第17話 いゐりゃぬ神の理不尽 イシュタルーナの葛藤
シエミ老人はあきらめた顔であったが、ソシンは震え上がり、額と長い黒顎鬚を地下牢の石床に摺りつけて、
「どうかご慈悲を。どうかお赦しを」
イシュタルーナは逆上した。
「命乞いをするのか、ソシン、浅ましい。
おまえは命乞いした我が一族を赦したか。いや、おまえは泣く幼き子までも虐殺した。おまえは、なぜ、自分がしたことを拒むのか。自分だけが赦されると思うのか。その愚かさだけで、おまえのような人間は生きる資格も、生まれて来た意味もない。
おまえの人権を剥奪する。他人の人権をないがしろにする者は、その人権をも奪われる。それは当然だ。おまえには、人権など相応しくない。人である権利もない。生きる資格もない。
もはや、おまえは人間ではない。生ゴミと同じだ」
「おお、せめて安楽な死を」
「すべてはカルマ(行為)の結果だ。右手に斧を握れば右手に斧が在るように、おまえは自らの行動でいるべき場所に来た。穴に歩む者が穴に落ちるように、自らそうしたのだ。車輪が泥濘に轍を刻むように、この結果を導いたのだ。型押しのように道には同じ型が痕する。
地獄で死者に詫びろ」
だが、いゐりゃぬ神はイシュタルーナの復讐を制止し、巫女騎士にかく命じた。
「生かして、朕に仕えさせよ」
「何と仰せられるか、何と! ならば、一度虐殺させてください。その上で、いゐりゃぬ神よ、甦らせ、いゐりゃぬ神に奉仕させてください。おお、そうしてください。お願いです。
そうでなければ、あゝ、いゐりゃぬ神よ、我が心は、いや、我が魂は牽き裂けてしまいます」
そう言った後、イシュタルーナは俄かに思い至った。
「そうだ、いゐりゃぬ神よ、我が一族を甦らせてください、最も偉大なるお方、できるはずです」
だが、いゐりゃぬ神は拒否した。
「ならぬ」
「何ということを言われますか。そんな理不尽な。我が耳は狂ったのでしょうか。あゝ、しかし、何ゆえに」
いゐりゃぬ神は冷厳に睥睨したままであった。
イシュタルーナは唇を噛んだ。冒瀆の言葉が憤怒の噴煙のごとく、黒く濛々と湧き上がった。だが、いゐりゃぬ神はさらに言う、
「ソシンとシエミへの復讐を禁ず。いゐりゃぬ神に仕えさせよ、朕はそれを欲す」
「ならば、我が一族も仕えます。何が異なりましょうか。いゐりゃぬ神が仕えるものを欲するならば。どうか甦らせてください」
「いらぬ」
「なぜ」
「所以などない。いゐりゃぬ神はすべてを網羅する」
「そ、そんな……異教も背教もないと仰せられるか」
「ある」
「ならば、なぜ」
「すべてを網羅する」
「いったい」
「物質事象時空を問わぬ一切いゐりゃぬである。異教も背教もない。ただ、それのみである。
異教も背教もある。ただ、それのみである。
異教も背教もなく、かつ異教も背教もある。ただ、それのみである。
異教も背教もなく、かつ異教も背教もない(ということ)もない。ただ、それのみである。
又、それら一切であり、ただ、それのみである。
又、それら以外であり、ただ、それのみである。
そうでなければ、すべてを網羅するということにあたわず。
すべてを網羅するということ自体についても、亦(やく)復(ぶ)如(にょ)是(ぜ)(またまたこれのごとし)」
「な、何と。理解できない、解すべき余地が、やりようがない、理解の仕方そのものが見えない」
理不尽な、……再びそう言いかけて、口を結んだ。
いゐりゃぬ神は理に囚われない。理は絡繰り仕掛に過ぎない。人には義であっても、いゐりゃぬ神には義ではない。現実を見よ。だが、現実を見よと言うことが正しいという義ですらもない。
「あゝ、全網羅、すべてを網羅する。全肯定。さりとても。
理不尽を肯定する。理不尽ではないことを肯定する。双方であることを肯定する。双方ではないことを肯定する。いずれか一つだけであることを肯定する。
遺漏なき肯定。
あゝ、かような我が魂魄をも肯定する、又は逆が是、我が魂魄は身悶え、足掻く。藻掻く、それが是、又は逆が是」
イシュタルーナは猛烈に思料し、炎裂のごとく魂魄に念ずる。
獅子奮迅の猛々しさで、あらゆる理不尽を思う心を殺し、滅尽せんとて、死力を振り絞った。いゐりゃぬ神が与えてくれた解脱を再奪取することに甚深に努める。ただ、それは継続でしか為せないことであった。ただ、堪えて時を待つ。
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