白稚児

 薄暗い雑居ビルの中はいつも閑散としている。表にある看板には、縦並びに色々な商社の名前やスナックの名前が揃っている。だが実際のところ、中身は空っぽでほとんど生きていない。平日の昼間であっても、これまでビルの中で人とすれ違った試しがない。

 私はそんな雑居ビルの5階の一室に住む。人がいないに越したことはないが、あまりに人と喋らないでいると、どうも舌が衰えそうになる。

 人間のアルビノは、人前に出ると常に奇異の目で見られる。私にとってはそれが日常だ。老婆の髪より白い髪、血の気のない白い肌、血管が透けそうに薄いグレーの瞳は、衆目を集めるのに困らなかった。

 ──暇だ。

 私はリビングスペースのソファに横たわっていた。

 外は私の天敵になる紫外線が隙なく降り注いでいる。無論、紫外線に対して日々のスキンケアは怠っていないけど、それでもこの季節の外出は私にとってはとても過酷だった。

 同居人である黒澤とは最近会えていない。研究やら学会やら、私の知らないところで知らないことにてんやわんやしているらしい。黒澤以外の身寄りがない私にとって、それが少し寂しかった。電話やメールで連絡は取り合えるが、それだけではこの胸の内の寂しさは埋まらない。

 最近できた友達の典子・杏子姉妹、克実とは少しやりとりが増えてきたものの、彼らにも用事や生活があって、頻繁に会えるわけではない。

 ──まぁ、昔ならこんな生活が遅れたり、まして友達ができるなんて思ってもいなかっただろう。

 天井を見つめながら、私は黒澤と初めて会った時のことを思い出す。

 二十数年前。砂埃が舞う、乾いた土地に私はいた。手足と首に鎖を着けられて。どうやら自分は誘拐されて、どこかに売られるらしい、ということは幼いながらにも理解していた気がする。

 監禁された理由は分からなかったが、生まれ持ったこの血の気のない白い肌が原因の一つとは薄々感じていた。何せ、覆面をつけた複数の人間が揃って自分の肌を見ていたから。

 私は薄暗くて冷たい壁の部屋に閉じ込められていた。カビ臭い地下だったと思う。私にそれ以前の記憶はなく、親がいたのかさえもよく覚えていない。

 空腹、喉の渇きが辛かったことと、着けられている足枷と首枷のネジが肌を傷つけ、痛くて動けなかったことも覚えている。それで付いた首の傷は、今でも痕になって残っている。

 食べられるものといえば、1日に一度だけ与えられる乾いた一切れのパンと一杯の水だけだった。

 思えば、栄養失調で死にかけていた気がする。目も霞み、意識は朦朧としていた。立ち上がれず、声を出す元気もなかった。

 そこに入れられて何日目のことだったろうか。地上で銃声が鳴り響いた。元々国勢が安定していない国だったので、銃声は日常茶飯事に外から聞こえていたが、今回は自分のいる建物の中からだった。

 生きる意欲もなかったから、その事実に気づいてもなんとも思わなかった。

 しばらくして銃声が鳴り止み、乾いた靴音が階段を降りてきた。鉄格子の向こう側にある階段に人影が見えた。

 薄暗く、おまけに霞んだ目ではそれが何かさえもわからなかった。

「誰かいるぞ!」

 理解できない言語でその人影が叫ぶ。

「なんてことだ……。子供じゃないか」

 鉄格子の向こうにいたのは、黒いベストを着た異国の男。丸い黒メガネを掛けているのが印象的だった。

「き、君は誘拐されたのかい?」

 身振り手振りで目の前の彼は何か言っている。薄っすら見える表情は、とても心配そうな顔だった。

「くそ、牢屋に鍵がかかってる。君、少し待っていてくれ。鍵を開けられるものを探してくるから。必ず君を助け出すから」

 彼はそう言って、牢屋の扉を指差す。どうやら牢屋の扉を開けてくれるらしい。理解したことを伝えるため、とりあえず頷く。力が入らず、頷けているのかもわからなかったけど。

 彼は走って階上へ行き、しばらくして小銃を手に戻ってきた。

「これで鍵を壊す。下がってくれ!」

 男は手で私に後ろへ下がるよう指示した。私が体を引き摺りながら下がったところで、手にしていた小銃を両手で構え、鍵穴に向けて二発撃った。狭い地下室に鋭い金属音と銃声が鳴り響く。錆びた鉄格子の扉が開いた。

 彼は鎖を銃で再び撃って破壊し、持ってきた毛布で私をくるんで抱き抱えた。

「安心したまえ。もう大丈夫だ」

 私は安堵したのか、彼の仲間が乗ってきた白い車に乗り、その中で気を失った。

 そこからの展開は早かった気がする。保護されても行き場のなかった私を彼が引き取り、各所で色々な所と手続きをした末に、日本という国へ連れてきた。

 彼は見るもの全てが新鮮で目を回す私に日本語を教え、温かい食事と寝る場所をくれた。それに、生きるのに必要な知識も教育してくれた。いや、生きるのに必要のない知識も教えられたな。妖怪や民俗、書誌学なんかの知識が勝手に身についた。

 私にとって親代わりような存在の黒澤だが、彼の隣で歳を重ねるにつれて、私の心の中に別の感情が芽生えていることに気づいた。

 漫画やドラマ、小説などを見たり読んだりしているうちに、それが『恋』という名の感情だと知った。

 自分でもそれが愚かなことはわかっている。でも勘違いや一時の気の迷いでもないことにも気づいている。

 彼は一生独り身でいようと思っているらしい。それでもいいと私は思っている。彼の生涯のその最期に、彼の隣にいることができたら私はそれで満足なのだ。

 ……早く帰ってこないかなあ。

 時計を見ると、もう昼を過ぎていた。掃除でもするか。と言っても掃除は日常的にしているので。する必要がないといえば必要ない。

 私はキッチン横の扉を見た。あいつの部屋でも片付けてやるか。

 黒澤の部屋に入る。古い紙の本が並ぶ図書館や古書店のにおいがする。相変わらず、床には乱雑に本が積まれ、塔を建てていた。変にいじると黒澤が文句を言うため、この辺は触らないでいてやろう。

 木製の古いデスクには、書きかけの書類や万年筆などの事務用品が散乱していた。空き巣にでも入られたのかと思うくらいに荒れている。生来、黒澤は片づけが苦手な性分らしい。私が彼のところに来たばかりの時はもっと酷かった。足の踏み場がないほどに服や本が床を占拠していたことを覚えている。子供ながらに世話の焼ける人だと思った。

 書類をまとめ、番号順に入れ替える。万年筆にはキャップを被せ、消しカスや紙屑はまとめてゴミ箱に入れた。

 ふと、書類の海の中に大判の本が沈んでいることに気づいた。拾い上げて見ると、それは鳥山石燕の『画図百鬼夜行』シリーズを一冊にしたものだった。

 なんとなしに捲ると、犬神と猫またのページの間に紙片が挟まっていた。恐らく栞替わりだろう。

 そういえば数日前、黒澤と克実が犬神の因習に関わったとかを典子から聞いたな。克実も黒澤に振り回されて不憫に思う。止めはしないけど。

 黒澤はその記録のためにわざわざ栞を挟んでいたのだろうか。

 私は犬神の頁に目をやる。犬神の前で何かを書いている妖怪──白稚児が目についた。この妖怪は一切の詳細がない。神主姿の犬神の弟子だとか、門人だとか、あるいは犬神になった犬に食い殺された子供だとかの諸説があるが、どの説も確証に欠ける。

 私の仮説では、これはアルビノの人間なんじゃないかと思っている。古来から日本にもアルビノの人間は存在した。第22代天皇である清寧天皇は生来白髪だった為、白髪皇子と呼ばれた。それに、アルビノには白子症と言う和名もある。

 だが医学がまだ未発達の時代では、白い人間は妖怪と見られたこともあったのではないだろうか。見た目がおかしい奇形の牛も妖怪の件にされるほどだ。可能性はそう低くないだろう。

 まぁ、それを解明するのは私の仕事じゃない。怪人の仕事だ。

 立ち読みしていた本を閉じ、机に置く。そうして部屋の中をあらかた掃除し、黒澤のものを見やすいように並べ、私は部屋を出た。

     

 再びリビングのソファに腰掛けて一人ごちていると、不意に私のスマホが鳴った。黒澤からだった。

「はいもしもし」

『マリー、私だ。ようやく今晩には帰れそうだよ。遅くなってごめんね』

 疲れているのか、ひどく申し訳なさそうな語気だった。

「わかった。じゃあご飯作って待ってる。気をつけて帰ってきてね」

『うん』

 電話を切ると、私の気分が高揚し始めているのがわかった。口角が自然に上がる。

「仕方ないなぁ!」

 疲れきった黒澤を笑顔で出迎え、温かいご飯で癒してあげよう。私は気合を入れ、帰ってくる同居人のためにキッチンへ向かい、夕飯の献立を考えるのだった。

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