第49話 饗宴 この大地に永遠の平和を

 曙光を浴び、立ち昇る炎のように燃え燦めくイシュタルーナは女神のようであった。聖の聖なる巫女真人は宣言した。

「祈祷する。

 この一言だ。『この大地に永遠の平和を』。

 神へ希う。

 祈りこそが最も聖の聖なる行為だ。未来であり、生命であり、人間の真髄だ。

 善き哉、善き哉、めでたし。弥栄(いやさか)あれ、スヴァーハー」

「薩婆訶(スヴァーハー)」

 一億の人間が一斉に唱和する。大いなる祭りであった。一億人の聖なるきよらかな祈り。祝祭の日である。一瞬が永劫のような時間でった。


 神に捧げられる壮大な贄、きよめられ、聖化され、数多祭壇にならぶ。果実、蜂蜜、貴腐葡萄で作られた神酒の樽は五百万本。数十万の大香炉が焚き上げた香の煙を漂す。聖歌隊が歌った。あちこちに設けられた説教台から聖句が読誦され、世界を聖化し、万物を嘉する。


 荘厳、清冽にして、甚深微妙、神聖、崇高な大祭祀儀式典がかくして終わり、神への捧げものは人に下げられ、饗宴の席にあふれた。

 飲めや歌えや。大歓声、太陽のシンバルのような笑い。


 しかし、天候は怪しくなり始めた。雪雲が集結し、粉雪が舞う。


 ラフポワはイシュタルーナの左に、一番高い壇上の席(地上五十メートル)にならんで坐った。その高みから、彼方まで延々続く列席を遙かに見渡す。壮観だった。遠くの末席ははっきりとは見えないほどだ。巫女真人の右にユリイカはならぶ。

「凄いわ。本当におめでとう」

「あ、ありがとうございます。って僕が言っちゃっていいかな。あまりにもすべてが変わり過ぎて、何だか信じられないよ。とっても遠くへ来たような気がする」

 急激劇的な環境の変化に、今さらあ然とするのであった。思い出す、木の実の粒をイシュタルーナと分け合ったことを、暗い吹雪の中で。

「寒かったなあ」

 思い出すだけで寒気が奔るようだった。

 ひじ掛けに頬杖を突く。その場に、まったくそぐわない憂愁のポーズであった。でも、場に合うかどうか、人がどう見るかなど、構うような少年ではない。しみじみと想いに耽った。

「暖かいだけでも、幸せだなあ」

 今も、屋外なので寒くはある。相変わらず粉雪が舞っていた。だが、金の刺繍に深紅の天蓋があり、それをさらに蓋う天幕もある。近くには幾重にも、暖を取るための炎が焚かれていた。着ている物も軽くてぬくぬくしている。椅子も柔らかくて、暖かいものであった。


 百万トンもの肉が炙られて肉汁を滴らせている。赤と青の貴石が象眼された黄金のゴブレットに酒が注がれた。

 なみなみとあふれるまで注いで、大いに傾けて呷る。


 一段低い席で、ロネやファルコやジョン・スミス、イヴァンやガルニエやアーキやミハアンジェロやレオヴィンチ、ユーグルやリュウ、ユリアスがならんで坐る。

 皆華々しく相応しい盛装をしている。何て壮麗なのだろう。鮮やかで艶やかな絹に、刺繍のある儀礼用コート、レース、羽飾りと刺繍の帽子、金の飾り紐、房飾り、大きなカフス、太いネクタイは複雑精緻で色鮮やかな文様、勇壮で美麗で大きな襟を立てて。

 絢爛たる装飾、宝飾、巨大な香炉に白檀が焚かれ、王侯貴族よりも遙かに神聖で、高貴だ。


 その下は銀の者たち二十五人とネプチュルスの席であった。彼は王位も官位も要らないから、自由に海を渡らせてくれ、胡椒は金より高価だ、とイシュタルーナに懇願した。


 ゾーイはしみじみ眺め、

「信じ難いな。この俺がだぜ」


 チエフが階段を上がって酒を注ぎに来た。

「皇帝陛下、どうぞ盞を、どうか一杯」

「おゝ、おまえも飲め、今日は、めでたい、実に、めでたい。遂に、人類の夢が完成したのだ。こんな日は永遠に来ないと思っていた、正義の勝利の日は」


 足下の絨毯は黄金を積んでも買えないものだ。黄金の大杯、純銀のナイフやフォーク、絵皿もカップも名匠の創った逸品であった。

 キャビアやトリュフや去勢した若い雄鶏の肉、鶏卵。甘ウニや牡蠣やオマール海老、エスカルゴやサザエ、鱈や舌ヒラメ、鯛やカツオやヒメジ、スズキ、白身魚のポワレ、熟成したプロシュットやハモン・セラーノの骨つき原木。


 牡蠣の殻をナイフで外しながら、ネプチュルスは言う、

「こいつは上モノだ。レモンよりも醤油と酢を混ぜた東大陸ふうが俺の好みだな。や、旨いじゃないか。こいつあ、是非、独占契約をしたいぜ。おい、給仕、コックを呼べ、これはどこの産だ」


 何百種類ものチーズ、たくさんのパテ、〝小さな口の楽しみ〟たちに、誰もが舌鼓を打つ。


 泡立つビール、芳醇なシャンパーニュ、香しきワイン、深きコニャック、コクと香り深きウシュクベ(オード・デ・ヴィー)。


 濃いのに爽やかな豊穣なるオリーブ・オイル、蜂蜜や濃厚なバター、純白の生クリームや木苺のソース、マーマレード、ジャム。

 白桃や葡萄、チェリーやブルーベリー、苺や柑橘類、胡桃、オリーブの実。


 アーキが伊勢海老を頬張って感に堪えぬと言うように眉を顰め、唸る。

「うーむ、凄い。茹でられても活きがよいことがわかるが、絶妙なソース、それに皿の縁にショコラの粉が少し振ってあって、食べる時に香りが鼻腔から入って、海老の味と喉で爻わる。何とも言えないハルモニアだ。この料理人を雇いたい」

「私だ」

 ロネがにやりと笑った。

「構わぬが、高いぞ」


 ユリアスが生地の織や素材を見て感心する。

「素晴らしいですね。仏国土に生まれ変わったかのような気分です」

 彼が手に触って確かめている生地は、白と赤と金と深き青とによる、美しいテーブル・クロスであった。クロスを安定させる吊り下げ重しも細やかな彫りや鏤めのされた金である。房飾りが四隅についた色鮮やかな繻子のクッションが輝くようであった。絹糸のつややかな照りの何とあでやかなことか。


 豪奢、逸楽。


 美しき古代ギリシア風の音楽、管弦楽、胡弓やシタールの調べ、琴や笙や篳篥や龍笛の邦楽。歌劇や南方の舞い、竪琴を持った詩人が叙事詩を歌い、琵琶法師が吟ずる。頌歌、鎮魂の詩歌も。


「よかった、あゝ、本当によかった」

 鴨肉のオレンジ・ソース添えを頬張って、幸福そうに微笑する。葡萄やサクランボやブルーベリーを摘まみ、ラフポワは林檎と蜂蜜のジュースをおかわりした。金と貴石に飾られたゴブレットを受け取って飲み干し、

「ふう」

 息を吐いて、深々と坐りなおす。吹雪は優しい。天空も大地も、すべて世界は円満で、光にあふれ、豊穣であった。もう瞼がゆっくりと落ちて始める。


 天候は荒れ始め、昼近くには吹雪となるが、それが子守唄か、ラフポワはお腹一杯になって、眠ってしまうのであった。


 雪礫など意にも介さず、ジヴィーノは雄叫ぶ、

「おおい、未だか、もっと持って来ーい」

 五十キログラムのステーキ肉を平らげ、ビールを樽で二杯飲んだ。


 ユリアスとイヴァンの議論は終わりがなかった。最新の学問と未来の哲学、各地域の情報と国際情勢、真理する見解と宗教・イデオロギーの行方についてであった。

「検証できないものは取り上げるに値しないという、検証原則は尊いが、見聞がそのとおりであるということは検証はできない。だいたい、諸考概の輪郭が定形であるという保証もない」

「感覚や思考の束の根底にそれらの主体となる真珠(核)があるかのように思い込ませるエゴ・トリックを想定すると、なおさらだ」

「そもそも、すべてインパルスに過ぎない。物的な現象だ。我らが内部から見て他人がいる、私がいる、と映るが、外から見れば、ただの、電気的な発火現象でしかない。化学的なね」


 レオヴィンチとミハアンジェロとガルニエとアーキとは、今後の都市計画と内政の運営について論じて倦むことがない。



 ユーグルとリュウはバカバカしい逸話に花を咲かせ、美女を見ては論評し、時折、ネプチュルスの儲け話に耳を傾けた。


 ジョン・スミスは難しい顔をしてキャビアを摘まみ、黙ってウォッカを飲み、太い蟹の脚やら甲羅やらを割って食べ続けている。


 ロネ・ストリントベリイは満足気にすべてを見渡す。ファルコが大杯を持ってやって来て、無理矢理に肩を組み、大いに笑う。

 健康な、屈託のない哄笑であった。

「なあ、最高じゃないか」

「そうだな、怖いぐらいに」

「ふ、相変わらずだな」

「おまえもな、ファルコ」

「あゝ、そうだとも。世界がそう簡単に変わってしまって堪るものか」

「そのとおりだ。

 イシュタルーナも変わるまいな」


 静かに清水の聖杯を傾け、葡萄を摘まみ、イシュタルーナは静かに宴を見守るだけであった。 

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