第28話 シエスタ(午睡)
イヰリャヌグラードの中心には、大きな公道が貫徹している。エスプレッソ街道だ。
北にある、イノーグ副聖都まで一直線に伸び、イヰリャヌートへと登る道に繋がっていた。
道路の幅は全体で二百メートルある。左街道、中央街道、右街道に三分割されていた。
左街道は幅五十メートルで、イノーグから南下する者が進んだ。
右街道もまた、幅は五十メートル、イノーグへ北上しようとする列が進むのであった。
いずれも、徒歩の人やロバやトナカイや馬車や牛車や騎馬や大羚羊が悠々と往復し、稀に駱駝や龍馬や麒麟や乗用白虎なども行く。
道路沿いには商店や旅籠などなど多くあるが、広い歩道上に露店を広げる庶民も数多いた。
中央街道は中央分離帯の役も果たしている。
イオニア式の円柱や、トレーサリーを上部に戴くアーチ、数々の彫刻で覆われた壁を処々に置き、壮麗なことこの上もなかった。
幅は百メートルあり、上と下の二層構造で、下道は屋根つき列柱廊で、高速専用の一般道である。屋根の高さは十メートルあり、左右の街道を行き来するための陸橋が処々に渡されていた。
実質的な道路幅は四十メートルほどで、両脇は食料品店や衣料店、食堂や喫茶、休憩所、薪売り、旅籠、飼葉販売、蹄鉄作りの鍛冶屋、湯浴み所、公衆酒場などがある。
上道はその屋根の上にあって、要するに屋上なのだが、胸壁を備え、軍事専用道路であり、急使や派遣された軍兵団などが疾駈していた。
胸壁と警備隊の駐在する小塔がある以外はフラットである。
ゾーイはイヰリャヌグラードを貫く幅二百メートルの街道を跨ぐような、陸橋型の城砦を、いや、屋敷を建てて、公私を問わずにいつも往来の監視をしていた。
この陸橋構造の城砦型の屋敷の両端には、石造建築が聳え、それぞれの中心には、四角い中庭があった。砂漠色した敷石が敷き詰められている。数百人の兵士が整列する時もあった。
自宅とは言え、兵舎や武器庫も兼ねているのである。
ゾーイは天球儀のある書斎で、海図を見ながら考え込んでいた。
暖炉の薪がパチパチと爆ぜる音しか聞こえない。静寂であった。
瘦せっぽちで小柄な、大きな鼻、口髭を盛り上げるように蓄え、風采は貧相であるも、今や押すに押されぬ銀の聖闘士である。
窓の下を眺めた。街道を数多の人や馬車や騎馬が往来する。
絹の服を着て、豪勢な青貂の毛皮を被る。
国民のほとんどが鉄で、一般市民であるか、一兵卒、又は軍曹・曹長かであるか、極稀に少尉であった。
銅はブルジョワジー、又は下級将校や騎士などである。
青銅が上位の騎士や、男爵など小貴族、将であった。
そして、銀は聖なる闘士という神聖な身分で、大貴族という時代である。
ゾーイの子分であったチエフも、今や男爵だ。彼自身はゾーイ同様に小柄だが、筋骨隆々たる銅の騎士数名を常にさぶらわせ、華美な儀装に、威風堂々。嗅ぎ煙草を嗜む。
「時々、我に還って、顧みる時、信じられない思いがする。数か月前と何と違うことか。足軽風情の俺が王侯貴族の身分になっちまったんだからな」
「運命ですね」
「ちげえねえや。ふふ。まあ、諸行は無常なのさ。なるようになるさ」
「そうですね。しかし、わかっていても、人間って奴あ、悪足搔きするもんです」
「そのようだな。おい、チエフ、相も変わらずシルヴィエはスパイを送り込んで来てるんだな」
「ええ。いゐりゃぬ神の力に納得がいかないのでしょう。何とか工夫をすれば、いゐりゃぬ神の眼を免れるかと、毎度、毎度、あの手この手でさまざまに創意工夫しています。まったく感心するほどですが、所詮、人間の力ですから、無限ではありません」
「おかげで、向こうの動きが解って、こっちは助かっているが」
ゾーイはポケットから乾燥煙草を取り出して鼻腔に吸い込む。
「まあ、それが偽の情報だったということもあるんです、こちらをハメるための。
しかし、裏の裏の裏の裏の裏の裏であろうとも、いゐりゅぬ神が知らないことなんてありませんから、問題はありません。
そこまでバレバレなのに、あたかもバレてないだろう的な自信満々で来るから、いや、滑稽で滑稽で、楽しくて仕方ない」
「確実にわかっているのは奴らが侵攻して来ることだ。大艦隊でな。
大航空母艦に、ジェット戦闘機だ。
俺には、わからないが、それでも、俺たちが勝つんだろうな」
「いいえ、衆講義のとおりです。
ちなみに、東大陸の帝国たちも、我らを潰そうとしています。新しい力が気に入らないのでしょう。特に、強い力が。
人は実は皆、怯えて生きています。
彼らには不安と猜疑があるのです。不安なので、信じることが怖くて、すべてを信じたくないのです。
彼らは彼らが見ている現象、すなわち、彼らが見たいように見えるように企投した現象を見て、事実を推測しています。
猜疑心でモノを見るから、猜疑的にしか見えない。
結局、実在があって、それを感受して反映する感覚を、その段階では何者でもない感覚を、何かのかたちに構築してモノ・コトとして整理し、整理されたものを命名して分類し、認識が生じる、現象がある、ということではない。ってことです。
まずは、いきなり現象があって、そこから〝実在〟が捏造されるのです。すなわち、人はありもしない実在の幻影を見ているのです。起因もキッカケもなしに、最初から企投しているのです。
すべては心です。
我々は宣教も侵略も何も考えていないのに、不思議なものです。勝手に脅威を感じているようです、奴らは」
「戦争なんて、そんなことなのさ。もしくは、武器商人の販売促進活動さ。それがために、庶民は家族から引き裂かれ、見知らぬ土地で悲惨な死を遂げなければならないのだから、堪ったもんじゃない」
「商売ですからね」
「ふ。そんな奴らでも、娘の誕生日にはプレゼントを買うのさ」
「政治家も高級官僚もです」
「確かにな。
栄華と権勢と名誉と金銭とを求める。清貧を嫌い、名声への依存、妄想的に肥大した自己の優越性を顕示することへの欲望。
多くの国の官僚は国家を私物化している。自分の成功と収入のため、ポストを求めているに過ぎない。
人は奇妙だ。そんな奴らでも、慈悲を説く神の前で祈り、家族を愛し、週末にはご馳走を食べ、夏には海辺の別荘へバカンスに行く。大したもんだ。
そんなことのために庶民は運命を狂わされ、夢も絶え、見知らぬ場所で辛酸を舐め、斃れて死す。
戦争が終わって生きて帰れば、少女を姦したか、こどもを殺したかと問われ、非難される。庶民は徹底して犠牲者だ」
「王侯貴族は兵士など駒としか思っていませんからね」
「上流階級の子弟は激戦地にはあまり行かないようだしな。
どこであろうと、いつの時代も、侵略されているのは庶民であって、国じゃない。攻めた国も攻められた国も、犠牲者は庶民、庶民がいつも被害者なのさ。
国単位、宗教単位で裁こうとしても、実態に沿わないと思うぜ、俺は。
つまりはヒエラルキーの下層が犠牲者で、悪はその上の方にいる連中なのさ」
「まるで、階級闘争の話みたいですね」
「俺は共産主義に興味はない。私有財産という蜜を知った人類が原始共産主義には戻れないように、共産主義には根底から無理がある。或る意味、基督教的な禁欲的理想主義だ。全員が私利私欲のない善人ならよかったんだがな。
社会制度をいくら工夫しても無駄だと思うね。人は皆、抜け道を見つける。したたかなクズどもはね」
「他人を犠牲にしても、人生、うまくやればよい、という考えはクズです。生きる意味も、価値も、資格もない」
「まあ、公平に言えば、誰も彼もうまいことやろうとしてる。そこは貴賤を問わずだよ。大したもんじゃねえか。素晴らしい世界だ」
「酒場にでも行きましょうか」
「あゝ、それがいい」
ゾーイは高級な店になど、あまり行かない。バルなどの立飲みが基本の大衆酒場によく行く。
上等な服を脱いで、粗くて、機能的で、頑丈な服に着替えた。いい気分だ。剣を佩く。非番の歩兵だと思われるであろう。それも楽しい。
行きつけの店に行った。二の腕の太い亭主は実は彼の配下で、抜け目のない男だった。
「スワン、元気か」
「おや、旦那、久しぶりで」
スワンなどという綽名とは似ても似つかない、海坊主のような漢だ。
昔は海賊皇リュウの家来の下っ端だった。直属の親分はポセイ。ポセイは渦巻く髪の毛と渦巻く鬚・髭・髯、ネプチューンのような大男で、リュウの配下でも特に暴れん坊であった。その親分の気風を受け継ぎ、スワンも元は冷厳な海賊であった。
「あゝ、そうだったかな? まあ、最近は、忙しかったからな。海の方にでも、行こうかと思ってな、どうだい、あっちは」
「いろいろ、ありやすぜ」
そう言いながら、微かな目配せ。ゾーイがそっちを見ると、
「おっと、ありゃあ、ダーじゃないか」
敢えて放置している、遊泳中のシルヴィエ・スパイだ。諜報担当の大枢機卿シニクの直属で、特別な存在であった。
神聖シルヴィエ帝国において、大枢機卿は世界の注視を集める存在だ。絶対神聖皇帝は五人の大枢機卿の互選によって選ばれる。すなわち、五人が互いに話し合って、五人のうちの誰かを選ぶのだ。大枢機卿のうちの、少なくとも一人は、後の絶対神聖皇帝になるのである。
シニクは家柄もよくないが、ここ数年で躍進著しい。五、六年前までは誰も彼が大枢機卿になるとは思ってもいなかった。
チエフも小声で言う。
「尾けますか」
「むろんだ。検証しなければわからない。今知る限り、知り得る限界の範囲内で言えば、奴は海の方へ行くはず。敵は軍艦を寄せる海域や接岸地を決定しようとしている。
むろん、半島の地理は何十年も前に調査済み、凡そ決めているはずだが、実行するにあたっては詳細な情報、精密な確認が必要だ。どんなこともそうだ。
確認を怠る奴は物事を甘く見ている奴だ。甘く見る奴はしくじる、ヤケドをする、それが常道だからな。
土地の起伏、海岸線の輪郭、気象条件や起こり得るあらゆる可能性を、奴らはその最後の一押しのために、実地調査する。おい、スワン、ちょいと使いを出してくれ」
「心得てござんす」
ゾーイは見るともなく、観察する。
「どこにでもいそうな男だ。存在がないみたいだ。まあ、誰しもだが」
ゾーイは苦々しくつぶやいた。マシフが来て、偶然のようにゾーイの隣に坐る。
「準備はできましたぜ。ジョン・スミスのところへも知らせを出しました。今宵も、霧が出てきました」
ジョンは今、イノーグの副聖都にいる。
「そうか、わかった。で、誰と誰が来た?」
「ロイとシドニーです」
「わかった。チエフが先に行く」
チエフが出た。
少し後で、ダー・ザ・インが小銭をカウンターに置き、スツールから立つ。出た。外で待っていたチエフがさりげなく尾行する。
ロイが席を立った。チエフの後を尾ける。ダー・ザ・インの背中が遠く見えていた。
獣脂のランプが街のあちこちで未だ点灯している。男たちが歩いたり、露店があったり、酔っ払った兵士が坐っていたりした。霧が出る。ひたひたと忍び寄るようであった。
ロイの後方をシドニーが行く。シドニーの眼には、チエフの背中が霧のベール越しに見えていた。マシフとゾーイが小銭で勘定し、襟を立てて顔を半ば隠し、店を出る。シドニーを尾行しながら、ロイの背が霧の向こうに消え始めていた。
「あまり距離を取れないな、見失ってしまう」
「そうですね、奴が気づかないことを祈るしかないですね」
チエフが横丁に入り、姿を消すと、ロイがダー・ザ・インに少し近づく。しばらくして、ロイが姿を消すと、シドニーが近づいた。
シドニーが姿を消すと、どっからともなく、チエフが現れ、尾行する。入れ代わり立ち代わりであった。
広場に来る。ダー・ザ・インは深夜発の駅馬車に乗った。八頭の馬が牽く三輛編成だ。二時間ほど揺られ、小さな宿場町で降りたが、森に入り、数分後に馬に乗って、五人の供を連れ、街道を疾駈する。
蹄に革を巻いた馬で、チエフが追う。どこにでもそういう馬を用意していた。後をロイとシドニーが追う。ゾーイとマシフは少し遅れて、大鷲の背に乗った。空から急いで追尾する。
数時間後、海岸に着いた。リアス式海岸の深い入り江だ。
「思ったとおりだな」
黎明の兆しが感じられ始める。ダー・ザ・インたちは日の昇らぬうちに沿岸の調査を済ませ、沖から突如あらわれた高速艇に乗って、彼方に消えた。
「恐らくはダミーだろう」
「って言うと、わざと尾行させたと」
「むろんだ、チエフ、どう考えてもわざとらしいだろ。イヰリャヌグラードの繁華街にいた理由がわからない」
「確かに。でも、もう一歩、疑ってみませんか。
高速艇があらわれたことです。あの舟艇は長距離航行には向かない。きっと、本隊があるはずです。船団が近くに来ています」
「そうだな。つまり、裏の裏を掻いて、ダミーに見せ掛けて、実は本当にここが上陸地かもしれないな。ふ」
「真実は現象の霧の蔽いの奥深くにある、ってことですかね」
帰り道、ゾーイの一言で、ロウマンヌという村に立ち寄った。
「ブランチにしよう。俺たち、何も食っていないんだぜ」
土壁に石灰を塗った家や、地産の黄白色の石を積んで赤い素焼きの屋根瓦を葺く家々がならぶ。川は何万年もかけて大地を削ったのであろう、数メートル下を流れていた。
石橋を渡る。荷車を牽くロバが擦れ違いざまに欠伸する。
中心に行くと、村の中で二つの川が合流し、合流点は船の舳先のようであった。その先端にある料理屋に入り、食事とする。
村人以外は来ない小さな店なので、彼らが坐ると、座席の半分を占めた。
「ふむ、落ち着く店だ」
「色彩のせいもあるかもしれませんね」
「クリームのような黄白色だな」
石板に書かれたメニューを読む。チョークで手書きされた文字には味わいがあった。
「俺はラザニアだな」
「葡萄酒も」
「このチーズは何だ?」
「山羊のようだが、少し変わっているな」
「旨いには違いありませんよ。後で仕入れさせましょう」
窓からは直下に浪々たるロウ川があった。川向こうの家なみも見える。
人々の営み、洗濯女や市場へ行く婦人たちの立ち話、魚を市場に運び終えた漁師が既にバルで一杯。鍬や犂を荷車に積んで農耕馬に牽かせる太った農夫。商人が館で交渉している。笑い声が聞こえた。
「この平和が永遠なら、本望だな」
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