第15話 ソシンの敗北 イシュタルーナの復讐
さて、日付を一週間前に遡ろう。
マハルコは兄ソシンを説き伏せるため、宮殿を訪れていたが、弟の話を聞いたソシンは大いに憤慨した。弟以上の巨漢である兄は長鬚を震わせ、金糸刺繍の真紅の貫頭衣の胸や腹を激しく上下させ、
「何たる愚か、百もの兵を以て、小娘にあしらわれたか、無能め、バカが、何を懐柔されておるや、いにしへの神だと?
迷信を。言うな、もはや、時代は変わったのだ。地霊や物の怪など、何かは。理性と科学の時代よ。
北大陸(ノルテ)にある彼の国を思え。今や、世界を席巻せんばかりの独り勝ちだ。祭祀祈祷は人を統合せんがための空想の産物。古代に於いては、人々は神の名の下に結束した。文化・宗教が人々を結束させた。
ええい、見るも汚らわしや。衛兵よ、この愚か者を地下牢に投ぜよ」
とはいえ、百の兵が役に立たなかった事実を重んじ、急遽、資金を作って千人の兵を集わせ、武具を整え、食糧を調達し、号令とともに、出発させた。一貫した憤怒で、昼も夜もなく、わずか一週間で、これらすべてを仕上げたのである。
殺戮の兵器をぎらつかせ、嶮しい雪の急斜面を強いて、湯気を立てながら行軍したが、そのうちの百人は道々、いゐりゃぬ神とイシュタルーナの噂を聞いて怖れをなし、夜逃げ、若しくは脱走をした。
士気の上がらぬ戦闘もまた、お粗末なものである。
エミイシ一族が誇る精鋭はラフポワの雷霆神剣、この時のために特別、一時的に〝水〟の位階を賜ったその剣の一振りで、たちまち大きな雷に撃たれ、九百名がたちまち黒い炭となってしまった。その凄まじさは大山脈もゆっさゆっさと、大きく揺らがせたほどである。大地は割れ、丘は崩れた。豪雨となった。
独り生き残ったソシンはびしょ濡れで、恐怖に震えて平伏し、
「大いなるかな、いゐりゃぬ神の慈悲を」
傘を開きながら、ラフポワは困った顔をし、
「どうして無駄なことをするのでしょう。さすがに、僕も面倒臭いですよ、最初から降伏してください」
最初から降伏するなら、来る意味がないが、そんなことを追及する余裕などあろうはずもなく、ただ、ただ、
「どうか、お赦しを。何でも言うことを聞きます、何でも、どうかお救いください、お願いです、何とぞお助けを、あゝ、いゐりゃぬ神様」
ラフポワは呆れ、
「どうして言うことが、すぐに変わってしまうのでしょう。降参するなら、闘わないでください、愚かです。命の無駄です」
いゐりゃぬ神を振り返って、
「いゐりゃぬ神様、どうすればよいですか」
南の青き海原のごとくに双眸を燦めかせ、舞うように指を空中に滑らせる。細く淡く柔らかく初々しき指先から星が零れた。砂金の霧となって散りながら渦を成し、再び結び、太陽となる。雲が切れ、日が差す。いゐりゃぬ神は命じた。
「朕に仕えよ」
かくして、九百名の兵は生き返って、いゐりゃぬ神に仕える神の兵となった。彼らもまた、かつて生き返った者たち同様、甦ったとても、喜ぶ余裕もなく、奇蹟に慄き震えている。
平伏したままだ。
イシュタルーナは言う、
「九人ずつ青銅の兵の下に什(じゅう)(十人隊)を成せ。
おまえたちのことを銅の兵と呼ぶ。ソシンは牢に抛る。数には含まない。銅の兵は総勢九百人だ。マハルコが戻れば、すなわち、標準的な一組の伍は総勢で四十一名(銀一名、青銅四名、銅三十六名)となる。
全体で千二十五人(四十一名×二十五隊)だ」
九百人の兵の中には、先の九十九人の兵よりも、身分の高い者も数多くいた。前回同様、悶着はあったが、青銅の者たちが別人のように威厳があったので、銅の者たちはすぐに何も言えなくなった。
イシュタルーナははっきり断ず、
「いゐりゃぬ神はすべてを見る。すべてを知る。
異逆は赦されない。上位の者に逆らう者はその瞬間に死す。
我らが神の邦に於いては、上位は人の与え給えしものに非ず。家柄や血筋に拠るにも非ず。
我らが神の邦に於いては、いゐりゃぬ神の与えしもの。
人の邦とは事情が異なる。それゆえ、上位者に逆らう者はいゐりゃぬ神に逆らう者である。
あたしは今、はっきりと言った。おまえたちは全員、あたしの言葉を聴いた。それでも、逆らう者は自ら死を望んだに等しい。一切の弁明は不可能だ。
なぜなら、いゐりゃぬ神は無謬だからである。裁判も無用である。完全にして完璧である。人の世とは違う。人は無謬ではない。だから、面倒臭くて、非効率的なシステムがある。いゐりゃぬ神の下にあるここでは、まったく違う」
ソシンは寒冷の中、外套を奪われ、棘の鞭で肉に轍を刻まれ、洞窟の一角にある牢獄に縛られる。
イシュタルーナは激越に罵った。
「愚昧な思想に憑かれ、我が一族を滅ぼした劣等人、愚昧な科学崇拝者、科学万能主義の敗北だ。破廉恥漢、悪魔め、暴虐な殺戮者、貴様には恐るべき死を与える」
「ひいい、どうか、どうかお赦しを、ご慈悲を」
ソシンは震え上がった。
「安心しろ、赦すことなど永遠にない。この世で誰も経験したことのない激烈な苦痛を与える」
復讐の鬼神が彼女の魂にどす黒い噴煙を濛々と上げている。ラフポワが言った。
「イシュタルーナ、怖いよ、そんなこと言わないで」
巫女騎士は顔を歪める。
「おまえにわかってたまるか」
「僕も家族を」
ラフポワがおずおずと言った。
「それがどうした」
間違っている。そう思いながらも、口にしてしまった。ラフポワはめそめそ泣いたが、それでも少年は憤激する巫女騎士を恐れていなかった。
「誰も経験したこともない苦痛だなんて、そんな恐ろしい言葉……。イシュタルーナの苦しみはわかるよ。けど、誰も経験したことのない苦しみじゃないでしょ?」
イシュタルーナの頭頂に激怒が衝き上がる。それは正論をもって突き返されたときに人が起こす逆上だ。
「理屈を言うな、詭弁者め!」
剣の柄をぐっと握りしめ、巫女騎士は唇をきつく結ぶ。悲しみに戦慄(わなな)くラフポワへ向かずに、洞窟の壁を蹴って足早に去った。
とてもかくても、エミイシ氏族の敗北は決定的となる。
その衝撃的な知らせは、エミイシ氏族の都イルカの宮殿を震撼せしめた。
「決戦を。果てるとしても、名誉ある死を」
「まだ一千の兵がある」
「愚か者、残っているのは、ほぼ予備兵だ。予備役で集まった一般人に過ぎない。正規兵ではない。正規軍の精鋭部隊すら敗れたのに」
「もし、予備役に就いている兵士が皆やられれば、成人男子のほぼすべてだ。それが死んだら、どうなる?」
「和平を、和議を、和睦を」
「イノーグの娘が復讐に燃え滾っていると聞くぞ、和睦が叶うか? 死者は甦らせられぬ、代償は死で払うしかないのだ。もうだめだ、やられる」
「何ゆえに、イノーグの残党に敗れたのか、わずかな人数のはずなのに、精鋭部隊までもが」
「神の力だ、神を否むべきではなかった……」
「ロネやファルコも加担していると聞くぞ」
「ロネ? ルネッサンス・ストリントベリイ伯爵か、革命貴族の」
「人権派弁護士のファルコ・アルハンドロ」
「ええい、それがどうした、慮っていても埒が明かない」
「援軍は? 日頃、昵懇の貴族たちは、いずこに。密約の同盟者たち、暗黙の盟約者たち、言わずもがなのシンパたちを呼べ」
「取り巻きや阿諛追従者たちが何の役に立とう、利害関係があればこそ追随する者たちが。権勢に拠ろうとする者など、風の前の塵に等しい」
「友はいる。いや、ここで我らが斃れれば、自らもやがて同じ憂き目を見ると危惧する者たちがいる。檄を飛ばせ」
「承知」
飛脚が飛ぶ。
「しかし、間に合うであろうか」
「いや、間に合うまい」
「だから、それまで戦うのだ」
「保てるか」
「無理じゃ」
「いや、為せば成らぬものかは」
そこへ、喧々諤々たる忠臣、老臣、譜代の臣下らをかきわけてる巨漢の老人。
「待て、かくなる上は是非もない」
一族本家の当主シエミ(ソシンの父にして、エミイシの族長)が決断する、眉間に苦悶の叢雲を寄せ集め、苦渋の選択を。
「カベンソン城へ撤退する。難攻不落の城砦へ」
一万人を超えるエミイシの一族郎党は都を捨てて、大移動する。その牽く影は悲愴であった。取る物も取り敢えず。「イノーグが復讐に来る」と口々に叫んで。
行程はわずか三キロメートル。だが、老人や幼少者、病人や身体の不自由な者には辛かった。
父によって地下牢から解放されたマハルコは大いに悩んだが、苦渋の選択をし、エミイシ族の大移動の列から脱し、いゐりゃぬ神の軍に加わって青銅の兵となる。
「心裂ける想い。さりとても、これが正しきと信ず」
早暁から動き出し、夜までかかって、砦に着く。狭く嶮しい急傾斜路を登ることが、最大の難儀であった。
猛々しい岩山の城門を閉じ、籠った。
その同じ日の黎明、奇しくも大移動が始まった頃、アヌグイ山では、
「襲撃する」
イシュタルーナは決意した。
「戦の準備をせよ、敢えて酒を振舞う。飲めや。どちらが正しかったかを、はっきりと決めてやる」
戦争の準備が始まった。
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