怪人 3
「おそらく弟君が見た『口裂け女』の正体は聴講生の麻美さんだ」
「え!?」
後ろの2人が同時に吃驚の声を上げる。俺も反射的に振り返りそうになった。先ほどから随分とその『麻美さん』について根掘り葉掘り訊くと思っていたけど……。どうして関係なさそうな人に焦点が当たるのだろうか。
「ですけど先生、麻美さんはコートなんて着ていませんでしたよ!」
「そうです、確かに草刈りの時はジャージを着ていましたよ。着替えた様にも見えませんでした」
詰め寄る2人を黒澤さんが静かに制す。
「まぁ聞きたまえ。確かに彼女は今日、君たちと一緒に作業していた。だがこの件はそれより少し前、恐らく君たちと合流する1時間ほど前のことだろう。岡山くん、小学校の学童は給食が出るのかい?」
「いえ、弁当です。春休みの間は毎朝作ってますね」
「その通り、給食なんだよ。そして君たちは『今日は』学童に行かせている、と言っていた。つまり昨日だけはイレギュラーで、普段は行っていないのだろう。つまり、私の推論はこうだ」
黒澤さんは新しく注文したコーヒーで口を湿らせ、話し始めた。
「麻美さんは今朝、草刈りに行くために子供を学童へ行かせた。朝早く起きて弁当を作り、子供を見送った後にシャワーを浴びた。だがその後に自分も出発しようとしたところ、あることに気づいた。普段弁当を持ち慣れていない子供が弁当を忘れたんだ。彼女は急いで追いかけようとするが、いつものように服を選んでいる時間はない。そして彼女は動きやすくて尚且つ人に見られてもギリギリ大丈夫な装い──バスローブを着た。急いで追いかけて学校に向かうが、まあ追いつかなくても先生か他の児童に渡せば問題ない。事案にならなかったのは届けた相手が見知った相手だからだろう。職員か子供の友達か。そして彼女は持ち前のその健脚で走って帰り、出発の準備をした。香水の香りがしないのも、メイクがいつもより薄く感じたのも時間がなかったからだろう。マスクをつけていたのはノーメイクだったからという可能性がある」
「はい先生、なんで麻美さんがシャワーを浴びたと思ったんですか?」
「君が『モデルかと思った』と言っていたから、普段から身だしなみに気をつけている人なのかもしれないと思ったんだ。朝シャンくらいするだろうと」
「朝シャン?」
「まぁ全て勝手な想像で憶測にすぎない。健脚だと思ったのはうちの陸上部の『星』から以前、聴講生の主婦の方が見学に来ていて、それが昔見たことのあるアスリートだったと聞いたことがあったのを思い出したのさ」
「『星』……あぁ、あいつか!」
「理屈を捏ねても答え合わせができないのが残念だがね。私からは以上だよ」
黒澤さんはそう言って腰を上げた。
「できますよ、答え合わせ」
学生の1人、田辺さんがそう言った。
「麻美さんの連絡先なら知ってますよ」
「なんで知ってるんだ」
岡山さんと黒澤さんが揃ってツッコむ。
「ちょっと前から麻美さんと話す様になってね。『今度サシで飲みに行きましょう』ってことになったんだよ。で、その時に」
田辺さんがそういうと、呆れたような溜め息を2人が吐いた。
「他人の交友関係に関してとやかく口を出したくはないがね田辺君。周囲から見て勘違いされる様なことには気をつけなさい」
電話をしに田辺さんが外へ出た。
「というか先生、先生は最初から『口裂け女』の存在を信じてなかったんじゃないですか? 初めからその正体を解明する体で話を聞いているように見えました」
「岡山君、なかなか鋭いね。そうだよ、私は最初から『口裂け女』を『変装した人間』か『見間違い』かのどちらかだろうと考えていた。『口裂け女』は存在しないからね。あれは存在してはいけないものなんだよ」
「存在してはいけない?」
「そう。流言蜚語とはつまり存在しないデマ。『口裂け女』はただの噂話に過ぎないんだ。過去に類似した事件があったりしたために、噂が現実味を帯びてしまったんだね。そして『口裂け女』の出所の一つに、母親たちの吐いた嘘説がある。塾や遊びで帰りの遅い子供たちを早く家に帰って来させるために母親たちがコミュニティ間で『口裂け女』という架空の噂話を作り、それが伝言ゲームのように子供たちの間に広まった、というものだ。だから『口裂け女』は実体を持って存在しない」
「そんな説があるんですね、なるほど」
「ああ。噂話は噂話に過ぎない。だから時間と共に廃れて消えたんだ。岡山君、これは私の個人的な信条だがね。人は存在しないモノや起こってもいない事で傷ついたり迫害されてはダメなんだ。私たちは人間だ。その起こった事柄を調査し、実験し、そして理解することができる。迫害や差別などは考えることを放棄したのと同じことだ。せっかくこうして人間に生まれたんだ。考えて歩かないと勿体無いよ」
「民俗学者がいうと言葉の重みが違いますね」
「私もそれなりに色々見てきたからね。今回の件も、仮に麻美さんだとしたら彼女が噂の種にされてしまうかもしれない。私は出来るだけそれを避けたいと思っている」
「なるほど、そういうことでしたか」
後ろの2人がそんな話をしていると、ドアベルと共に携帯を片手に持った田辺さんが嬉々とした表情で戻ってきた。
「先生、正解です」
先ほどの推理は当たっていたらしい。岡山さんが興奮気味に驚嘆の声を上げる。
「民俗学者って推理もできるんですね」
「まさか。偶然だよ。君たちの会話が何やら面白そうなものだったから、つい聞き耳を立ててしまったんだよ。それに、ヒントは君たちの会話の中に散らばっていたからね。その中で繋がりそうなものの点と点を無理やり繋げただけだよ。斯く言う私も当たっているとは思わなかったがね」
はは、と黒澤さんは笑う。まるで大したことはしていないといった様子で。
俺は既に空になって乾いたコーヒーカップを眺める。思いがけずつい長居をしてしまった。そろそろ帰ろう。
会計を済ませて店を出る。そして暫く歩いたところで、肝心の新聞を読んでいないことを思い出した。まあでも、昨日の新聞ならまだ捨てずに家にあるだろう。帰ってゆっくり読もう。
片田舎の閑静な住宅地を気持ちよく歩く。車通りも人通りも少なくとても静かな昼下がりだ。
と、そんな呑気なことを思っていると、後ろの方で女性の悲鳴が聞こえた。見てみると、女性が転倒している。そしてその横を黒い原付が追い越してこちらに走ってくる。
「ひったくりよ!」
女性が大きな声で叫ぶ。見れば原付の大柄な運転手の手元に女性物のバッグがぶら下がっていた。
どうしようかと少し焦ったが、見過ごすわけには行かない。深く息を吸い、全身に力を入れる。大丈夫、この体は無駄に頑丈だ。
そう自分に言い聞かせて徐々に迫ってくるエンジン音に耳を澄ませ、距離を測る。そして俺の横を通りすぎようとした瞬間──。
「ふんっ」
すれ違い様にひったくりの首めがけて、右腕のラリアットをお見舞いした。運転手を失った原付の車体が横転する。スライドした車体はそのままアスファルトの上をガリガリとスライドし、電柱に衝突した。
ひったくり犯は後頭部からアスファルトに叩き落とされたが、厚着とフルフェイスのヘルメットに助けられたらしい。「うぅ」と呻き、伸びている。
ラリアットした右腕をぐるりと回してみる。うん、痛みはないし問題なさそう。
路上に落ちたバッグを拾い、駆け寄って女性に届ける。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫よ、驚いて転んでしまっただけだわ。あら、ありがとう。あなた大丈夫なの? すごい音がしたけれど」
女性が立ち上がるのに手を貸す。
「俺は大丈夫です。あ、通報しないと」
スマホを出そうとポケットを弄る。
「あ」
女性が俺の後ろを指差す。見ると男が立ち上がっている。だが足取りは覚束なく、ふるふると震える脚が生まれたての子鹿の様だった。フルフェイスのせいで視線がわからない。
「やめとけ、動くと余計に身体を痛めるぞ。すいません、この携帯で通報しておいてください」
俺が女性にそう言った途端、男は踵を返して走り出した。
「しまった!」
逃げられる。覚束ない足取りだと思ったが、まだ動けたみたいだ。クソッ、油断した。
「待ておいっ!」
追いかけるがなかなか相手も早い。男は道路の途中にある住宅と住宅の間の路地に入り込んだ。角を曲がり、視界から消える。
逃すか、と勢いを殺さずに曲がると──そこで男が取り押さえられていた。
「あ、やあ」
犯人を地面に押さえ込み、気の抜けた挨拶でへらっと笑うその人は、先ほど喫茶店で名推理を披露した黒澤さんだった。ひったくり犯は腕を後ろに捻られ、アスファルトとお友達になっている。黒澤さんの手元を見ると、たったの指3本だけで小手を捻っている。
「通報ってした?」
落ち着いた様子で黒澤さんが言う。
「はい、さっき」
「ああ、そうかい。じゃあもう暫く抑えていようか」
余裕な様子で彼はそう言った。暫くして遠くからサイレンの音が響いてきた。いつもは不安を掻き立てられるその音に少し安堵する。
パトカーから出てきたお巡りさんに黒澤さんが犯人の身柄を渡し、俺たちは事情聴取を受けた。
「あなたが通報したんですか?」
男性の若い警察官が俺の担当らしい。俺は事件のあらましをある程度まで説明する。
「いえ。あの女性に俺の携帯を渡して通報してもらいました。犯人が勝手にスリップして転倒した後に走って逃げたのを追っかけて、あの人が取り押さえました」
俺は黒澤さんを指差す。
「なるほど、わかりました。また事情を聞くかもしれないので、連絡先とお名前伺ってもいいですか?」
「あ、はい。名前は江口です。江口克実」
俺は携帯と家の電話番号をお巡りさんに伝え、「お疲れヤマでした」と敬礼した後にその場を去った。
事情聴取から解放されて俺の心中に浮かんだのは、被害者女性の心配やひったくり犯への恐怖ではなく、ただただ「疲れた」という感想だけだった。
疲れた。訳のわからない疲労感でいっぱいだ。お昼を食べたばかりなのに。
肩を落として歩いていると、「君!」と後ろから声をかけられた。俺と同じくお巡りさんからの事情聴取を終えた様子の黒澤さんだった。俺に手を振っている。
「えっと、黒澤さん。どうしたんですか?」
「あれ、名乗ったっけ。まあいいや、さっきは凄かったね」
「なんのことですか」
俺はしらばっくれる。
「ラリアットしておいてそれはないだろう」
カラカラと彼は笑う。全部見られていたらしい。
「まあ、ええ。逃しましたけど。黒澤さんもよく取り押さえられましたね。なんかやってたんですか?」
「空手をちょっとね。不器用すぎてまだ五段だ」
段といえば黒帯より上だろう。強い人だな。
「それにしても、どうして自分がラリアットしたことを言わなかったんだい?」
その質問はお巡りさんからは逃げおおせたと思っていたけど、この人からは逃げきれなかった。
「いや、危ないとかなんとか言われて怒られそうだし、それで無傷だって言っても信じないでしょうから」
「それもそうか」
納得された。もっと聞かれるかと思った。
「それで、大学の先生が何の用ですか?」
「そうそう、バイトしないか?」
その藪から棒な提案に驚く。
「え」
「喫茶店で求人誌を見ていたろう? 休みを利用した短期バイトを探しているのかい?」
「やっぱりよく見ていますね。そうです、春休みを利用した短期バイトを探していましたけど……残念ながらいいものが無かったですね」
「短期でもいいんだが、私の手伝いをして欲しいんだ。そうだね、日給はこれくらい出そう」
黒澤さんはメモ帳を胸ポケットから取り出し、金額を書いた。提示されたその0の数に目を疑う。
「本当ですか?」
「うん、悪い話じゃないだろう。仕事内容はそうだね……不定期だけど荷物搬出と運搬の手伝い、資料の片付け、あとは出掛けでのサポートだね。そして──研究の手伝い。力仕事が多いけれど、君なら任せられそうと思ってね」
「やりましょう」
即決だった。提示された金額に揺さぶられたのもそうだが、俺の力が役に立つのであればやりたい。
「ありがとう。そうだ、自己紹介が遅れたね。私は黒澤。水城大学で民俗学の教授をしている」
水城大学か。近所の大学で俺の姉も通っている。
「江口です、江口克実。高岡北高校のいち……いや、2年生です」
「よろしく江口君」
差し出された右手を握り返す。こうして黒澤さん──先生に会ってからというもの、俺は今までの生活だったら想像もつかなかった事、出会わなかった人に沢山出会うことになる。だがそれはまだ見ぬ先の話で、その時の俺はまだ知る由もない。
これは街が桜色に染まる少し前の春の話だ。
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