エピローグ


 静かな、春の雨が降っていた。

 潮風も優しい。

 イシュタルーナはかつての膂力皇帝、羅范が蟄居している屋敷を訪れた。神にも近しい一代の英雄が今、時を無為に過ごしている。

 砂漠から離れた、海に近い、石灰岩の丘。風靡く草地に立ちて望めば、大陸を東西南北の四つに裂く大海洋、世界の中心にあるマル・メディテラーノが見えた。

「ラハンよ、いかが過ごしているか」

 世界一の巨漢はぎろりと巫女真人(巫女騎士)をねめつける。

 凶暴で、獰猛な野獣のように。そう、生けとし生けるものの中で、これほど獰猛な獣はいない。

 餓えた獅子の群れも暴れる巨象も屠った男、抹香鯨や巨大なサメや鯱ですら、海に於いてさえも、彼には殺されるであろう。

「体を鍛えている。

 いつでも、おまえを斃して、世界を征服できるようにな」

「ふ」

 イシュタルーナは鼻で笑った。

「おまえは、英雄の器ではないな。その程度か」

 羅范は考えていた。彼女は独りで来た。殺せるか? 腰に佩く太陽の剣を見る。神々しいオーラが黄金の霧となって、鞘からも滲みあふれていた。

 いや、無理だ。

 イシュタルーナはそんな彼の考えを読んでいた。

「あたしを殺しても、世界は変わらない。歴史も何も変わらない。ただ一人の人間でしかない。

 何もない。ただ、生きて死ぬだけだ。

 不思議だな、こうして意識している意識も、いつしかなくなってしまうのだ。あたしにとって、これは生まれた時からずっとあったものだから、これがなくなることの想像がつかない」

 黙って、かつての膂力皇帝は聴いていた。

「何しに来た。俺を蔑み、嘲笑うためか、慰みものにするためか」

 彼が本気で言っていないとわかっても、侮辱を感じていることも事実であると覚っている。

「いや。

 あたしは幸福だ。なぜなら、幸福と感じているからだ。蔑んだり、責めたりする欲求は生じない」

 羅范は激しい衝撃を受け、項垂れた。だが、イシュタルーナが帰ろうとした時、

「勝負しないか」

 イシュタルーナは振り向く。

「剣でか」

 見定めるように羅范はじっとイシュタルーナの双眸の奥底を覘き込みながら、

「そうだ」

 イシュタルーナは無表情であった。

「よかろう」

 二人は対峙した。

 羅范の豪剛剣は刃の幅一メートル、厚さ十センチメートル、刃渡り三メートル以上もある。イシュタルーナなど一振りの風圧で吹き飛びそうであった。

 実際、一振りで地面を揺るがし、風圧で灌木を倒し、空気との摩擦で草を燃え上がらせる剣は大岩を両断に斬り、石灰岩の大地を地割れのごとく裂く。

 イシュタルーナは鞘から抜かず、自然に躱していた。

 哀しみのまなざしで、太陽の剣を抜く。

 その頃の太陽の剣は、聖なるイの御徴と、それを囲む角のある原蛇の円環とが刃紋で泛び上がり、さらにそれを囲む繁縟なる真究竟真実義の真言聖咒が自然と彫られ、その上にも繁縟なる神聖なる龍文が刃紋として泛び、その美しいグラデーションと言い、鮮やかさ、睿らかさと言い、いかなる詩歌にも表すことも、喩えようすらもなかった。永遠永劫永久の真究竟の真実義である。

 その光輝の凄まじさ、眩さは全宇宙を普く斉しく照らす畢竟の太陽のようであった。いゐりゃぬ神の双眸のようでもある。

 燦々たる光で、羅范は斃れた。斃れざるを得ないであろう。

 享年二十七歳。

 

 

 ゾーイは久しぶりにチエフと会った。

 皇帝ともなると、そうそう簡単に大枢機卿とは会えない。今は二人ともヒムロに来ていたので、久々の邂逅となったわけであった。

「それはそうと、羅范が没したそうだな」

 チエフは何か言いかける。だが、ゾーイはその言葉を聞く前に、言いたい言葉があった。

「俺は幸せな死だったと思う。もし、そうでなかったとしても、そう想いたい、ってのもあるがな。ふ」

 感傷的な表情を見せる。

「そうですか。いや、とにもかくにも、ええ、困ったものです。イシュタルーナ様が暗殺したと噂されて。巫女真人様の聖性に瑕疵が着くと統治の求心力にも影響が出ます。

 小さなほころびも裂けめになるやもしれません。政治的に利用する者も出るかもしれません」

「まあ、状況的には考えれば、噂も無理からぬところだな。普通の考えだ。さように思われても、仕方ない。巫女真人様に限っては、そんなことはあるまいがね。

 愚かな、卑しい人間たちは自分を基準にするからな。ふ。わかり易い。

 イシュタルーナ様はいつものように気にしていないんだろうな」

「何も気にされません。昔から」

 

 

 ラフポワは金糸の刺繍のされた黒いシルクの貫頭衣で、縁がクリムゾンレッドの文様に型染めされた聖服を着て、大理石の台座の上にある金箔の椅子に坐って、大きな暖炉の炎に頬を照らされながら、シニクとマイケル・ハンマーからの陳情のような書簡を読んでいた。

 諮問会議のユリアスとゾーイとチエフを執務室に呼ぶ。

「よお、ラフポワ陛下」

「からかわないでよ、ゾーイ」

 ユリアスは丁寧にお辞儀をした。

「ラフポワ陛下にあられましては、ご機嫌麗しゅうあられ、慶賀の至り、何よりでございます」

「やめてよ、ユリアス」

 ゾーイは嗤った。

「丁寧でも、ぞんざいでも嫌なんだな、ラフポワ」

「そうだよ、この地位そのものが嫌なんだ」

「おまえのために、一万キロメートルを翼あるトナカイの橇で飛ばして来たんだぜ。感謝してくれよ」

「うん、ごめんね、わかってるよ」

 ユリアスが尋ね、

「いかがされましたか」

「ああ、これだよ」

 書簡を差し出す。

 三人は一読して、「ふむ、なるほど」

 内容は、羅范の死を暗殺と疑い、いや、決めつけて非難し、暗殺が自分たちの身にも及ぶのではと恐怖・猜疑・邪推・憤激して書かれたもので、『平和を誓い合った我々を殺すことは約束違反であり、人道から外れ、条約にも反する』という趣旨であった。二人が謀反を企み、連絡を取り合っていることを既に知っていたゾーイたちは大いに面白がっていた。

「自分たちの謀反計画は棚に上げ、いったい、何を言っているのか。やれやれ」

「まあ、そう言うな、チエフ。心の汚い連中というのは、得てしてこういうものだ、赦してやれ」

 そう言って、ゾーイは自らのジョークにクックッと笑う。嗤う気になれぬチエフは、

「羅范と違って、殺されても仕方ない連中です」

「羅范は殺されていない。自害のようなものさ、イシュタルーナは何も言わないけれどね、僕にはわかるよ。シニクやマイケルの言うことは、根底を見失っている。そもそも、彼らに裏切りだの、条約違反だの、言う資格はないよ」

「まあ、そういう奴らに限ってそういうものさ。クレーマーみたいなもんだ。どうします。この際、殺しますか」

「バカなこと言わないでよ。疑いを晴らして。イシュタルーナの」

 ゾーイは咳払いした。

「巫女真人様は、お望みではないと思うがね」

「僕が望む。ただ、それだけだ」

「おやおや、皇帝のような我儘さだ」

「聖天帝皇だよ」

 ゾーイもチエフも笑わなかった。ユリアスは再び辞儀する。

「御意のままに。やってみましょう。恐らくは、陰謀があるかと思います」

「陰謀? なるほど、羅范暗殺説をでっち上げてわざと流布・喧伝している者たちがそちこちにいるのは知っている。聖性に瑕疵をつけようとする奴らだ。

 で、どうやってやるんだ? 脅かすのか?」

 ゾーイがお道化て尋ねても、ユリアスは物静かに、

「いいえ」

「理など説いても、聞かぬ奴らだぞ」

「叡智こそ生きる力です。この陰謀は恐らく、もう少し深いものでしょう」

「ふむ。そうかもな。そこまで読むか。ラフポワ、ユリアスに任せておけば、安心だ」

 ラフポワは安堵した。ユリアスは微笑する。ラフポワのその表情が見たかったからであった。少年兵であった聖天帝皇は笑みでうなずく。

「うん、お願いします」

 古王国コプトエジャの庶子は思う、ラフポワこそは知恵者の師範であり、将の将である、と。沛の劉邦のように。

 

 

 かつて、神聖シルヴィエ帝国の大枢機卿であったイヴィルは神彝啊呬厨御(カムいあれずを)の降臨後、奴隷の身分に堕ちた。

 しかし、由縁あって、或る王の許で座興の語り部などをする。そのうちに、智慧巧みな彼は相談役となり、奴隷の身分から解放され、〝素〟の位階となっていた。要領よく生きて、身分不相応に羽振りの良い地位を得て、チャンスをつかむ。今、繻子張りの肘掛け椅子に頬杖突いて思案気に坐っていた。

 かつて、自分こそは次期絶対神聖皇帝たらんと野心していた彼はヴォードのマイケル・ハンマーの秘かな後ろ楯(神聖帝国への背信行為であると言ってもよい)によって力を蓄え、いつかは神聖シルヴィエ帝国を取り戻そうと希い、さらに、今は絶対神聖皇帝を廃位されたシニクへ、執念深く、(一度は皇位を継いだことを)逆恨みをし、あろうことか復讐をしようと謀っていた。

 羅范の死を逸早く知らせ、彼らの身を案ずる良き味方のように振舞い、彼らの危機感を煽る。羅范の死の理由を正確に推察していながら、二人には連名で直訴状を書くことを勧めた。

(ふ、飽くまでも、善意の第三者として、勧めただけさ。勧めただけ。教唆した訳じゃない。罪はない)などと独り言ちてほくそ笑みながら。

 イシュタルーナを誹謗中傷すれば、神の裁きがあろう、恩を受けたマイケル・ハマー(むろん、イヴィルへのハマーの支援は打算の上でのものだが)をも巻き込んで。そう計算していた。

 その上、イシュタルーナの聖性にも一疑が差し込まれれば、巫女真人への復讐にもなるなどと思料し、腹いせを感じる。

 彼女の絶対性は神に基づくので、否定のしようもないが、その完全なる璧に瑕疵を与えることぐらいは、神もお赦しになろう、などと勝手に考えていた。

 そんな折、来客と訊いて怪訝な顔をする。

「何者か」

 取り次いだ者は言う、

「何でもコプトエジャの旧友だとか」

 イヴィルの表情は苦虫を潰したようになった。

 

 

 午前の早い時間、この辺りはまだ空気がきよらか過ぎる時刻である。イヰリャヌートにて参拝を終えた後、ユリアスは謹んで尊顔を拝すべく、巫女真人イシュタルーナの居所に寄った。

 ユリアスの姿を見ると、いつになく力ない、とても優しい眼で、彼女は言う、

「要らぬ苦労を掛けたようだな」

「ご存知でしたか。

 イヴィルを脅しました。神はすべてを知っていると。さしもの彼も、一筆書かせた時の手が震えていました。

 知恵ある者ゆえ、神の怖ろしさを知り、畏れています。

 書面を見て、シニクもマイケルも己の浅はかさ、癡かさを悟ったようです」

「なるほど。人は興味深い。だが、興味はない」

 ユリアスは清らかに笑った。

「いっそうのこと、彼を絶対神聖皇帝にしてやったら、とっても面白いとも思うのですが。滑稽で。

 さぞかし、さまざまな政策を練り、その裏で陰謀を企み、偉大な事業を展開して歴史に燦然と名を遺すでしょうね。

 尤も、この世は滑稽な者たちばかりですが」

 イシュタルーナであってすらも、苦笑せざるを得ない。

「それはさすがに嬲り過ぎだな。今や神聖シルヴィエの皇帝など、何の意味もない。すべては見せ掛けで、虚しい。しかし、切実な人には切実なのだ。

 紙幣や貨幣と同じだ。実在するものは印刷のある紙か、鋳造された金属だが、実存にあっては、一ドル、一ユーロ、一ポンド、一元、一ウォン、一円という、現実であって、社会に生きる人々には切実なものだ。実際に。

 畢竟、すべてはそういう感じだ。そういう絡繰り、構造と言うのか? 只管(ひたすら)それでしかない。

 今日に始まったことではないが」

 賢者はあきらめ顔で言う、

「仕方ありませんね。どうあっても避け難いものです。純真無垢なこどもたちですらも、私利私欲の鬼塊(おにかたまり)なのですから」

「神が定めた。我が意思は在るが、ないというものですらもない。ただ、ただ、強く生きるのみだ」 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

巫女騎士イシュタルーナ しゔや りふかふ @sylv

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る