異類婚姻譚 11
あの後、俺は煤と煙の臭いが染み付いた体を洗うためにもう一度風呂に入り、尾野崎さんに夜食を頂いた。由美さんも今日は尾野崎さんの家に泊まるらしい。
お腹いっぱいに夜食を食べた後、気づけば食堂の座布団を枕にして朝まで爆睡していた。
翌朝、柔らかい畳の感触で目を覚ます。眩しさに目を慣らせながら寝返りを打つと、開いた襖の向こうに青空が見えた。
足元の方で物音が聞こえたので、体を起こしてそっちを見る。台所の流し台の前で、尾野崎さんと由美さんが肩を並べて立っていた。
微笑ましくて眩しい光景だなあ。お邪魔するのも申し訳ない。さて、もう1回寝るか。
再び横になろうと座布団を枕の形に丸めていると、廊下の方から先生が現れた。いつもの服装に戻っている。
「起きたか、克実くん」
「……おはようございます」
「起きたなら荷物を纏めたまえ。朝ご飯を食べたら帰るよ」
帰る──そうだった。もうそんな時間か。
体を起こし、立ち上がって伸びをする。力を使った反動の疲労は残っていないみたいだ。
「おはようございます」
その会話に気づいた尾野崎さんと由美さんがこちらに来る。
「おはようございます。すいません、こんな所で寝てしまって」
「いえいえ、全く構いませんよ。お疲れの様子でしたからね」
「朝ご飯ができましたよ」
由美さんが料理を乗せたお盆を持って来てくれた。
「ありがとうございます、顔洗ってきます」
離れの洗面所で顔を洗い、朝ご飯を食べる。温かい味噌汁に炊き立てのご飯が合う。柔らかいだし巻きも美味しい。
例によっておかわりを2杯いただき、お腹をいっぱいにしてお茶を飲んでいると、唐突に玄関の戸を開ける音がした。
「由美!」
昨日聞いた女性の声だ。
「はい!」
由美さんが玄関へ向かう。
「お母様!」
由美さんのお母さんが来たようだ。その声に尾野崎さんも玄関に向かう。
「たっちゃん! いえ、辰弥さん。昨日は本当にありがとう。あなたのおかげでお父様も無事で、入院するほどの大事にはならなかったわ」
「それは良かったです」
「それと、昨日門を蹴破った方にもお礼を」
話が聞こえていたので、俺も玄関に顔を出す。
「あら、あなたが」
少し疲れた様子の由美さんのお母さんが、俺の顔を見て深々と頭を下げた。
「昨晩は本当にありがとうございました。嘉兵衛に代わってお礼を申し上げます」
「いえいえ。こちらこそ門を破壊してしまって申し訳ないです。それに、お礼を言われるほどの事を俺は何もしてません。昨日見た通り、辰弥さんが先に向かったおかげですよ」
「江口さん?」
「俺はあくまで出るために門を蹴破ったまで。あの火を飛び越えたのは辰弥さんです。嘉兵衛さんにもそうお伝えください」
由美さんのお母さんは俺が伝えたい事を理解してくれたのか、無言で頷いた。
「荷物まとめてきます。では失礼」
もう俺が話すことは無い。後は尾野崎さんに任せて荷造りだ。
奥座敷に戻ってボストンバッグに着替えを詰める。汚れた衣類は尾野崎さんが洗濯機を貸してくれたので、持って帰るだけだ。家での洗濯の手間が省けてとても助かる。
先生の荷物はトランク一つで、部屋の入り口に置いてあった。
もう出るだけか。して、その先生はどこに行ったのかな。
「ああ、そう。今日帰るよ」
探そうと立ち上がると、中庭から声がした。見ると、先生が電話していた。例の『奥さん』か?
「じゃあ」
そう言ってガラケーをぱたんと閉じ、部屋に戻ってきた。
「奥さんですか?」
「だから違うってば」
からかう俺に先生が困った表情をする。
「へへ。もう荷物はまとめましたよ。いつでも出れます」
「そうかい。じゃあ行こうかね」
荷物を持って玄関に向かう。由美さんのお母さんは帰ったらしい。
「もう出発されるのですか?」
荷物を持った俺たちを見て尾野崎さんが訊く。
「ああ。世話になったね」
「いえいえ、何を仰います。お世話になったのは僕の方です」
「今回は私の知識だけでは解決できなかったからね。何とも言えないなあ」
先生は頭を掻いて苦笑する。
「尾野崎さん、最後にひとつ訊いてもいいですか?」
「なんでしょう」
俺は気になっていた事を尋ねてみる。
「昨晩、あの場所にどうして飛び込んだんですか? あなたも一緒に死んでしまう可能性もあったのに、どうしてそこまでして嘉兵衛さんを助けに行ったんですか?」
俺の問いに尾野崎さんは少し考え、答えた。
「僕は以前にもお話しした通り、両親が既に他界しています。両親が亡くなったときに感じた辛さや喪失感というのは、世界の色が無くなって見えるほどにとても耐え難いものでした。こんな思いを由美にさせたくない、例え結婚出来なかったとしても由美には幸せに生きて欲しいと思うと、体が勝手に動いていました」
「辰弥さん・・・・・・」
ぎゅっと由美さんが胸を抑える。
「それに、嘉兵衛さんも悪い人ではないんです。『犬神』と差別する様な事を言っていましたが、僕はどうしてもそれが本心だとは思えなくて」
照れた様に彼は微笑む。
「そうでしたか」
本気で人を愛すると、自分の命さえも差し出せるというのはあながち嘘じゃないらしい。俺にはまだ理解できないけど。
「尾野崎さんも由美さんも、お元気で」
俺は尾野崎さんと固く握手する。
「江口さん、本当にありがとうございました」
「お野菜とご飯、とても美味しかったです。ごちそうさまでした」
「そうだ、これを」尾野崎さんが小さいジッパー付きの小袋を俺に渡す。
「これは何ですか?」
小袋を見てみる。何かの種のようだけど……。
「ミニヒマワリの種です。お礼と言ったら全然足りませんが。庭掃除をしてくださった時に見られていたのを思い出しまして」
昨日の朝に見た、庭の植え込みのミニヒマワリの事か。受け取った小袋を無くさないようにポケットに仕舞う。
「ああ、あのお花の。いや、お礼なんてとんでもないですよ。結婚の話、うまく行くと良いですね」
「はい。由美のお母様が嘉兵衛さんを説得するお手伝いをしてくれるみたいで、心強いです」
「そうですか! それは良かった。強い味方ですね」
話しながら車に向かい、ハッチバッグに荷物を積み込む。外はもう日が高く、空は雲ひとつない夏空だった。
「由美くん、尾野崎くん。困ったらまた資料室に来るといい」
先生はそう言ってキーを回す。低いエンジン音と共に、エアコンが回る。
「ではお達者で!」
先生と車に乗り込み、開けた窓から2人に言う。2人は顔を見合わせ、照れたように笑った。
「出発」
そう言って先生がアクセルを踏む。唸るような低いエンジン音と共に、車が走り出す。俺は窓から顔を出して、見送ってくれた2人に手を振る。2人も俺たちの姿が見えなくなるまで、両手で大きく手を振り返してくれた。
窓を閉めてシートに座り直し、ポケットから頂いた種の袋を出す。家に帰ったら小さいプランターでも買って植えてみようかな。
尾野崎さんからもらったミニヒマワリは次の夏から綺麗で可愛い花を咲かせ、毎年我が家に夏が訪れたことを知らせてくれるようになるけど、それはまだ少し先の話だ。
先生が車のラジオのスイッチを入れる。俺は窓の外を流れる風景を楽しみ、またアトラクションのような車の振動に揺さぶられて帰路に就いた。
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