異類婚姻譚 8
ゴソゴソと布の擦れる音で眠りから覚めた。
瞼を開けるとまだ薄暗く、物の輪郭を掴むことも少しおぼつかないほどの明るさだった。見慣れない天井、覚えのない布団と畳のにおい。尾野崎さんの家に宿泊していたことを思い出すまでに、少し間があった。出先で起きた時によくあるやつだ。一瞬だけ見覚えのない部屋でついぼうっとしてしまう、アレ。
寝返りを打って先生の布団を見ると、もうすでに折り畳まれていた。さっきの物音は先生が布団を畳む音だったらしい。
枕元のスマホを手に取る。空気を読まないほど明るいディスプレイに目を細めながら確認してみると、まだ5時半だった。
縁側の方からざりざりと砂を踏む音が聞こえる。なんだろう、と匍匐前進しながら障子をそろりと開けてみる。
縁側の外の中庭のようなスペースで、まだ日が上り切らない涼しい空の下、先生がラジオ体操をフライングしていた。よく聞くと口でカウントを取っている。
年取ると早起きになるって聞くけど、まさかな。目覚ましのアラームが鳴るまでにはまだまだ余裕があるし、もったいないから寝よう。しかし、あの人本当に変わってるな。
しばらくして、次は設定した時刻通りに鳴ったスマホのアラームに起こされる。さっき寝付いてからが一瞬の出来事のようだ。
布団を畳み、はなれにある洗面所に向かう。夏の朝の日差しが体を徐々に目覚めさせていった。渡り廊下に差し掛かったところで、中庭を歩く先生と鉢合わせした。
「おはよう、よく眠れたかい?」
「おはようございます。よく眠れました」
「あと少しで朝食が出来上がるみたいだよ」
そう言って立ち去ろうとする先生の背中に、
「ああ、そうだ先生。フライングはダメですよ」
というと、自覚がない様子の変人は「フライング?」と不思議そうに首を傾げた。
顔を洗って母屋の台所に向かう。襖を開けている屋敷は風通しがよくて気持ちがいい。畳を踏む感覚も、裸足になるとより繊細に感じられる。
台所には既に2人の姿があった。もうご飯を食べ終えたであろう先生は新聞を読み、作業服姿の尾野崎さんは流し台で作業をしていた。
「おはようございます」
「江口さん、おはようございます」
尾野崎さんに挨拶し、四角い座卓を囲んで座る。卓上には卵焼きや味噌汁、焼き鮭の切り身といった純和風な料理が並べられていた。いつも朝食はパンなので、こんな沢山の料理を朝に食べるのは新鮮だ。
「どうぞ召し上がってください。ご飯のおかわりはいくらでもありますので」
爽やかな笑顔で尾野崎さんが言ってくれた。
「いただきます!」
調子に乗って食べ過ぎるのは良くないとわかってはいるものの、おかわりを求めると喜んで入れてくれる尾野崎さんに甘えて、昨日から毎食腹八分目を軽くオーバーしてしまう。
「自分の育てた野菜を目の前で食べてもらえる機会って案外無いんですよ。それに、江口さんがあまりにも美味しそうに食べてくださるので、僕も嬉しくなっちゃって」
嬉しそうに言う尾野崎さんに感謝し、俺はついついもう一杯手を伸ばしてしまった。
「君は人よりエネルギーを使う体だからね。沢山食べる方がいいよ」
「若いですし、食べ盛りですもんね」
俺の体の事情を知らないであろう尾野崎さんがうんうんと頷く。
確かに京助さんの話じゃ、俺は人の2倍は代謝がいいらしい。けど消化速度は人と変わらないように感じるんだけどな。
「ごちそうさまでした」
尾野崎さんへの感謝の意を込めて俺は手を合わせた。
冷えた麦茶で喉を潤す。襖を開け放った屋敷からは外が見える。軒先に吊られた簾が嫋やかに揺れていた。爽やかな朝だ。
* * *
朝食を済ませた後はやることが何もなくて暇になったので、尾野崎さんに無理を言って屋敷周りの掃除をすることにした。「無理を言って」と言うのは、尾野崎さんが「来ていただいてるお客様にそんなことをさせるわけには」と遠慮してくれたところに「午前中だけでも!」と食い下がって頼み込んだからだ。
尾野崎さんに軍手とポリ袋を貰い、中庭の草むしりを始めた。のだが、さすが農家の方だ。目立つところに雑草はほとんど生えていなかった。きっとマメに手入れされているのだろう。庭の隅にある植え込みには雑草などの姿は当然無く、ミニヒマワリが元気に咲いていた。
まだポリ袋には余裕がある。屋敷の門から出て、塀沿いの草を抜くことにした。
日が高くなるにつれ、徐々に蒸し暑くなってきた。思い出したかのように蝉が一斉に鳴き始める。
頬を伝う汗が滴り落ち、地面に染み込んでいった。
そうしてしばらくしつこい根っこ達と格闘し続け、45ℓのポリ袋が一杯になったのを確認し、引き上げようと立ち上がる。
同じ姿勢で硬くなった真っ直ぐ伸びをすると、背後に気配を感じた。振り向くと、昨日会った麗人──由美さんが日傘を差して立っている。
「ごきげんよう」
にこりと口角を上げ、由美さんが言った。
「ご、ごきげんよう」
人生で今後使わないであろう挨拶を、驚きながら返す。
「辰弥さんのお手伝いですか?」
「手伝いというか、泊まらせていただいてる身で何ひとつ役に立てていないので、せめてものお礼にと」
「あら、辰弥さんったらお客様にそんなことさせるなんて!」
むっとした表情で由美さんが言ったので、慌てて「俺が無理言ってやらせてもらってるんです!」と補足した。
「俺Mなんで! 雑草抜きはご褒美ですから! 楽しいなぁ!」
慌てすぎた。慌てすぎて言葉の摩擦力が0になってた。まずい、このままだとヤバい奴だと思われ──
「M……? Mってなんでしょうか?」
思われなかった。どうやらお嬢様には縁遠い言葉だったらしい。助かった。
小首を傾げる由美さんに、
「や、なんでもねっす」
としどろもどろになって返していると、俺たちの声が聞こえたのか尾野崎さんが門から顔を出した。
「由美ちゃん」
「辰弥さん」
「尾野崎さん……」
「え、江口さん?」
ナイスタイミングで来てくれたことに緊張が解け、つい由美さんに続いて呼んでしまった……。心の中で彼に五体投地する。
尾野崎さんは俺が手に持っている雑草がパンパンに詰まったポリ袋を目にすると、ぱあっと表情を明るくさせた。
「こんなに沢山! ありがとうございます」
「いえいえ、お安い御用です」
額の汗を拭う。
由美さんが来たので先生達はそろそろ出発するらしい。門の敷居を跨いで袋を庭の脇に置く。玄関の手前で、不意に由美さんが俺に振り返る。
「それで、Mというのは一体何なのですか?」
「サイズです」
屋敷に戻ると、キンキンに冷えた麦茶を頂いた。グラスに注がれた麦茶を一息に流し込む。喉奥を伝う冷たい感覚が、熱い体に清涼感をもたらした。
そうして一息ついたタイミングで、屋敷奥の部屋から出てくる人影に気づいた。
「さて、行こうか」
先生のその変貌っぷりに思わず目を見張った。ボサボサの髪をオールバックに整えて無精髭を剃り、シワひとつない真っ白いYシャツの上にパリッとした濃紺のジャケットを纏っている。クールビズらしくノーネクタイだ。
「おお」
思わず声が出た。髭を剃るだけで随分と若返って見える。だが、相変わらず丸いサングラスはつけたままだった。
「サングラス取らないんですか? スーツなのに」
「勿論取るよ。でも目つきのせいで怖がられるのが心配でね」
いつもサングラスを着けてるのはそれが理由だったのか。てっきり眼が眩しさに弱いとか、そういう理由なんだと思ってた。
というか、そんなに目つきが悪いのか?
「克実くんは私たちが出かけてる間はどうするんだい?」
「そうですね。持ってきた学校の課題をやっておきます」
「宿題持ってきたんだ」
意外そうに先生が言う。こちとらまだ高校生なんでね。
「お腹が空いたら、作り置きしてある冷しゃぶを冷蔵庫に入れてますので、それを召し上がってください」
尾野崎さんは俺にそう言ってくれた。まさか昼食まで用意していただいているとは。
「ありがとうございます! いただきます」
「じゃあ行こうか」
先生と尾野崎さんたちを外まで見送る。
由美さんや尾野崎さんの胸中はきっと緊張や心配でいっぱいのはずなのに、2人ともそんな素振りを見せずに、努めて明るく振る舞ってくれた。
肩を並べて歩く2人のその背中に、俺は計画の成功を切に願った。
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