異類婚姻譚 9
無人のだだっ広い屋敷にひとり。大きい欠伸をしてもひとり。耳元を蝉の声と爽やかな風だけが通り抜ける。静けさが寂しくもあるけど、それと同じくらいこの屋敷はどこか懐かしい雰囲気がある。
心地いい環境のおかげか、家の部屋よりも課題が捗る。持ってきた3教科のうちの2教科を終わらせることができた。勉強への集中が途切れると、腹の虫が鳴いた。
座卓を拭いて、冷蔵庫から冷しゃぶが乗った皿を取り出して、食事の準備を済ませる。
「いただきます」
夏野菜を沢山和えた冷しゃぶは控えめな味付けなのに旨味が口の中に広がり、俺の食欲を刺激する。箸が止まらず、どんどんと口に入っていく。夏場はさっぱりとした味付けの方が食が進む。
きっと尾野崎さんは沢山食う俺のために量を多めに作ってくれたんだろう。皿が空になると、俺の腹ははち切れんばかりに満たされた。
「ごちそうさまでした」
流し台を借りて食器を洗い、ラックに立てかけていると玄関の扉を開ける音がした。
向かうと、先生たち3人が戻ってきていた。行きの心配していた雰囲気とは違って、尾野崎さんも由美さんも笑顔だった。
「お帰りなさい、上手くいったんですか?」
「まあね。無理矢理説き伏せる形になってしまった感じは否めないが」
先生は側頭部を掻く。
「父は、結婚に一応納得してくれた様子でした」
「一応、ですか」
「はい、条件付きでした」
条件付きの結婚?
「それというのは、僕が婿になることです。尾野崎の家を捨て、古舘の人間になるというなら結婚を許そうという話でした」
俺はその条件に少しながら違和感を覚えた。今まで差別していた人間をまるで手のひらを返したように家に迎える? 家を捨てろってことは尾野崎さんにあの美味しい野菜が育つ畑を捨てろってことじゃないのか?
「でも、その条件で一緒になれるなら」
尾野崎さんと由美さんは顔を見合わせて微笑んだ。そんな条件、ふたりの前では大したことじゃないらしい。
「何はともあれ、私の役目は終わったということさ」
いつも通りの表情だったが、心なしか先生も嬉しそうに見える。
「おめでとうございます」
俺も2人を祝福する。
「ありがとうございます」
俺の言葉にふたりは揃ってそう言った。いい顔だった。
無事婚約が成立して、お祝い気分に包まれたその日の晩は8月にしては珍しく雨が降った。そのせいか、2人を祝福する気持ちの影に潜む微かな不安がそこから出ようと前のめりになっているような気がしたけど、俺はその気持ちに蓋をする。
今回の案件もこれで済み、ここを発つのは明日の朝だ。尾野崎さんにはもう一泊お世話になる。
緊張の糸が解けた様子の尾野崎さんは、心なしか雰囲気が前より柔和になったように感じる。ここまで幸せそうな人間を目の前にするのは初めてだ。
晩御飯をいただいて、風呂を済ませて部屋の縁側で雨を眺めながらまったりしていると、台所の辺りが少し騒がしいことに気づいた。
気になって見にいくと、声は台所より少し向こうの玄関からだった。
そこの板間には尾野崎さん、そして土間には雨の中を走ってきたであろう様子の由美さんが立っていた。ずぶ濡れで、肌に張り付いたブラウスがその華奢な体のラインを浮き彫りにしている。スカートの裾は泥水で汚れ、足元に雫を落としていた。
目の前のピリついた空気に困惑する。幸せそうな雰囲気だった尾野崎さんの表情は一転、重たげでひどく消沈していた。由美さんの顔にも涙を流した痕が見える。一体何があったんだろう。
先生もさっきの声を聞いたのか、のそりと湯上がり姿で現れた。
「どうしたんだね?」
先生の声が沈黙を破る。震える声で由美さんが答えた。
「ち、父が婚約を破棄しろと、先ほど急に言い出しました。そんなのは納得できないと言ったのですが、怒鳴るばかりで会話にもならず」
「飛び出してきたわけか」
先生が言い淀んだ由美さんの言葉を続けた。由美さんは尾野崎さんに抱きつき、その胸の中で肩を震わして泣いている。尾野崎さんはそんな彼女を優しく抱きとめていた。
「玄関は冷える。中で話そう」
先生がそう言い、俺たちは台所の座卓を囲んで座った。
由美さんは尾野崎さんが持ってきたバスタオルを肩に掛け、赤い目で机上を見つめている。
「どういう心変わりなんだ。嘉兵衛さんは結婚を許してくれたんじゃないのか」
ぽつりと尾野崎さんが呟く。嘉兵衛さん──由美さんのお父さんか。
「条件を呑むなら、という話だったね。君は嘉兵衛殿の前でそれを了承したから、当然条件を満たした事になる。それは私が見たから間違いない」
先生がそう言うと、「先ほど父から聞き出した事ですが」と由美さんがぽつりと言う。「父が勝手に婚約を取り付けていた相手というのが、父が昔から懇意にしている取引先の後継ぎなのだそうです」
「政略結婚、ということか」
「その方は父の事業に昔から資金の援助をしていたらしくて」
「婚約の破棄によって関係が悪化するのを恐れたんだろうね」
ううむ、と先生が唸る。
「根はそこにあったのか。君たちが知らない間に──いや、もしかすると結婚の話を嘉兵衛殿に報告する以前からその相手と約束していたのかもしれないね」
「じゃあ、結婚反対の理由が『犬神』というのは」
「恐らく、昔からあった犬神伝承の信仰と尾野崎くんの家筋を利用して、『自分の事業の利益のため』という本心を隠そうとしたのが理由かもしれない」
「じゃあ、憑きもの信仰それ自体より、ただのこじつけ?」
「そういう事になるね」
酷い、なんだよそれ。勝手すぎる。自分の娘の人生を何だと思ってるんだ。
「私、もう一度父と話してきます!」
そう思っていると、由美さんが急に立ち上がった。それと同時に玄関の戸が勢い良く開く。
そこには、見覚えのある中年の女性がひどく焦った表情で立っていた。急いで走ってきたのか、息が荒い。
「たっちゃん大変! 燃えてる! 古舘さんの家が燃えてる!」
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