第2話 赤頭 1
アライグマの一件から2日後の昼、「キャンパス内の陸上競技場に動きやすい服装で来て欲しい」との先生からの呼び出しに応じ、水城大学に来ていた。
水城大学は俺の家から自転車で15分ぐらいの距離にある立地している。そして俺の姉が進学した大学でもある。先生は俺が近所に住んでいることを良いことに、夏休みに入ってからというもの、頻繁に雑用で俺をここに呼び出す。その度に大学の門にいる警備員さんに顔を合わせるからなのか、顔パスというか、軽い挨拶をするだけで中に入れるようにまでなってしまった。
自転車を学生用の駐輪場の適当な場所に並べる。
今日は先生の要望通り、家にあったスポーツ用のTシャツに学校指定の短パンジャージを着てきた。家の近くに大学があったのがこれだけは幸いだと思った。近所じゃないとこんな服装で外は恥ずかしくて歩けない。
じりじりと照りつける日差しの下、滝のような汗を流しながら広い大学構内を進む。夏休みに入っているからなのか、見える人影はまばらだ。大学生は夏休みが二ヶ月もあると聞く。羨ましい。
待ち合わせ時間の少し前に競技場に着いた。入り口は開放されていたが、勝手に入るのは憚られると思ったので、入り口前の日陰に入って先生を待つことにした。
片田舎な大学だけあって、蝉の鳴き声があちこちに響いている。吸い込まれそうなほど青い空には、ソフトクリームのような真っ白な雲が浮かんでいた。風に乗せられた夏特有の青い草の匂いが鼻腔をくすぐる。
「ひょっとして江口くんかな?」
暑さに天を仰いでいると、出し抜けに背後から名前を呼ばれた。
振り向くと、短髪でメッシュ生地のTシャツに短パン、腕と足の筋肉がかなり引き締まった、いかにも『アスリート』という姿の男性が立っていた。線の細い顔が特徴的で、身長が俺より少し高い。
「そうですが・・・・・・」
「ああ、やっぱり!俺はこの大学の陸上部員の月岡京助。黒澤先生から話は聞いてるよ。さあ中に入って」
男性──月岡さんはそう言ってにっこりと人好きのする笑顔を浮かべ、俺を競技場へ招き入れた。
月岡さんに案内されるまま、競技場内に進む。人生で初めて入る陸上競技場の中は立派な作りで、フィールド部分にはよく刈られた青い芝生、そしてトラックにはしっかりとした赤茶色のゴムのようなシートが敷かれていた(後で月岡さんに聞いたが、このゴムはタータンというらしい)。振り向くと立派な観客席まで備え付けられている。
月岡さんによると、この競技場は学外の中学高校の運動部の練習や試合会場としても使用されているらしい。
「荷物はその辺の影に置いとくといいよ。日に当たると熱くなるからね」
「わかりました」
月岡さんに促され、丁度観客席の真下にある日陰に、提げていたショルダーバッグを置く。
「そうだ。江口くんは何かスポーツやってたとか、経験はある?」
月岡さんが俺に問う。
「スポーツ……はないですね。競技とかは体育の授業で取り組むくらいです」
「ないのかー。それじゃ入念に準備運動しよう。ついてきて」
「準備運動?」
そういうと月岡さんは有無を言わせず「こっちこっち」と手招きしながらジョギングを始めた。
急に始まったジョギングに訳のわからないままついていく。陽炎揺らめく熱いトラックを二周した後、月岡さんに教わりながらストレッチや体操を行った。
「今更なんですけど、今日は何するかまだ先生に言われてないんですよね」
ウォームアップを終え、水分補給を取るタイミングで月岡さんに言う。
「超今更だね。体力測定とか言ってたよ」
腕を組み、首を傾げながら月岡さんは言う。
「体力測定……」
「『体を動かす為の準備運動とか私はわからないから、君が教えてくれないか』って言われたんだよね、昨日」
「昨日……」
相変わらず先生の頼みは誰に対しても唐突らしい。
「何で受けたんですか?月岡さんは先生の学部なんですか?」
「いや、違うよ。俺はまた別の学部なんだ。俺の従姉が作家でね。仕事柄先生によく取材をしていて、そのお礼……借りの返却って言うのかな。まあそんなとこだよ」
「へぇ……」
あの先生はああ見えて意外と顔が広いんだ。流石というか何というか、教授だと作家からの取材もあるんだな。
月岡さんと話していると、呼び出しの張本人である下駄を履いた『怪人』がカラコロと足音を響かせながら競技場にぬるりと入ってきた。今日は開襟の白い半袖シャツにスラックス姿だった。いつも通り教授という威厳を感じさせない。
「やぁ、待たせたね。克実くん、月岡くん」
もさもさの髪の毛に丸サングラスの顔が『にへり』と笑った。
「ウォームアップは終わりましたよ先生。いつでも始められます」
月岡さんが立ち上がって言う。
「ああ、すまないね。助かるよ」
「いやいや、先生にはいつもお世話になっていますから」
「君の従姉……いや失礼、恋人によろしく伝えてくれ。彼女の書く本は面白いからね。少なからず携われる事を私としても嬉しく思っているんだ」
そう言われると月岡さんは照れたように頭を掻きながら、「ふ、恋人だなんて……」と歯に噛んだ。照れる箇所がおかしい。
「彼女に伝えておきます」
月岡さんは嬉しそうに軽く頭を下げた。
「もう月岡くんに頼んだ用事は終わったけど、よければこの後見て行くかい?この子は少し変わっていてね。いや、性格のことじゃないんだが、多分面白いものが見られると思うよ」
俺を一瞥しながら先生が言う。
「先生、変なハードルを上げないでください」
「面白いもの俺も見たい!」
「月岡さんもやめてください」
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