第25話 衆講義
イシュタルーナは統一の日、衆を集めて演説を行う。
これが世に言う、巫女騎士大敷衍、又は、イシュタルーナの衆講義である。
「半島に平和が訪れた。あたしは巫女だ。神の言を預かる。それを人に、いや、生命に伝える。
又、日々神に祈る。
この大地に永遠の平和を、と。二度と終ることのない平和を。それを希求する。魂が希求するからだ。それは動かし難い絶対の根拠だ。
なぜ、人は平和を求めるのか。無事に、安全に、生き残りたいからだ。幸福に逝きたいからだ。愛する者たちの苦しみを見たくないからだ。単純素朴な強い真実だ。神がさように創った。人が平和を求めるのは、神がさように創ったゆえだ。
嬰児は誰かに愛されないと生き残れない。人は肯定されることで、自分が生き残れると感じ、安堵する。無意識層にある根源的な死への畏怖から表面的に解放される。解放感(肯定感)は人気や名声、権力や財力、所有や卓抜した能力などで得られる。
未来(死への畏怖・生存への希求)が肯定への欣求の根幹である。さらにその根源には、種としての存続がある。自己が生存することは種として存続することでもある。だから、人は時に愛のために自己(個)の生存すら犠牲とする。
神がさように創った。人が存続を求めるのは神がさよう創ったゆえだ。
ならば、なぜ、神は最初から永遠の絶対肯定された生命、普遍にして絶対不変の正義、すなわち、平和を構築しなかったのか、世界をそのような仕様にしなかったのか。なぜか、人は問わずにいられない。しかし。
問うても虚しい。なぜ、非存在ではなく、存在なのかという問いと同じだ。
衆よ、おまえたちに告げる。いつの時代も、答はなかった。ただ、現実があった。それゆえに衆よ。
新しい地平が必要なのだ。答がないことが妥当な、あたりまえな、ポジティーフだという地平が。
懐疑は極北に達した。理性の槍は折れた。論理は斃れた。真理は喪われた。思考は追いつかない。
全網羅の世界観で、人はいかに堂々果敢すべきか。
魂の声を聴く耳は、数学にはなく、学的な体系哲学にもない。学究的方法論は整理された〝やり易いもの〟しか取り扱えない。ごった煮的な雑多で複雑系的なジグザグした理不尽な事実すべてを取り扱えない。消極的だ。積極的ではない。事実的ではない。ポジティーフではない。
事実に肯綮するものを、肯定的な精神を、学では得られない。現実へは到達できない。証明は論理に任せられない。光こそが真実性を晰らかにし、睿らかとする。事実的でないならば、現実的ではない。空想だ。しかし、紙幣や貨幣の価値は空想だが、切実で、現実だ。生活への意欲を呼び醒まし、人の心の拠り所となるものの多くは空想だ。だが、切実で、現実だ。虚しいからと言っても、多くの人は捨て切れない。
さあ、我らの魂はいずこへ。
新しい時代を生きるおまえたちに告げよう。
真実も虚偽もない。味方も敵もない。勝利も敗北もない。有価も無価もない。妥当も非妥当もない。かたちもかたちなきもない。仕様も無仕様もない。きよらさやかもけがれもない。あはれも卑俗もない。聖も俗もない。
さような一切すらない。さような一切がなく、かつある。さような一切があるのみであり、かつ、さような一切がないのみである。
諸考概は無効だ。
よって、理由も経緯もない、すべて唐突だ。これが〝唐突〟である。
この睿知を了解しようとも、いずこへも着陸できない。いや、いずこへも着陸できないこともできない。模索の中、求究の中途のまま、途中の状態でしかない、未だに求めているさなか、半端な、〝未遂不収〟である。
着地できないとは、着地できないという地点にも着地できない。できるとすら言ってもよいかもしれない。真の真なる〝辿り着けない〟状態である。
衆よ、これは是非もない。
衆よ、我々にとって、ただ、在るものは、ただ、眼の前の現実だ。現実があるのみだ。我々には現実しかない。現実、現実とは、ただ〝唐突〟だ」
イシュタルーナは口をつぐんだ。
じっと聴衆を見つめた。
それは威嚇のようでもあり、威厳のある愛のようでもあり、絶望でもあり、睥睨でもあり、深い深淵の洞察のようでもあった。
再び口を開き、語り出す時、その言葉は底響きするほど、厳かであった。
「それゆえ、現実を追っても虚しい。
現実は究められない。捉えられない。捉え方がない。無形というかたちもない。真に零である真の空だ。
現実は非情である。無味乾燥だ。だが、時に深く、時に優しい。美と豊穣と繊細精緻に満ちる。
自然の摂理が恩寵であり、無慈悲であるように。
いゐりゃぬ神は救う。いゐりゃぬ神は戮す。我が一族だけが甦らない。矛盾だと叫ぼうが虚しく風が吹くのみだ。
あゝ、風よ、今は風が帆を孕まそうとも、明日は凪ともなる。
いゐりゃぬ神が神聖シルヴィエ帝国の神にならないと、誰が言えるか、彼らも真究竟の真実義を究求している。いゐりゃぬ神が敵となっても、敵などはない。味方であっても、味方などではない。
聞くがよい、神は〝全網羅〟だ。
すべてを超越的に網羅し、一切の遺漏がない。すなわち、遺漏すらもする。遺漏だけをする。現実に、いずれも起こり得る。〝全網羅〟とは、現実ということだ。
されば、異教徒はいない。なぜならば、異教徒が実在だからだ。異教徒は現実にいるからだ。
耳ある者は聴け。
異叛も、違屰もない。いずれもある。いずれかだけがある。
異教も、背教もない。いずれもある。いずれかだけがある。
いずれも現実に起こることがある。
さて、とてもかくてもさりとても、衆よ。
さようなもの・ことを捉えられようか。捉えられない。
捉えられないという地点にも着地しない。真の零、真の空だ。
だが、衆よ。
あゝ、それでも人は永遠の平和を希求する。欣求する。
それが真実だから。切実で、現実だから。人の実存だから。
だから、衆よ、本然の本性に遵おう。神が与え給うたままに。神から魂に拝受した先天的な命題の、真髄の真奥の真の本質のままに。
天命(神の命令)のままに。
あゝ、それなのに、何ということか、永遠の平和は決してこの大地を訪れない。だから、永劫の欣求をする。喉の渇き、飢えのように。終わることがない。
終わることなく、人は今を超えなくてはならない。進化だ。すべての生命は進化する。進化が生命だ。すべての生命は己を超越しようとする。
進化は自己超越である。
植物は過去の自己を超えて、繁殖のために花を咲かせるよう進化し、蜂を活用する。
大空を飛べなかった小さな恐竜たちは飛ぶ鳥へと進化し、生存した。地上に上がれなかった魚は両生類へ、爬虫類へ進化した。
人間は進化し、客観性を獲得した。
多くの生き物は環境と一体で環境を離れては生きられないが、人間は工夫し、自己を護り、環境を改革し、どこでも増殖する。それは、自己を超越し、客観という視点を得ているからだ。物という概念を持つからだ。自己の存在を超越して、物という存在を認めているからだ。
科学はかくして発達した。すべては進化だ。
無私や自己犠牲も自己超越であり、進化の一環だ。
生き残るため、存続するために、今を超越し、常に新たなる地平を希う。革新を欣求し続ける。
新たな地平を求め続けねばならぬ、衆よ。
魂の声を聴け。ロゴスに聴従せよ。
真睿知を欣求し、真究竟の真実義を希求せよ。
こころきよらに希(こいねが)い続けよ」
衆は呆然とした。
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