第18話 神の都イヰリャヌート

 いゐりゃぬ神はさような葛藤など意に介さなかった。命ずる。

「直ちに大いなるいゐりゃぬ神の都を築け」

 イシュタルーナは全身の毛穴から憤りの粉塵を上げつつ、魄を滾らせて拝坐した。

「いゐりゃぬ神の欲するがまま、その想うまま、惟(おも)いのままに、若(し)くならざらることやあらん」


 何一つ納得できなかったが、ただ一つ、思うところがあった。

 父はいゐりゃぬ神のためにエミイシと相争ったが、父の考え方が真にいゐりゃぬ神の意欲に適っていたかどうかは、今となっては、もはや定かではなく、適っていたかを晰かにする術もなく、その点に限って言えば、理不尽という想いは、薄まりつつあった。


 巫女騎士は騎士道精神で堂々果敢に憶断する、

「基(もとい)、我々は架空の建物に生きる。心は主体(があると思い込まされている捏造構築である〝我々〟という現象)が夢見させられている幻で、実在の実態はインパルスでしかない。空架の梁、砂上の楼閣に我々は生きる。幅が零センチメートルの綱を度(わた)る。

 自然発生的な仮初めの絡繰りに仕組まれ、根拠なき範疇を妄信し、準じた煉瓦を組み上げ、空疎な物質、抜け殻でしかない『概念』という廃墟を構築し、それを一つの煉瓦として、『論理』という、不気味な、根拠不明の仕様に沿って、さまざまに組み立てた理論・思想・倫理・生活感覚という、大伽藍の宮殿を捏造している。

 その宮殿に坐す限り、人間の理性は納得・満足という化学反応を起こし、紫摩黄金に輝く宮殿の玉座に燦然と君臨する。だが、それが正しいという根拠はどこにも見出されていない。

 当たり前、自明、直観、直截、見たまま、明晰判明などとも言うが、それが正しいという根拠は未だかつて見つかっていない。ならば、それゆえ、その根拠すらない。どこへも着陸する地がない、すらもない。

 知性が知性である根拠はない。だが、その証明方法もない。

 経緯をたどって、因を探ることもできない。手繰り寄せる綱が解れていて、ばらばらだ。時を遡ることも虚しい。架空だ。意味を糺して何が得られようか、煉瓦が砂ならば。砂粒が指の間からすり抜けるだけだ。

 現実のみがある。

 ただ、唐突に。

 勝手で、非情、無慈悲にも、ぶっきら棒で、粗削りな、空疎で、即物的なブリキの空き缶に過ぎない。

 何かを判断しようとして見たり聞いたりし、観察するも、見えるものが見えるままであるという証明などなく、かつ証明ということすらも不可解だ。確認するものが眼や耳である以上は。

 我々はいにしへの聖者が述懐したごとく、恐るべき荒野にいる。我々はいにしへと何ら変わらず、未だ恐るべき荒野にいる」


 むろん、祖先の誠意は疑いようもないが、父や、父を教えた者たちがいゐりゃぬ神の甚深なる意向の神髄に適っていたとは言い切れない。

 いったい、いゐりゃぬ神の意向に適合する思考などあるのか。

「迷う莫れ」

 だから、イシュタルーナは行動した。

 ただ、行動しかない。ただ、ただ、行動しかない。ただ、一向(ひたむき)に、只(ひた)管(すら)只(ただ)唯(ただ)に。人、堂々果敢すべし。義しきとおもふをなす善し。


 声を振り絞って、兵に命じる、

「歩め、逝ける者よ、往くことに於いて行く、善逝よ、真幸くあれ。

 贄を探し、祈れ、水を求め、清めよ。

 糧と塩を集め、確保し、捧げよ。

 いゐりゃぬ神を尊び、民を飢えさせるな」

 死者も甦った。数千の人間が働く。石を運び、木を伐採し、食糧を集め、塩を探し、山上の湧水から古代ローマのような大いなる水道を敷いた。

 アヌグイの山高きも例外ではない。

 御社の木の壁の周囲には、黄金の聖者たちの屋敷が建った。


 さらには、それら屋敷も含め、全体を囲むように、巨石を積み上げた石の壁が造営される。木製の東西の門塔と、元々あった木の壁とを大きく囲み廻って、直径百メートルの環状に、石の壁ができた。石の壁にもやはり、集合住宅が造られる。石の塔の門がならび建った。


 ファルコやジョン・スミスらの家は木の壁の内側にあり、イヴァンら五人の聖者の家は外側にあるが、外の方が大きな屋敷が建築できる。商人も集い、市場も盛んであった。


 このような高山に稀有な市街が生まれる。交易が起こり、次第に商業が栄えた。

 不思議なことに、高山にあるにもかかわらず、街の住民は空気の薄さに苦しまない。登山道は駅馬車の乗り継ぎで登攀できるように、道路、又は歯車式の線路が整備された。


 その迅速さたるやまさに神業である。実際、神業であった。

 さりとても、安堵すると人は考え込むものである。

 ロネが疑義を呈した。

「かつて、死して甦った者はありません。甦ったと言われる者も、恐らくは完全なる死には至っておらず、それゆえ蘇生したのです。

 死した者が甦らないのは厳粛なる神の掟だったではないのでしょうか」

 イシュタルーナは応えた。

「いゐりゃぬ神は偉大だ。人間のように理にも、名・象にも囚われない。

 理は地を這う者の方便だ。傀儡だ。幻想だ。意味を塗り、意義を味わせ租の経験で擦り込み、意欲させ、希わせ、欲望させ、行動になすべき動機があるかのように幻影を抱かせ、行動へと赴かせるために過ぎない。

 いゐりゃぬ神は倫理や合理性など軽々と超える。ましてや、理論が構築するいかなるものにも煩わされない」

「しかし、人が増え続けます。

 狩猟採取には限界があります。人口の増加とともに、狩りや木の実を集める土地が不足し、食糧が枯渇します」

「いゐりゃぬ神には涯がない。いゐりゃぬ神は万能だ。土と水と食べ物を無限にすればよい」


「では、なぜ今、有限なのでしょう。

 なぜ、死があるのでしょう」

「知らぬ。いゐりゃぬ神がそうしたいから、そうなったのだ。

 いゐりゃぬ神が無限を望まなかった。ただ、それだけが絶対神聖の倫理だ。合理だ。すべては唐突である。

 誰も死なず、人が増え続けることが困るなら、皆死なず増えても困らぬ世界を造ればいい。なぜ、未だかつて、しなかったのかなどと訊くなかれ。いゐりゃぬ神の気が向かなかったから、とでも言うべきか。 

 いゐりゃぬ神は道義でも倫理でも合理でもない。それは人間の小細工だ。だが、人間が空想で小細工を弄するのも、いゐりゃぬ神がそうさせたからだ。

 全知全能とは、それ以外の何ものでもない」


 ロネはなおも食い下がった。

「無限量産については、いゐりゃぬ神は気が向かないかもしれません。無限の量産はできないかもしれません。

 だから、山の麓に、耕作地を作ることを考えなければなりません。ならば、いずれこの高所を下る必要はあります。

 今のこの場所は聖都とし、特別区として扱いましょう。

 生産の中心は他の場所に求めましょう。

 まず手始めは、ファルコの農場です。中腹よりも低い場所にあります。

 家畜たちはこの高所では生きられません。動物たちは人間と違って、環境とともに生命が成り立っているのです。生命は環境と一体で、一つの生命を成しているのです。彼らは環境の一部なのです。

 ここに来ることはできない以上、彼らのいる場所を、我らが直轄地、保護区としなければなりません。これが端緒です。徐々に麓へと下りましょう。山上から下りるのです。やがては、平地に都を築くようにしましょう。

 いずれ、そういう運命なのです。都市は大きくならなければなりません。ベクトルは一つ。

 後退はない。生命と同じです。

 宇宙のエントロピーと同じです」

「わかった。

 大袈裟な話をするな。ファルコの農場をも城壁で囲もう。以上だ」

 急傾斜地から、農場をも含む巨大な都市の開発が始まる。


 神の都イヰリャヌートとなった。

 大繁栄する。

 

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