黒、困惑、混乱

第80話 微睡が揺れる程の衝撃でした

「ヒマね⋯⋯」

「ですね」

「ヒマだな⋯⋯」

「どうしたのですかね」

「もう今日はこんな感じでいいんじゃない?」

「フィリシア! もう」


 昨晩の重圧プレッシャーを乗り越え、仮眠もそこそこに私達は受付に向かっていました。疲れ切った体に緩み切った空気。ラーサさんはいち早く机にうつ伏せてしまいます。

 今日のお客様は遠方から訪れた健康診断の方のみ。取り立てて何があるわけでも無く、無事にお帰り願いました。

 そして訪れた緩み切った時間。昨晩の疲れもあって、みんなに覇気はありません。かくいう私も体力の限界は近く、何かしていないと意識が飛んでしまいそうでした。


「よし。何かあったら起こしてくれ」

「ラーサずるい」

「早い者勝ちだな。次はフィリシアが休めばいいじゃん」


 膨れるフィリシアを余所にラーサさんは受付を立ちます。


「私も寝てくる。エレナ、あとで交代しましょう」

「はい、分かりました」


 モモさんとラーサさんが奥へと下がっていきました。受付に残った私とフィリシアは、襲い掛かる微睡まどろみとの必死の戦いは続きます。開け放った扉から見える街はいつもと変わりません。なのに、ここハルヲンテイムだけが、いつもの日常とかけ離れた光景を見せていました。

 店を覗く人がいても、中を覗くだけで店を訪れる人はいません。横付けした豪奢な馬車に私とフィリシアは背筋を伸ばしましたが、そのまま走り去ってしまいます。こそこそと、中を覗く人にはいい加減慣れてしまいました。一体何を覗いているのでしょうか?

 こんなにも人が来ないのは初めての経験です。忙しくとも今日の体には辛いのですが、それにしてもと言う感じは拭えませんでした。


「こんな日もあるの?」

「いやぁ、ないよ。私も初めて。オープン当初はあったかも知れないけど、私がここで働くようになってからは無いよ」

「どうしてかな?」

「さあね。しんどいからありがたいけど、続いたらヤバイよね」

「だよね。大丈夫かな⋯⋯」

「うだうだ考えても今は仕方ない、明日にならないと分かんないしさ」

「だよね⋯⋯」


 微睡まどろみは思考を奪います。私もフィリシアも今の状況について思考を巡らす事は出来ません。ただただ、意識を保つのに必死でした。



 裏口が、ガタガタと少し騒がしくなりました。この気配は、きっとハルさん。無事にお帰りになったみたいです。

 私は動かない頭と体に鞭を打ち、裏口へ急ぎました。


「おかえりなさい」

「ただいま、エレナ」


 ハルさんの笑顔には力がありません。少し心配ですが、笑顔を見せているという事は無事に終わったのでしょう。

 ハルさんの笑顔はすぐに消え、疲れた表情を見せます。私は片付けを手伝いますが、今回の冒険クエストがどうであったのかは言及出来ませんでした。

 ハルさんからも、今日は覇気が見えません。


「エレナ。ごめん、疲れたから今日はもう休んでいい?」

「⋯⋯あ、はい。分かりました。ゆっくり休んで下さい」

「ごめんね⋯⋯」


 ハルさんの不在時に起こった事を伝えようかとも思いましたが、止めておきました。疲労の色が濃いハルさんに伝えるのは、今は酷だと思ったのです。


 

 今日はみんなが疲労を抱えています。のんびりした一日でいいのかも知れないと思えて来ました。取り急ぎ、隔離部屋でひとり治療に当たっているアウロさんに、ハルさんの無事帰還を伝えに行く事にしました。付きっきりで治療に当たっているアウロさんの疲労も気になりますしね。


「アウロさん、どうですか?」

「お疲れ。今はみんな安定しているよ。セントニッシュの意識がまだ戻らないけど、呼吸も脈もギリギリ及第点。あとは目覚めてくれればって感じかな」

「そうですか。良かった。ハルさんが戻られました。かなりお疲れの様子で、今は自室でお休みになられています。今の状況をお伝えするのもどうかと思って、何もお伝えしていません」

「うん、分かった。今の所急いで伝える事はないものね。お店は大丈夫?」

「う~ん、どうなのでしょう? 大丈夫なのですが⋯⋯お客さんが全然来ないのです」

「今日は少ない方がいいんじゃない? の? みんな助かっているんじゃない?」

「そうですか⋯⋯ね。今日のお客さん、オーランさんだけなのです」

「うん? だけ? って? オーランさん一組だけ?」

「はい⋯⋯。余りにもする事ないので、モモさんとラーサさんは休憩に入っています」

「ええ?! ⋯⋯あ、そう⋯⋯」


 アウロさんは目の下にクマを作り、難しい顔で逡巡する姿を見せていきます。やはり、ここまでお客さんがいないというのは、はっきりとおかしい事なのでしょうか?


「やっぱり、おかしいですか?」

「そうだね。一組だけと言うのは、さすがに⋯⋯だ⋯⋯ね」


 そう言ってまた逡巡する姿を見せます。今の状態で考えても答えは出ない気がして、私はアウロさんに提案してみました。


「アウロさん。みんなの症状が落ち着いている内にお休みになっては? 何かあればすぐに起こしますから、私が少しの間診ていますよ」

「じゃあ、お言葉に甘えようかな。砂時計が落ちたら、枕元に準備してある薬液を足して上げて。何かあったらすぐに起こしてね」

「分かりました」


 アウロさんは椅子の上で仮眠を取り始めます。すぐに深い寝息が聞こえ、疲労がピークを越えていたのが分かりました。

 

 イスタルタイガーが寝ていたベッドは、もう綺麗に片づいています。むくろは早朝、ギルドに引き取られていきました。

 出来るだけ綺麗にしてあげましたが、もっと綺麗にしてあげたかったというのが本当の所。空になった大きなベッドを見つめると、喪失感を覚え、嘆息してしまいます。やり切れない思い。モモさんの言葉を思い出します。やり切れないものだと割り切れと。そうは言っても、割り切るというのは中々難しいです。いつまでたってもモヤモヤと心の中は晴れません。

 落ち切りそうな砂時計を見つめ、アウロさんを起こさないように静かに立ち上がりました。薬液を足して、助かった仔達を見つめます。

 みんな元気になって。

 静かに寝息を立てている姿には、安堵を覚えますね。


「あとは君だけだよ」


 私はセントニッシュの耳元で囁きます。

 刹那、セントニッシュの目が見開きました。

 

 起きた!

 

 いや、でも⋯⋯覚醒とは違う。覚えるのは激しい違和感。

 その瞬間、セントニッシュの体は激しい痙攣を起こし、口から吐瀉物を吐き出します。


「きゃあっ!」


 耳元で囁いていた私に吐瀉物が降り注ぎましたが、気にしている余裕などありません。固形物を何日も口にしていないのか、吐き出した物は胃液のような液体だけ。

 考える間も無く、私の体は勝手に動いていました。

 激しい痙攣を見せるセントニッシュ。ベッドの上で、ビクンビクンと激しく跳ね続けるセントニッシュの体を私は抑えつけていきました。

 お尻からは液状の便が流出し、ベッドを汚していきます。

 何の前触れも無い急変。

 ぼんやりとしていた頭を殴られらかと思えるほどの衝撃。いきなり繰り広げられる凄惨な光景に、意識は一気に覚醒しました。

 何?! 何これ?!

 覚醒した頭は困惑と焦燥に、一瞬でパニック寸前。

 セントニッシュの脈拍が一気に上がると、私の心臓も激しい鼓動を打ち鳴らします。

 どうなっているの? 

 体中に力を入れ、暴れるセントニッシュを必死に抑え付けます。冷静を装い、必死に思考を巡らせていきます。今、私がすべき事、出来る事は⋯⋯。


「アウロさん! 急変です! ごめんなさい! 起きて下さい!」


 私の叫びにアウロさんは、飛び起きます。

 今の私に出来る事は、これだけでした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る