ちが悪い。
この世のあらゆる苦痛が、鈍く襲い掛かります。上からも下からも、止めどなく流れ落ち、トイレと
胃も腸も空っぽです。水を飲んだだけで、すぐに吐き出す状態。用意して頂いた点滴を突き刺して、何とか凌いでいました。
アウロさんも同様です。苦しそうな呼吸を繰り返しながら、セントニッシュが汚したベッドを綺麗にしていました。
「ア、 アウロさん。代わります⋯⋯休んで下さい⋯⋯」
「エレナ、ごめん⋯⋯。一瞬だけ」
セントニッシュの点滴に薬液を足していきます。体を伸ばすだけでとても辛いです。
アウロさんは地面に体を投げ打ち、低く呻いて苦しそう。私がいる手前、もがきたい衝動をきっと耐えているのだと思います。
痙攣を起こしていたセントニッシュを抑えつけたあの時⋯⋯。セントニッシュが吐き出した物を浴びてしまい、感染したのではないかとアウロさんはおしゃっていました。
「アウロさん⋯⋯ごめんなさい⋯⋯私のせいで⋯⋯」
アウロさんは、黙って首を横に振るだけでした。
セントニッシュを抑えつけていた所に飛び起きて来てくれた。あの時私がひとりで抑えつける事が出来ていたなら⋯⋯アウロさんが飛沫を浴びる事は無かったはず。そう考えると、アウロさんの感染は防げたのでは無いかと思ってしまいます。
「ずっと世話をしていたんだ、すでに感染しているよ」
そう言って、私とセントニッシュを二重扉の狭い隔離部屋へと運び入れ、自らも隔離していきました。私の発症から鐘をふたつ程聞くと、アウロさんの体にも異変が起きてしまいます。予防を兼ねて抗生剤を点滴していますが、今の所は意味が無いようです。
「きっとラーサが原因を突き当てる。それまで頑張ろう」
苦痛に顔を歪めながらも、私に希望を見せてくれます。
その後はふたり⋯⋯。いえ、セントニッシュを入れた三人は、激しい嘔吐と下痢を繰り返し、動く事さえままならない状態となってしまいました。
絶え間なく襲う鈍い腹痛。突然襲ってくる悪心。動かせない体。
いつ終わるか分からない苦痛に今は耐えるしかありません。
薬液を入れ終わると、床にへたり込みます。
三人の荒い吐息だけが、狭い部屋に響き渡っていきました。
◇◇◇◇
小皿の中にある寒天。表面に赤色の紋様のような物が浮び上がっていた。
完全防備のラーサが、その様子を覗く。
三人が吐き出したいくつかのサンプルを取り出しては、顕微鏡で覗いていく。
「⋯⋯まだダメか」
菌が育つには時間が必要。でも、あの苦しそうな姿を聞いてしまったら、焦らないではいられない。
症状を鑑みれば、消化器に居座る菌なのは間違いない。
サルマス菌、腸ジフル、コーレ菌、無止痢菌、ポーラジフル⋯⋯。
激しい嘔吐と下痢。悪寒、発汗。
症状から絞れば、コーレ菌か無止痢菌が濃厚。
悪寒、発汗が肉体的、精神的負荷からによる物ならサルマス菌、ポーラジフルもあり得る。
水を飲んだ先から、嘔吐するという事は腸ジフルの可能性は低いか? いや、低くとも今の段階で消しちゃダメだ。
早く、菌育ってくれ。直接確認するのが一番確実なんだ。
ただ解せないのは、どの菌にせよ、抗生剤は有効なはず。
アウロさんの話と様子から、抗生剤が効いている気配が見えない⋯⋯。効果がまだ現れていないだけならいいけど⋯⋯。
まさか、新種?
口に当てている布にいつもは感じない息苦しさを感じた。
顕微鏡を覗き直し、見落としている何かが落ちていないか見つめるが、溜め息ばかりが零れ落ちていく。
焦る心を押し殺そうと、扉の向こうへ声を掛ける。
「フィリシア! 細菌図書のⅣとⅤを持って来てくれ!」
見つめる先からは何も見えてこないもどかしさ。それはラーサの焦燥を煽るだけだった。
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