いらない贈り物 5
非常階段から雑居ビルの2階に入る。中は薄暗く、ひどく閑散としていた。クーラーは作動していなかったけど、廊下の窓から入ってくる風のお陰で涼しかった。灰色に近いリノリウムの廊下をひたひたと足音を響かせて真っ直ぐ歩き、突き当たりの角を右に曲がると、無骨な形のエレベーターが出てきた。マリーさんは上のボタンを押す。轟音に近い可動音でエレベーターが動き出し、軋む音と共に所々色の剥げた水色のドアが開いた。
3人が乗るには少し窮屈で、奥に詰めると不可抗力的に典子さんと近くなる。うっかり彼女のうなじを見下ろす形になり、思わず目線を壁に逸らした。……少し、いい匂いがした。
扉が開くと、また薄暗くて長い廊下が現れた。マリーさんが降りて先を進む。後に続くと、彼女は『502』と番付された部屋の、扉の上半分が磨りガラス状になったレトロな扉に鍵を挿して開けた。冷房の効いた風が廊下に流れ出る。
「ここよ。いらっしゃい」
「お邪魔しまーす」
雑居ビルだから、中はコンクリート打ちっぱなしの壁かペンキでざらついた壁かのどちらかを勝手に想像していたけど、薄く模様の入った白い壁紙が貼られていて、ビルの部屋という感じではなかった。靴を脱いで部屋に上がる。
段差のついた床はフローリングになっている。入って左側奥にテレビ台が置いてあり、その向かいにもこもこした薄緑色のカーペット。その上にはローテーブルやソファがある。部屋の右側はダイニングキッチンになっていた。
今更だけど、先生たちは雑居ビルに住んでるんだ……。
「まあ座りなよ」
変に感心しながら部屋を見回していると、マリーさんがソファに座るように促した。
「麦茶と緑茶、どっちがいい?」
「むぎ茶で」
「私も!」
キンキンに冷えた麦茶を呷り、一息つく。
「なんか可愛くてオシャレね!」
典子さんはそう言ってぐるりと中を見回す。
「そう!? ありがと! インテリアとかは私が選んだんだ。黒澤が『私は滅多に帰ってこないから好きにしていいよ』って言うからね!」
マリーさんは典子さんに褒められたのが嬉しかったようだ。
「空いていた隣の部屋をぶち抜いて、私と黒澤の部屋にしたんだ」
彼女はそう言ってキッチンの斜向かいを指差す。なるほど、通りでドアとドアの間隔が広く開けてあるわけだ。一つの部屋が雑居ビルの一部屋ぶんあるんだな。
へー、っと関心していると、「2人ともお昼まだ食べてないよね? 私が作るからちょっと待ってて」とキッチンへ姿を消した。少ししてから、美味しそうな肉の焼ける匂いとソースの匂いが腹をくすぐってきた。
「なになに?」
典子さんが訊く。
「焼きそばよ! あり合わせのものしかなくて申し訳ないけど、美味しいから! たぶん!」
可愛らしいピンクの三角巾とエプロンを着けたマリーさんがそう答えた。やったぁ! 夏といえば焼きそばだよな!
程なくして皿に盛り付けられた具沢山のソース焼きそばがマリーさんと共に現れた。香ばしい青のりと紅生姜の匂いが食欲を刺激する。
「召し上がれ」
「いただきます!」
2人揃って手を合わせ、口へ運んだ。
「美味しい!」
「これは旨い!」
辛めで濃いソースと豚の脂がバランスよく麺に絡まり、キャベツや輪切りにされたソーセージがいいアクセントになっていた。美味しい。
「よかった! いつもご飯は一人で食べてるし、たまに黒澤にも作るけど、あいつはなんでも『美味しい』って言うからわからないんだよね。そう、美味しいならよかった。お替わりもあるからね」
うふふ、とマリーさんは嬉しそうに言った。
「おかわり!」
「早っ!」
俺の差し出した皿をマリーさんが受け取る。
「いい食べっぷりね!」
「食べないと体が動かないんだ」
典子さんは一杯で満腹らしく、満足そうにお腹をさすっていた。二杯目を食べ終えた俺は、むぎ茶で一息つき、腹ごなしついでにさっきの疑問をマリーさんにぶつけてみた。
「ねぇマリーさん。どうしてさっきのチンピラもどきはマリーさんにビビって逃げたの?」
「あー」とマリーさんは少しばつの悪い顔をする。「私も前に絡まれたことがあってね。あまりにもしつこくて、おまけに腕とか肩とか掴まれたから、2人に金的をお見舞いしたんだよね。黒澤に護身術で空手を教え込まれたからさ、つい」
「はぉ……」それは痛い。逃げ出すのも納得できる。
「一発?」
典子さんが問う。
「さ……2発くらい」
目を若干泳がせながらマリーさんが言う。
「今3発って言いかけただろ」
「い、言ってないし!」
あたふたとマリーさんが取り繕おうする。別に正当防衛だからいいと思うけど。
「それより!」とローテーブルを挟んでマリーさんが座る。「本題の箱は?」
「そうだった」
典子さんが思い出して、持ってきたトートバッグの中からあの箱を取り出した。
マリーさんはそれを受け取ると、「ふむ」と呟く。「黒澤の言う通り、これは寄せ木細工で間違い無いだろうね」
「開けられそう?」
「たぶん」
真っ白く細い親指で箱の表面を摩りながら回転させて持っていると、「カチッ」と音がした。
「ここがパズルのスタートね」そう呟くと、パチパチと音をさせながら箱を開錠し始めた。本当に先生の言う通理だ。彼女は手先が器用らしい。
間もなく「開いた」とマリーさんが言った。箱は噤んでいた蓋をとうとう開けたらしい。
かぱっと開けると、そこには──
「な、なにこれ」
「人形?」
「みたいね」
そこには、真っ白い布で作られた親指ほどのサイズの人形が入っていた。沢山の針を身体中に刺されて。
典子さんはその人形を取り出してまじまじと見ていたが、急に「きゃっ」と短い悲鳴をあげてその人形を床に落とした。俺はそれを拾い上げる。
「どうしたんですか?」
「な、中…」
青ざめた表情のままその人形を指差す。針山となっているその人形の、少し粗い縫い目を解くと、そこには──。
「か、髪の毛?」
大量の毛髪が入っていた。
気味の悪さでみんな無言になった。暖かかった空気が青ざめて行くのがわかった。冷房の音だけが部屋に響く。
「これって──」
「呪いかもね」
俺が言い終わるのを待たずにマリーさんが言い切った。
「のろ、呪い?」
典子さんが震える声で言った。かなりショックを受けている様子で、力が抜けたようにソファにもたれた。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ。驚いただけよ」と震える唇で彼女が言った。顔色がひどく悪い。
「それにしても一体誰がこんなことを」
「さてね。詳細はわからないけど黒澤に訊いてみるか」
ふん、とこともなげにマリーさんは人形の写真を撮り、先生に送った。
「くだらないね。こんなことをしても何にもならないのに」
呆れたようにマリーさんが言う。
箱型の……呪い。怪異に詳しくない俺でも一つだけ思い当たるものがあった。『コトリバコ』。持つだけで人間を死に至らしめると言われている箱。そんな、いやまさかな。都市伝説だろあれは。
「杏子が、あの子が一体何をしたっていうの……」
典子さんが頭を抱える。
「呪われた側が何をしたとか、呪う側には関係ない。呪いというのは自己中心的な感情、または被害妄想、妬み、嫉みの感情や、愉快犯的な人間が行うことが多いからね。これは多分……いたずらか何かだろうな。典子、君が考えるほど事態は深刻じゃないさ。悩めば悩むほど呪った人間の思う壺だよ。呪いは信じた人間に作用するからね」
マリーさんはそう言って、震える典子さんの肩を優しく抱き寄せた。彼女の仕草は友への優しさに満ちていたが、その表情には強い怒気が孕んでいた。陶器人形のように白い頬が、紅を差したように赤く染まっていた。
まったく、趣味の悪いことをする輩もいたものだ。手のひらに横たわる人形を今すぐにでも握り潰してしまいたい。
「妹ちゃんには……伝えない方がいいだろうね。作用させないためにも。克実、君も妹ちゃんにはいつも通り接した方がいい。悟られてはいけないよ」
「わかった」
マリーさんの忠告を強く胸に留め置く。
「そうだ。典子、いいものをあげる」
マリーさんはそう言って自分の部屋から何かを持ってきた。手にしているそれは、二つの銀色のロケットペンダントだった。
「これは?」赤い目をした典子さんがそれを受け取る。
「前に黒澤が説明していたけど、私たちアルビノの体の一部には不思議な霊力が宿るとされていてね。それで、この中には私の髪の毛が入れてある。お守りがわりに持っているといい。私の大切な友達を守ってくれるように念を込めたから、少しは効くんじゃないかな」
てへ、とマリーさんは、はにかんだ。典子さんはぎゅっとそれを握りしめ、マリーさんに抱きついた。
「ありがとう! 杏子にも必ず渡すわ!」
「ぐえっ」
苦しそうな声を出したが、マリーさんはその抱擁を解こうとはしなかった。
そうこうしているうちに杏子ちゃんからメッセージが届いた。お迎えの時間が近づいてきたらしい。
「典子さん、マリーさん、お迎えの時間なんで俺はそろそろ失礼しますね」
「あら、もうそんな時間? じゃあ私もそろそろ帰らないと」
典子さんはそういって立ち上がるが、マリーさんがその手を掴んだ。
「待って典子。そんな目じゃバレちゃうよ」
典子さんの目は泣き腫らしたまま赤くなっている。
「落ち着くまでゆっくりしていきな」
「じゃぁ、お言葉に甘えて……。克実くん、杏子をお願いします」
「おまかせあれ!」
二人に見送られて、俺は先生の家を出発する。さて、ボディーガードの時間だ。暑く照りつける日差しの元、俺は自転車を漕ぎ出した。
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