異類婚姻譚 終

 『犬神』の一件から数日後、俺は再び資料室に来ていた。冷房の効いた部屋には既に先客──赤城さんが来ていて、応接スペースのソファに座っていた。

「こんにちは。お久しぶりです」

「こんにちは、克実君。久しぶりだね!」

 相変わらずの明るい調子で赤城さんはそう言うと、自分の右隣をペシペシと叩き「まあ座りなよ」と言った。彼女もこの空間に大分慣れてきた様子だ。

 今日は黒いノースリーブにジーンズ生地のスキニーパンツ、白いスニーカーというラフな姿だった。この人は会う度に印象が違うな。

 先生は向かいに座って、俺たちのやりとりをコーヒーを啜りながら眺めていた。

「克実くんはアイスコーヒーでいいかい?」

「はい、いただきます」

 俺はそう言ってソファに腰を下ろした。ぎゅむ、とお尻が沈む。

「そうそう、先生から聞いたよ克実君。凄い活躍だったみたいだね」

 前屈みになり、膝の上で頬杖をついた姿勢の赤城さんがそう言った。その好奇心に満ちた悪戯っぽい表情に思わず目を逸らしてしまう。

「そ、そんな大した活躍じゃありませんよ」

「火の壁を背に、大の男を肩に担ぎながら門を蹴破って野次馬の前に登場。まるで映画みたいだね!」

 仰々しい言い方だなあ。

「先生、誇張しすぎじゃないですかね」

「私は見たままを言っただけだよ」

 そう言って笑いながら先生がコーヒーの入ったグラスを俺に渡した。それを受け取って一口飲む。ほろ苦い味が舌の上に広がった。

「そうそう、尾野崎君から頼りが届いたよ」

 先生が机の上に置いてあった封筒を俺に差し出す。受け取って中を見ると、一通の手紙が入っていた。そこに書かれていた内容は、俺たちが帰った後の尾野崎さんと由美さんの出来事についてだった。

 嘉兵衛さんが回復した後、2人は改めて結婚の許しを得るために彼の元に訪れた。命を懸けて自分を助けてくれた尾野崎さんの活躍を奥さんから聞いていた嘉兵衛さんは、今度こそ2人の結婚を条件なしで認めた。そして、『憑きもの』信仰を利用して尾野崎さんの家を差別したことを謝罪したという。

 由美さんのお家の整理が落ち着いたら、籍を入れて結婚式を挙げる予定なのだそうだ。手紙を更に読み下げていくと最後に追伸が有り、こう書かれていた。

「式を挙げる際には、黒澤先生と江口さん、それに赤城ちゃんにも是非来ていただきたいと思っています」

 読み終えると、胸の奥底がとても熱くなった。名伏し難い、何とも不思議な気持ちだ。

 ああ、本当に良かった。安心した。

「尾野崎さんと由美さん、無事に婚約が成立したみたいですね。めでたい!」

 俺の言葉に赤城さんが頷く。この一件をここへ持ち込んだ張本人である彼女は、俺よりも嬉しそうな様子だった。

「先輩、久しぶりに会った時は今にも死にそうな顔してたから……。私も本当に嬉しい」

 うっすらと目に浮かんだ涙を彼女は拭う。

「何はともあれ最悪な結末にならずに済んで私も一安心さ。差別によって婚姻が破棄された若人の結末は、悲惨なものがとても多いんだ。戦後は特に破談が原因で心中する男女が後を絶たなかった。社会現象になるほどにね」

 先生は煙草を咥え、火を付ける。ゆらりと揺れる紫煙がいつもの空間を作った。

「プランBとして駆け落ち案も用意していたが、実行せずに済んで良かったよ」

 ふう、と先生は軋む椅子に背を預ける。駆け落ち案なんてあったのかよ、聞いてないぞ。

「犬神と人間の娘の結婚か。奇しくも我々はお伽噺に聞く異類婚姻譚を目の当たりにすることができたわけだ」

「いるい……服がどうかしたんですか?」

「衣類じゃないよ。人間と異なる類の者が結婚する話の総称だ。妖怪と人間、神と人間、あるいは獣と人間というようにね。今回の場合だと、犬神と人の娘が結婚するという話になる。狐と人間が夫婦になって子を成した話は有名なものがあるけど、犬神は初めてだ」

「狐と人間……。『蘆屋道満大内鑑』ですね」

 赤城さんが答える。

「さすが文学部。よく知ってるね」

 先生にそう言われ、彼女は得意げな顔をした。

「克実くん、安倍晴明が狐と人間の間に生まれた子という話を聞いたことはないかい?」

「あ、それは聞いたことがあります。安倍晴明が陰陽師の中でも傑出している理由の一つだったような」

 学校の古典の授業中に先生が言っていたのを覚えている。

「そうそう、その親の話なんだ。晴明の父、安倍保名が森で狩人に追われる白狐を助けるんだけど、その際に怪我を負ってしまう。すると、そこに葛の葉と名乗る女性が現れて、保名を手当てするんだ。やがて恋仲になった2人は子を授かるんだけど、ある時葛の葉の正体が助けた白狐だとバレてしまう。正体がバレてしまった葛の葉は、もう保名と一緒にいられないと森へ帰って姿を消してしまう、ってお話なんだよ」

 赤城さんがあらすじを説明してくれた。

「実はこの葛の葉の正体は狐ではなく、被差別部落出身の身分の低い女性だったという話がある。つまり、保名との身分違いの恋ということだね。葛の葉はその出身のせいで悲劇的な結末になったのでは、という説があるんだ」

「人から狐にされた女性……」

「おっと、いけない。話が逸れてしまったね。まあつまり、このパターンで男女が逆転したのが尾野崎くんと由美くんに重なると思ってね」

「ああ、なるほど」

 人として扱われなかった人間──まさに先生の研究対象だな。

「でも今回はハッピーエンドになりましたね」

 赤城さんがそう言った。

「ああ、そうだね」

 先生はそう言って銀の灰皿に煙草を押し付ける。

 尾野崎さんたちの出来事は、まるで真っ青な空に写った影送りの影の様に俺の心の中に強く、深く焼きついた。この夏の出来事は多分、一生忘れることはないだろう。

 汗をかくセピア色のグラスを眺めながら、俺はそう思った。 

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