閑話
『犬神』の一件から数日後のある日。別の高校に進学した友達と休みの予定が合い、久しぶりに朝から遊んだ帰りのこと。ひとしきりカラオケで歌って遊び、解散した直後に運悪く夕立に当たってしまった。遠くに雷鳴も轟いている。
どうしてこのタイミングで。いくら夏の風物詩といえども、それに備えていつも雨具を持ち歩くわけじゃない。
このまま家に走って帰るより水城大学の方が近かったので、少し考えた末に雨宿りをさせてもらおうと思い、大学へ向かった。
校舎内に足を踏み入れた途端、さっきより一層雨脚が強くなった。熱いアスファルトに雨が降ったせいか、湿気がむわりと立ち込めた。
「ひっでぇや」
前髪から雫が落ちる。急いで走って来たとはいえ、雨を避けられるわけではなかったから、見事に濡れ鼠になっていた。Tシャツが胸と背中にへばり付く。ぬるい雨水が気持ち悪い。
──そういえば、資料室に俺の着替えがあったかも。
ふと、そんな事をことを思い出した。先生の手伝いをした際に汚れたり、汗をかいた時のために着替えを置いてあるのだ。
出来るだけ雨に当たらないように屋内を進み、資料室に向かう。資料室の一棟はそこだけ陸の孤島のようで、他の校舎と屋根はおろか廊下も繋がっていない。そのせいで、雨に打たれながら軒先まで走らなければならなかった。
玄関に入る前に軒下でシャツの裾を絞った。思っていたより濡れていて、面白いほどに水が絞り出た。
スリッパに履き替え、廊下の突き当たりの部屋に向かった。
「先生、江口ですけど」
そう言って戸をノックする。返事はない。
いないのかな、と戸に手を掛けると鍵はかかっていなかった。開かれた隙間から冷房の効いた空気が流れ出る。ずっと不在というわけではないらしい。
「お邪魔しますよ」
と中に入る。よく冷えた部屋のせいで、濡れたシャツが瞬く間に冷たくなった。
足元の本を濡らさないよう気をつけながら室内を進む。本棚の裏にある応接スペースに人影が見えた。
「先生、雨に濡れてしまったので着替えを──お?」
その人影を先生だと思って話しかけたが、全然違った。
先生がいつも座っている椅子に長い脚を組んで腰掛けていたのは、見慣れない女性だった。黒いつば広の女優帽にセレブが付けてそうなバタフライ型のサングラス、グレーの長袖シャツに黒いロングのフレアスカートを着ている。
一見、全体的に「黒」という印象だったが、帽子の下に見える髪の色と、スカートの裾から覗く肌がやけに白いということがあり、その白黒のコントラストが目に焼き付いた。
その女性は突然現れたずぶ濡れの俺を見ても微動だにせず、ただ黙ってこちらを見ていた。
「お、お邪魔します。ここに置いてある俺の着替えを取りに来ました」
聞いてるのかわからないが、不審者と思われないように用件を呟き、着替えのある戸棚に進んだ。
沈黙の空間。いそいそと着替えを取り出す。布の擦れる音と、壁の時計の針の音だけが聞こえる。とても気まずい。
服一式を取り出し、廊下に出て着替える。
一体あれは誰なんだ。あの姿は客人って感じでもない。
もう一度よく見ようと戸に手を掛けようとした瞬間、
「克実くん?」
と背後から声をかけられた。びっくりして肩が3cmほど浮いた。
「せ、先生、中に見知らぬ女性が」
「?」
首をかしげる先生が、俺の心配をよそに戸を開けた。
「あ」
「黒澤、遅い」
部屋に入った先生の顔を見るや、先程の女性が幼い少女のように頬を膨らませて、腕を組み立ち上がった。
「すまないすまない、会議が長引いてしまってね」
頭を掻きながら先生が苦笑する。
「お前かと思ったら知らない奴が入ってくるし」
「ああ、彼は僕の手伝いをしてくれてる子なんだ」
「そうなん」
女性は俺を見る。いや「そうなん」って。
「そうですよ」
「紹介するね。彼女は逢沢茉莉。ほら、この前赤城くんと話した」
「ああ! 先生の奥さん」
「奥さんだなんて」
きゃー、と彼女──逢沢さんは照れたように両の頬を手で覆った。
「だから違うよ」
呆れたような口ぶりで先生が言う。
「そうでしたそうでした」
「マリー、彼は江口克実くん」
「シクヨロです。敬語はいらない、堅苦しいのは嫌いだからマリーって呼んで。もしくはマリーお姉様」
逢沢さん、もといマリーさんは、目元でピースをしながら言った。口元は笑っているように見えるが、大きいサングラスのせいで目元の詳しい表情はわからない。さっきは冷たい印象を受けたが、とても明るい人のようだ。
京助さん然り、先生の知人は変なテンションの人しかいないのだろうか。
「よろしくお願いします、マリーさん」
「敬語はいらないってば。まあ座りなよ」
マリーさんに言われ、応接スペースのソファに座った。先生はマリーさんに定位置の椅子を取られたので、俺の横に座った。
「そういえば克実くん、君はどうしてここに?」
「朝から友達と遊んでたんですが、その帰りに夕立に遭いまして。ここが家より近かったので、雨宿りがてら寄ったんです。それでここに置いてある着替えを取りに来たんですよ」
「そういうことか。災難だったね。マリーは何してたんだい?」
「病院に行ってからここに来て、整理の出来ない黒澤の代わりにここの掃除をしてた」
えっへん、とマリーさんは胸を張った。
「ありがとう、助かるよ」
「妻の勤めよ」
「ややこしくなるから、そういう事はあまり言わないで」
へぇ、先生が珍しく振り回されている。
「そういえば先生、前に赤城さんと話した時に、マリーさんも俺と同じ研究の対象だって言ってましたけど」
「ああ、そうなんだ。マリー、帽子とサングラスを外してあげて」
先生がそう言うと、彼女は覆っていた素顔を露わにするように、その装いを外した。
その姿に思わず言葉を失った。
白かったのだ。さっきちらっと見えたオン眉セミロングの髪の毛も、瞼の上の長い睫毛も、帽子の影に入っていた肌までもが雪のように真っ白だったのだ。こちらを見つめる瞳は色素が薄く、青色がかった灰色に近い。
そして、その装いのせいで気づかなかったが、どうやらマリーさんは日本人じゃないらしい。
「こ、この色はまさか」
俺は同じような人間をテレビで見たことがある。
「そう、彼女は人間のアルビノなんだ」
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