第44話 ヒムロへ向かう 夜明け前

 巫女皇帝は突如、玉座に坐す。そして、宣言した。

「ヒムロ(非无呂)へ逝く」と。

 彼女の常軌を逸した行動には驚き慣れているとは言え、やはり驚かされてしまうのである。


「な、何と、狂気の沙汰です。いくら何でも、今度ばかりは」

「世界の全戦力が集結しているというのに」

「どのように秘かに忍び込もうとも……」


 イシュタルーナは蔑みの眼で睥睨する。

「誰がこそこそ隠れて逝くと言ったか。

 我らは、いゐりゃぬ神の兵であり、亜沙羅偉神の兵である。公然と、堂々と、果敢に、真向正面から、大々正論で、大々正攻法にて逝く」


「またか」

 さすがのファルコも呆れたが、ロネは、

「今まで、間違いはなかった。大丈夫だ、できるさ」

「不可能にしか思えませんが。それができるくらいなら、一枚の枯葉に乗って、荒れ狂う嵐の大洋四千キロメートルを渡り切る方がよほど簡単に思えますよ」

 ジョン・スミスは嘆いた。


 ラフポワは旅支度を始めていた。

「グダグダ言っても仕方ないね。言葉なんか空気みたいなものさ。大事だけど、ありふれている。何かにしようとしても、今さら何にもならない。無駄だよ」


 イシュタルーナは数十名を連れて大元汎都を出た。列は洞窟の時と同じ。悲愴を帯び、死に逝く者たち、又は葬列に見えた。勇ましくもあるが、状況を慮れば、殉教者にしか見えない。

 イシュタルーナ、ラフポワ。

 ロネ、ファルコ、ジョン・スミス。

 ユリアス、イヴァン、ユーグル、リュウ。

 ゾーイ、チエフ、アーキ、ガルニエ。

 レオヴィンチ、ミハアンジェロ、ネプチュルス。

「何で、またもや俺まで」

 大海商がぼやく。


 しかし、事態はまったく予想外に展開した。

 何が起こったか、と言うより、何も起こらなかったのである。


 強烈な光線を発してた靡かせ、燦々と燦めき神々しく進む彼らを前に、東大陸の怒涛の反乱軍・暴れ狂う叛逆者たちは人間の根源から湧き上がる畏れのため、手を出すことすら、指一本動かすことさえできなかった。神々しい、というよりは神性を帯び、神のごとくに見えていた。到底、人間が触れてよい列とは思えなかった。


 ただ、震え、又は呆然と見送るのみである。


 巫女騎士の懐には、亜沙羅偉神の真咒を集中して濃く凝らせて聖なる石としたものがあった。鎧や瓔珞で荘厳された騎馬も、光に包まれている。武具や鎧は赫奕たる太陽のようであった。陸は尽く。

「いざ、逝かん」


 潮は蒼く怒号していた。土豪トリトニスが簡素で頑丈な船を献上する。帆は潮風を孕み、 海を渉った。荒れても海は青く、雲の速い空も青い。


 イシュタルーナは船中にて世界統一憲法の草稿を仕上げた。

『一、真究竟真実義は人の以(おも)ふに非ず。神(カム)彝(い)啊(あ)呬(れ)厨(ず)御(を)にしあらば、零(スンニャター)と心得よ。

 一、人、堂々果敢すべし。人、義しきと以(おも)ふを爲す善し。

 一、眞の現實主義とし、現實丈を生きよ。      』

 船中三策だ。


 書き上げてイシュタルーナがこれを素焼きの壺に入れ、厳樫の聖櫃にしまうと、船すらも紫摩黄金に輝いた。玉虫の甲の羽のような、或いは螺鈿のような霓を、春の霞のようにはらはらと儚げに絡ませている。かつ、燦然たる黄金色の雲に包まれていた。航跡さえも、燃えるように烑く。


 ユリアスが提議した。

「船中三策は基本基礎です。これに法や令や条例、規則や附則、要項などをつけなければ運用できません。又は解釈のための義疏を」

 ユリアス、イヴァン、ロネ、ファルコを中心とするプロジェクト・チームができた。

「取り急ぎ義疏を」

 イヴァンはそう言って、ユリアスとともに草稿を起こし、

「かくのごとく解す。零(スンニャター)は『唐突』・『全網羅』・『龍肯』ともいふ。されば、現實爾焉若(げんじつのみし)か在らじ。唯惟只管(ただこれひたすら)、人堂々果敢すべし、人義しきと以(おも)ふ爲す善しといふ」云々。

 法令条例規則要綱は順次定む。


 かくも天神皇帝のごとき光燦々たれば、人類根源の畏怖生ず。


 北大陸東南部の沖に、待ち構えていた神聖シルヴィエ帝国の五千の大艦隊は微動すらもできなかった。灰色の荒海に帆を孕ませ、イシュタルーナの船は悠々進む。

「見えた、北大陸だ」


 イシュタルーナの双眸が燦々と煌めいた。


 北大陸へ上陸、聖都ヒムロ(非无呂)へ向かう。ここでも、ヴォード共和帝国、神聖シルヴィエ帝国、マーロ帝国の三大超大国連合軍の、重装機甲兵部隊数千万は畏れから、何もできなかった。


 イシュタルーナは無人の原を逝くように、厳かに粛々と、一万数千キロメートルを王侯の高級遊女シャーリー、篤志の財産家ヴァスバンドー、古来の名家ヴィマラキールティから献上された龍馬の群れで進む。雪を煙と蹴散らし、無抵抗の町や街や都市をいくつもいくつも通り抜けた。


「奇跡だ」

 ゾーイが敬虔の念を込め、つぶやく。誰もが瞳孔を畏敬で震わせ、黙したままうなずいた。声も出せない。


 北極圏に入った。


 ブリザードの永久凍土を、太陽の剣を挙げ、天の黄金の光の雲の群れのように渉る。いつしか、誰も気がつかぬ間に、太陽の剣は〝銅〟の位階に到達した。


 シルヴィエ軍の将軍たちは、ヴォードやマーロの将軍とともに、巨大なモニターに映し出されるこの姿をただ恍惚として見守るのみ。

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