魔女 6
玄関に入ると、両側を襖に挟まれた、薄暗くて長い廊下が奥に続いていた。床板は一歩一歩と歩くたびに軋む。本当に古いお家らしい。京助さんに広い客間へと通してもらい、卓袱台を囲んで座った。俺の正面に座った古瀬先生が自己紹介する。
「改めまして、私が古瀬尋助こと古瀬尋です」
「え、江口克実です! あ、あの、先生の小説は出るたびに買って読んでます!」
俺も続いて自己紹介する。さっきは取り乱してしまったが、今はなんとか落ち着いている。多分。
「ふふ、ありがとう」
古瀬先生は微笑みながら言った。俺を見つめる鋭い目つきは、優しい眼差しをしている。
「ガチガチじゃん」
そう言いながら京助さんが台所からお茶を人数分出してくれた。
「もし必要ならサインでも書こうか?」
緊張している俺を気遣ってか、古瀬先生は傍からペンを取り出した。
「あ、ありがとうございます! 本は持ってきてます!」
俺はすかさずカバンから持ってきた3冊を取り出して手渡した。古瀬先生はその表紙をめくり、題字の下にスラスラとペンを走らせる。その光景を見ているうち、あっという間に一冊、二冊とサインを書いてしまった。
古瀬先生はサインを済ませた本の中から一冊手に取り、パラパラとめくった。
「これは……このシリーズの1巻目だね。カバーの折り目はふやけてちぎれそうだし、角や背もよれよれだ。紙の色も変わっている。何度も何度も読み返してくれたんだね。嬉しいよ、ありがとう。作家としてとても励みになる」
優しい指先で表紙を撫で、眩しいほどの優しい笑顔で俺にそう告げた。
「古瀬先生の小説は俺にとってバイブルですから」
差し出された本を受け取り、バッグの中に大事に仕舞った。
「ね? 喜んでくれたでしょ」
京助さんはドヤ顔で言った。
「克実くん……だったね。君の話は京助から聞いているよ。なんでもスーパーパワーを持っているんだってね?」
組んだ手を卓袱台に乗せ、好奇心をその表情に隠すことなく古瀬先生が俺に訊く。この人も先生や典子さんと似たタイプなのかもしれない。目の奥が光っている。
「スーパーパワーというか、体質みたいなもんです。思った通りに使えないのと、使うと腹が猛烈に空くのが難点ですね」
「へぇ、面白いな」
「ありがとうございます」
俺たちの会話を先生たちは、さも面白いと言わんばかりの雰囲気で見ていた。
「いずれ機会があれば見せてもらおうかな」
「もちろんです!」
軽い雑談もそこそこに、さっそく本題へと移った。詳細は京助さんから聞いていたらしい。
「これがその呪物です」
紙袋から標本箱を取り出す。古瀬先生はそれを手に取って斜めに傾けたり、縁側で日光に当てながら色味を見ていたが、突然、
「京助、ガムテープ持ってきて」
とひどく焦ったような表情で言った。「合点でい!」と勢いよく襖を開け、京助さんは隣の部屋からガムテープを持ってきた。古瀬先生はそのガムテープを標本箱の隙間という隙間に貼り、「ふぅ」と一息ついた。
「どうしたんだい?」
「大丈夫?」
先生とマリーさんが心配そうに尋ねる。
「なるほど呪物。そういうことか」
古瀬先生はそう呟き、言った。
「ひとまずこれで封印はできた。ちょっと待ってて」
古瀬先生は足早に縁側に出て、中庭を挟んだ向かいの建物に姿を消した。
「京助さん、あそこは?」
「ああ、離れだよ。仕事で使う本や映像の資料なんかをたくさん収蔵してる。いわば尋さんの資料室だね」
暫く待っていると、一冊の本を手にした古瀬先生が戻ってきた。
「先生、わかりましたよ。これです」
「ほう」
手渡された本を卓袱台で開く。それは鮮やかなドレスの絵が描かれた表紙の本で、題名はアルファベット文字で書かれていたけど、単語の羅列が英語じゃなかったから読めなかった。
「洋書だなあ」
隣で京助さんが呟く。
「これはフランスの服飾の本だね。かなり古い」
パラパラとめくっていくと、あるページで先生の手が止まった。
「このクロモリトグラフの絵……そういうことか」
先生と顔を合わせた古瀬先生が頷く。
「クロモリトグラフ?」
「昔のカラー印刷技法のことだよ」
そのページに載せられている絵は、緑色の何かが付着した手の絵をいくつか描いたものだった。描かれている手はどれもひどく荒れていて、肉が削げて骨が見えていたり、爪が剥がれていたり、指に穴が空いていたりしていた。
「グロい」
先生の後ろから覗き込んだマリーさんが呟く。
「そうか、篠田はこれを『呪い』と解釈したのか。すると、あの花冠は──」
「多分本物の花緑青でしょう」
「そりゃ危ないね」
何かを理解した様子の二人の『先生』が、主語も無しに通じ合っている。
「どういうことですか?」
「そうだね、説明しよう」
先生の見識を聞くため、俺たちはまた卓袱台を囲んだ。
「篠田とやらは、私たちに『250年前のヨーロッパ』というヒントを既に与えていた。そこを見落としたのは悔しいところだが、おかげで合点がいったよ。呪物というからてっきりそちらの方面ばかりだと思っていた。いや、もしかするとそう思わされたのかもしれない。『呪術に詳しい人間がいる』と知ったからね」
先生はそう言ってもさもさ頭を掻く。
「この呪物の解体については、私よりも古瀬君の方が適任だろうね」
「まさかこんな役回りを担うとは」
指名された古瀬先生はさっきの本を開き、解説を始めた。
「1770年代後半、カール・ヴィルヘルム・シェーレというスウェーデンの有名な化学者が、銅ビトリオールの溶液にカリウムと白い粉末を混ぜて、今までになかった新しい緑色の顔料を発明した。鮮やかなその色は、シェーレグリーン、パリグリーン、花緑青、唐緑青など色々な名前がある。その顔料は当時のヨーロッパの世界に一大旋風を巻き起こし、壁紙、絵画、布地、キャンドルなどのものから、キャンディーや食品の包み紙、子供のおもちゃの包み紙にまで幅広く使用された」
「尋さん、それが呪いと関係あるの?」
「うん、ある。ここからが本題だ。実はこの鮮やかな色の顔料にな、大量のヒ素が含まれていたんだ」
「ヒ素!?」
「せや。シェーレが銅ビトリオール溶液に入れた白い粉末はヒ素だったんだ。じゃあ、まずはヒ素について説明しよか」
古瀬先生はコップのお茶で口を湿らす。ヒ素が毒物なのは知っているけれど、それがどんなものなのかの詳細は知らない。
「ヒ素は広く一般的に毒物として知られてる。せやけど、実は人体にとって微量必須元素で、体重が50kgの人なら体内に約5mgを持ってるといわれてる。土の中に広く存在して、日々野菜なんかの食べ物から微量のヒ素を私たちは摂取してるねん。なんで影響が出ぇへんのかいうと、肝臓で解毒されるからやねん」
古瀬先生は気づいていないらしいけど、さっきから語調の端々に関西弁がまろび出てきている。
「まあ仮に過剰摂取したとしても、原因がヒ素ってわかればキレート剤っていう解毒剤があるから、命を失うことはないとされてる。で、ヒ素の中でも最も毒性が強いのが三酸化二ヒ素、通称『亜ヒ素』。白色の粉末状で、大量に摂取すると下痢・嘔吐なんかの腹痛を起こして、ショック状態に陥る。そして急激に衰弱し、最後は死に至る。この亜ヒ素には、体のエネルギーの合成に関わるSH基っていう酵素と結合しやすい性質がある。だから体内に入るとどうなるかわかるな? 京助」
「細胞へのエネルギー供給が絶たれるね」
「その通り、さすがや。そのほかにも、慢性的な摂取で神経系とか血管にも害を与えるといわれてるわ」
古瀬先生は何も読まずにここまで話した。先生が「博識」というだけはある。流石です、古瀬先生。
「尋はなんでそんなに詳しいの? 暗殺の計画でも立ててるの?」
「立ててへんわ。シェーレグリーンはミステリー小説の鉄板ネタやねん」
マリーさんの言葉にすかさず古瀬先生はツッコむ。
「関西弁……」
俺がそう呟くと、古瀬先生はピクっと肩をすぼめて、何か失敗でもしたかのような引き攣った表情でこっちを見た。
「関西弁は……嫌い?」
心配そうな表情で彼女は俺を見る。
「え? どうしてですか? むしろ納得したところです! 先生の作品内でのキャラクターの会話のテンポの良さは、関西出身だからだったんですね!」
そう言うと、古瀬先生は「ほっ」と胸を撫で下ろした。
「実はな、この目つきで関西弁喋ったらめっちゃ怖がられるから隠しててん。克実くんは恐ない?」
「全然。むしろ関西弁でお願いしますよ。俺に気を遣わないでくださいよ」
「わかった。おおきにな」
彼女はそう言って照れたように笑った。
「尋さんのツッコミは鋭くていいよ。どんなボケでも返してくれる安心感がある」
「お前はボケすぎや」
「ほらね!」
「ほんとだ」
古瀬先生は訛りを消すという枷を外したからか、固い印象がたちまちに消え去った。
「でな、マリー。ヒ素は死因がすぐにバレるから今は毒殺に向いてへんねん。せやからヒ素は『愚者の毒』っていわれてる」
「へぇ~」
「ま、毒物としての説明はこんなもんやな。何か質問はある? 克実くん、なんかある?」
「さっき『花緑青』って仰ってましたけど、十円玉や錆びた南京錠についてるアレにも毒があるってことですか?」
「お、いい質問」
横にいる先生がそう言った。
「うんうん、ええ質問や。実は緑青が毒っていう認識は誤解やねん。昭和時代の理科の教科書には『銅の錆の一種である緑青には毒性がある』って描かれてあったんやけど、日本銅センターってところが東大の医学部に依頼して、緑青に関する動物実験を6年間続けたんや。その結果、緑青は無害同様の物質であることが確認されたねん。その後に報告を受けた厚生省も動物実験を行なって、昭和59年8月には緑青猛毒説が間違いやったって認めたんやわ」
「なるほど、名前が名前だけに誤解されたわけですね」
「そういうことやな。当時の新聞各社も記事に取り上げて、NHKニュースで全国に向けて発信されたけど、現在でもまだ信じてはる人がおるらしいわ。まぁそういう時代やったからしゃあないと思うけど」
「一度間違った知識が世間に広がると、それを改めるのは難しいからね」
うんうん、と先生が頷く。
「克実くんは理解力があるなぁ」
「そうだろう?」
俺が褒められたのになぜか先生が自慢げにいう。なんでや!
「で、尋さん。それがどう呪いに繋がるのかな?」
ワクワクした様子の京助さんが訊く。
「この顔料を塗料として使ったものにはさっき言うた通りヒ素が含まれてるんやけど、壁紙にしたり、絵の具にした場合が一番害……呪いになる。じめじめした環境になると、この顔料は壁紙の糊とカビ胞子に混ざり混んで室内で致死的毒性を持つシアン化水素ガス、つまり青酸ガスを発生する。このガスを多く吸い込むと、意識消失や呼吸器停止なんかで最終的には死に至るねん。ひょっとすると『住むと死ぬ部屋』やったり、所持すると死ぬ『呪いの絵画』の呪いの正体がこれやったりもするんちゃうかなって私は思う。実際、ナポレオンの死因が緑の壁紙のせいちゃうか、なんて説もあるからな。そこで、あの花冠に掛けられた『呪い』の正体は、ヒ素の粉末やと私は思う」
「粉末?」
「ヨーロッパでドレスや造花を作る工場にいた人たちが軒並みヒ素中毒になる事があってな。彼・彼女らはシェーレグリーンの粉末を振りかけて塗装する仕事をしてた。手袋やマスクなんかはつけず、毎日毎日その粉を吸い込みながら仕事をしている。そんな製法で作られた造花やドレスを着るとどうなると思う?」
「振りかけてるだけなら……まさか!」
「そう。動くだけで毒物を振り撒いてしまう、まさに『死のドレス』になったってわけ。だから、当時の『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル』っていうイギリス医学会雑誌でもそんなドレスを着る女性を『キリング』・ファム・ファタルって呼んだ。着る呪物、緑の呪いって言うても差し支えないやろ。この花冠からも粉が出る可能性がある。だから箱の隙間をテープで封したんや」
「なるほど、ならこの花冠は持ち主に死をもたらす呪物ってことか」
「そういうことやな。ちなみに、さっき見せた手の絵はその造花職人の手や。手の傷とかからヒ素が入り込んだんやろな。呪物を作る人にも害を成す」
「なんでこんなもん持ってんだアイツは」
花冠の呪いの謎が解けたところで、古瀬先生の講義が終わった。気がつくともうお昼で、古瀬先生が「そうめんなら山ほどあるから食べて行き」と言ってくれ、お昼ご飯をいただくことになった。
京助さんが台所から持ってきてくれたボウルの中には、氷水に大量の素麺が入っていた。
「ようさん食べるって先生から聞いてるで。食べりな」
「ありがとうございます! いただきます!!」
先生、マリーさん、京助さん、古瀬先生と卓袱台を囲む。そうめんの味は同じなはずなのに、なぜかみんなで食べると格別に美味しい。
まさか憧れの小説家先生が作ってくれたそうめんをつつける日が来るなんて、一体誰が想像できようか。
ボウルいっぱいに入ったそうめんを完食し、俺は台所で京助さんと洗い物をした。
「やっぱり古瀬先生はすごいですね」
「でしょ? ああいういろんな知識があるから、骨太な小説が書けるんだろうね」
「ですね」
「もしかしたら、尋さんだったら俺のクイズ解けるかもね」
「クイズ?」
ちょうど話していたタイミングで、古瀬先生が台所にお茶を直しにきた。
「そうそう、行きがけの車中でやったんだよ。俺のオリジナル問題」
「京助のぉ?」
「うん。こういう問題。都会に観光目的で向かう人を『お上りさん』、逆に──」
「みくだりはん」
「え!?」
なんとあの問題文の途中で古瀬先生は正解した。
「お前のことやからどうせ問題文の頭は関係ないようにしてて、答えは『お上りさん』『お下りさん』で韻を踏んで『みくだりはん』か『おけいはん』のどっちかやと思ったけど、文字数で合わせるなら『みくだりはん』やな。あと次の問題の答えは三行半やろ?」
「正解……さすが」
「京助のことなら大体わかるわ。何年一緒におると思ってんねん」
先生ですらシンキングタイムが少しあった問題だったけど、京助さんをよく知る彼女にとって問題の傾向を掴むのは容易だったのだろう。仲が良い証だ。
「克実くん、悪いな。こんなんに付き合わせて」
「いやいや、お陰で盛り上がって楽しかったですから!」
そうフォローすると、「優しい……」と京助さんがときめいた乙女のようなポーズをした。
そうして洗い物も済ませ、俺たちはお暇することにした。
玄関で靴を履く間に先生が車を門の前まで回してくれていた。
「京助さんは乗らないんですか?」
「うん、今日はここに泊まっていくよ」
「京助は明日早いんやろ? 送ったるわ」
その古瀬先生とのやりとりや距離感で、俺は一つ気づいたかもしれない。
「京助さんと古瀬先生って──」
「克実! いくよ!」
疑問を口にしかけたところで、車からマリーさんが顔を出す。
「じゃ、またね」
「気ぃつけてな」
「古瀬先生、京助さん、ありがとうございました! 楽しかったです、またお会いしましょう!」
「尋! 京助! バイビー!」
「それは死語やな」
俺は車に乗り込み、仲良く並んで見送ってくれる2人が見えなくなるまでしばらく後ろを見ていた。
さて、準備は整った。決戦は明日の昼だ。気張っていこう。
見ていろ篠田。お前を必ず追い出してやる。
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