第10話 黄金の五人の聖者
ファルコはイシュタルーナに見(まみ)えた。
真っ直ぐ長い黒髪が腰を蔽い、眉の下で切り揃えられ、眦は切れ上がっている。凛々とした強いまなざしであった。気負いも気後れもなく、じっとファルコを見つめている。『大したタマだな』と感心し、警戒し、心を粛し、なおも驚嘆した。
確かに、神懸かり的な異能を感じる。
到着と同時に、ロネがイシュタルーナにファルコを紹介した。イシュタルーナは彼らを休ませもせず、
「来たな。神兵軍団長ファルコ、副官ジョン・スミス。では、いゐりゃぬ神を拝め。それからだ」
ファルコとスミスは驚いたが、巫女騎士は意に介さず、雪の塀に囲まれただけの、神の坐す聖なる石の場所に案内した。
ファルコは怪訝な表情を泛べ、鍛冶職人に目配せする。奇妙なものだ、と。
「おい、おい、こりゃあ思った以上だ。実に、いかがわしいではないか」
スミスもうなずいた。
雪の塀の南側の部分が約幅七十センチほど開いている。そこが出入り口らしいとは、ファルコにもわかった。深緑の針葉樹の枝を葺いた屋根が光を閉ざす。
暗くて中は見えない。
まったくの静寂であった。永遠の深淵、のように感じられた。底知れぬ宇宙の永久に涯の知られない深淵のように。無空をも超える無空。
唐突に、光燦が炸裂する。半跏坐のいゐりゃぬ神が双眸の瞼を上げたのである。光燦の烈しい即物性、光線が射貫くかのようであった。露骨なまでの物的な在感覚がある。太陽が面前に降りて来て、神々しい金属の光を放つかのようであった。
「おお、おお、おお、そんな、信じられない……」
立ち上がる。石から降りた。
塀の内側は雪に光が乱反射し、網膜を灼く眩さで、神と自然石とが睿らかに晰らかとなる。
「あ、そんな、あ、来る、ぅわ、うわ」
雪の塀から出て来た。動く芸術、美のイデアをも超越するような、それ以上だ。神聖であった。神の美しさは人の比ではない。燦めく麗しい美少女神の四肢、碧い瞳の冷厳な非情と、崇高の甚深微妙義。黄金の髪は太陽よりも眩く輝く。玲瓏なる女神と、粗野なる石との対比が尋常ではない鮮烈を生む。
畏怖は変じ、深い深い歓喜がファルコ・アルハンドロとジョン・スミスを襲った。神経伝達物質ドーパミンが横溢したかのような。
脳内の快楽物質が最高潮にあふれ噴出したかのように。
いや、それはもっと深く深く、透明で、明晰で、清らかな、何よりも途方のなく深い静寂であった。澄み切った甚深な静寂である激烈な快楽。喩えようもなく、どこまでも広大で無音なのに、勢いあふれ、宇宙の誕生のようですらあった。
これでしかない絶対の真実、正義を感じる。
「あゝ、言葉もない……、俺は生まれ変わったような気がするぞ、スミス」
二人ともすっかりは魂消ていた。解放された拡がりの感覚は、無際限であることに根源的な怖れを覚えさせるも、さらさらと清爽な喜悦。
「あゝ、何てこったあ、怖ろしや、こりゃあ、飛んでもねえことです。旦那さま、震えます、感激です」
「俺も驚いたよ、スミス。いや、そんなもんじゃない、大変なことだ。稀有なことだ、いゐりゃぬ神が光臨したんだ、清らかな、爽やかな、澄み切った、清浄な……初々しい生命、あゝ、そうだ、生命は何と美しいことか。俺のニヒリズムもシニスムも死んだ」
ここに、小さな奇蹟があった。実際、ファルコもジョン・スミスも、いゐりゃぬ神という神を知らなかった。しかし、いゐりゃぬという名が既知の名であるかのように、現在から過去へと遡って、先天的に脳髄に組み込まれていたかのように、彼らにとっての、既定の知識となっていた。
ロネはにやにやし、
「いゐりゃぬ神さ、私は最初から、そう言ったはずだ」
ファルコは息を呑んで、ロネをじっと見つめた。
「何をしたらいい?」
ロネはにやにやしながら肩を竦め、
「わかってるだろ? また戦うのさ、革命のように」
ファルコは電撃に打たれたかのように、ジョン・スミスに命じ、
「ここに住むぞ、身の回りの物を持って来てくれ」
「し、承知いたしやした」
スミスを見送り、暫時、呆然としていたが、ふと気がつく。一時的にどこかへ行っていたイシュタルーナが戻って来た。ラフポワを伴って。
「ラフポワ、彼が神兵軍団長ファルコだ。神将たるおまえの配下だ。よく面倒を看ろよ」
ラフポワは眼を丸くして驚いた。
「そんな無茶な、嫌だよ、無理だよ、莫迦なこと言わないで、イシュタルーナ、僕にできる訳ない。こんなに大きな、強そうな人。とても賢そうだよ。僕ができる訳ない」
しかし、ファルコは神妙に辞儀をした。
「是非もないこと。神の下、忠誠を誓います。身命を惜しまず働きます」
「やめてよ、僕、この人の召使ならやるけど、無茶苦茶だよ、イシュタルーナ!」
ラフポワが逃げた後も、ファルコは神妙な顔で立ち尽くしていたが、ロネを振り返り、冷静を取り戻した顔で言う、
「ロネ、ともかくも俺はここで生活する。そうしてみなきゃ何もわからない。それが必要だ。何かがわかるだろう。生活が革命だ。日々が解脱だ」
ロネは可笑しそうな眼で、
「そうかもな」
「ふう、俺としたことが、小賢しいことを言ったな、ふん、笑いたきゃ、笑え、あゝ、何とでも言え」
「いいさ、神を見たんだ。そんな大袈裟な気分にもなるさ」
ロネの言葉を拒むように、額の前で手を振りながら、巨漢は嘆息し、
「もういい、わかったよ。だがな、取り敢えず、この〝祠〟モドキとやらを何とかしないか、兄弟。スミスが戻ってくるまでは、良い道具もないが、おまえの鉈かと、俺の斧で伐れる材木だけでもいいから、少しばかり、ましにしようぜ。なあ、おい。
これじゃ、あまりにも侘び寂が効き過ぎてるぜ。
完璧に〝冷え〟て〝凍え〟てるいやがる」
ロネは振り向いた。
「どうでしょう、イシュタルーナ」
「古来言う、『人、義しきとおもうことをなす、善し』だ。大いに結構。衆善奉行(諸々の善きことを大切に心を込めて行う)の精神を以てなせ。
だが、〝味〟を台なしにするな。ロゴスに従え、この妙味には、真究竟真実の妙義があふれている」
ファルコは似合わない困った顔をし、口籠りつつ、
「む、なるほど。理解不能ですが、了解しました」
イシュタルーナはそんなことなど気にも留めず、屈託なくうなずき、
「そうか。期待するぞ、黄金の神兵軍団長」
太い枝も、怪力ファルコは斧の一撃で、半ば折りながら毟るように伐採した。枝も、暗濃緑の葉も落とさずに、交叉させ、籬のように編み、雪の塀の上下前後左右を、丸ごと蔽った。あたかも、まるで自然物のような、奇妙な木製の祠が出来上がった。
喩えるならば、数百年も経た巨木が朽ちて、基幹部分の洞が残ったかのような印象である。残存基部に蔦や蘖(ひこばえ=孫(ひこ)生え)が密集したかのような。
なお、この時以来、聖なる壺もここに運ばれ、いゐりゃぬ神に捧げられる。
イシュタルーナは感嘆した。
「見事だ。見事な景色だ。素晴らしいアイディアである。神妙だ」
翌日、スミスが戻って来た。五人の若者を伴っている。一人ひとり名乗った。
「イヴァン・オクタヴィウスと言います。奨学金をもらっていた神学生でしたが、友人の讒訴に遭い、退学させられました。
行く当てもなく、流れ流れて、ファルコの農場に辿り着きました。数多い彼の食客のうちの一人です」
被っていた頭巾を取ると、濃い黒髪を豊かに湛えた青年であった。肌は初々しいが、鬚を蓄え、威厳があった。次は、
「へい、自分は棟梁(アルケー)アーキと言います。無名の頭領の下で働いていましたが、石工組合の新人賞を取ったのが運の尽き、仲間内の悪意に遭い、追放の身の上。いや、人の恨み妬みは怖いものです。流浪の末、ファルコの農場の大工になりました」
巻き毛の巨漢だった。二メートル半はある。眼は恐ろしいくらいにぎょろっとしていた。アトラスがいたらこんな感じか。次は、瘠せて小柄な男だった。
「ガルニエと申します。自分は建具師でしたが、女に関する喧嘩が原因で街を逃げ、ファルコの農場に匿われていました。伝統的な意匠に通暁していると自負してます」
時計職人のように精密な仕事をしそうな、繊細な感じの顔立ちで、服の生地や仕立ては良い。零落した貴族の末裔であった。次に進み出た男は、
「俺もファルコの食客です。彫刻家、画家、建築家でした。ミハアンジェロ・アリストテレスと言います。花の都レ・ディ・フィオーリ(北大陸(ノルテ)南西部のフロレチェ王国の王都)で売れた時代もありましたが、注文主の言うことを聞かなかったので、干されてしまい、食えなくなったので、新天地を求めて今は流れ者です」
彫りの深い、眼窩の窪んだ顔、いつも眉根に皺を寄せているように見えるが、頑丈で筋骨隆々とたくましい。巨漢(この辺りでは二メートルくらいでは巨漢と呼ばない)、というほどではないが、大きく見えた。
最後に進み出て、しなやかな辞儀する男は、
「絵描きです。ファルコに雇われていましたレオヴィンチ・プラトンと言います。図面も引けます。設計図を作れます。自分は商売としての芸術に興味がありません」
優男で、どことなく、ラファエロ・サンティに似ていた。だが、後に内面が学者肌であることがわかる。
イシュタルーナは真実義を胸に抱く彼らの魂胆を見透かし、双眸に清爽明晰の精神があることに感心した。信義を貫く男たちだ。
「善き哉。栄えあれ、黄金の聖者たちよ、黄金の聖戦士たちよ。
ファルコの配下として、存分に働け。おまえたちを見れば、生命には意義があることが叡らかだ。
その双眸に耀く諸々の天叡よ、それらによって晰かだ。その透明純粋な、深くも明るい清澄さによって」
五人は祠の前に案内あれ、まずその外観に驚き、中に入って、いゐりゃぬ神を拝した時は、雷に貫かれた者のように魂魄と心身が震え、崇高感に激しく打たれた。彼らはイシュタルーナに真剣に懇願し、
「どうしてもしなければなりません。いえ、このままではいけません、完成へ、もっと近づけなければなりません。
この魂に先天的に嵌め込まれた規範(カノン)、調和(ハルモニア)、黄金比、基準尺度に遵って、真実へと、高邁なるものへと設計し直さなければなりません。神が我ら人間の魂に与えた美と神聖への、この感覚が過ちでないとするならば」
ガルニエが言う、
「これを見て思うのは、素人仕事ってことです。良いアイディアですが、粗野。良さがあるとすれば、現実ってことです。どんなものも現実ですが。未完成ってことですが、完成はあり得ませんから。何を創ろうが、死の瞬間には虚しいと気がつくでしょう」
レオヴィンチが、
「しかしながら、この〝風味〟には、意味が在ります。風味は生かします。その上で、神のお悦びになるデザインのセンスをところどころに鏤めましょう。自然な木材を使った、人為を思わせない、偶然を基本設計とします。微妙な角度、曲線の妙や、形態の不可思議を交響させ、美しいハルモニアを生み出します」
「そう、人間の計算を超えた、生きた自然の、捉え難い、複雑系的なスタイルを模した様式の装飾、古代ギリシアのコリント式の柱頭のように」
ミハアンジェロはそう言って相槌を打った。
ファルコが加工してからまだ間もない祠を、聖者たちは改造し始める。五人それぞれの伎倆と持ち味を生かし、最初のアイディアにあった〝自然の侘と寂〟とを生かし残しつつ、完全な木製の祠として荘厳した。
葉のついたままの枝を籬のように粗く編んだその意匠を継承するように、枝の繁茂にも見える透かし彫りや虹梁などが設置される。
イヴァンは、
「儀式には香炉がなくては。神は香りをお召し上がりになるのだから。精巧な鋳物の香炉を作ってご覧に入れましょう。ミハアンジェロの超絶技巧をお見せします」
火鉢のような開放型の香炉を発案し、レオヴィンチがデザイン及び設計、アーキとガルニエが組み立て、ミハアンジェロが装飾を鋳型で作って、荘厳した。
これらが終わっても、さらに材木を集め、加工する。板を作った。
木の祠内に残る雪を除き、木目も鮮やかな板を内に張った。その上に、木目を殺さぬように繊細な線彫りの障壁画を描く。イヴァンの発案が元となるその図柄についてはガルニエが大いに意見し、レオヴィンチとミハアンジェロが相談した結果、
「敢えて、彩色をしない。線のみだ」
アーキが床板も張る。床にも神獣、植物、海の生き物、山の生き物の図が施された。
装飾的な龍彫の梁を渡す。嵌木細工の天井を作った。木彫りの、眼につかない、小さな神獣や神像の彫刻を置く。
祠の入り口の外側に、四柱と軽易な枝葺きの屋根をつけ、祭壇を設置する。
巫女が神を拝するための、壁のない、最も原初的な、小さな拝殿を建てた。
香炉をそこに置く。
「素晴らしい」
巫女騎士は讃嘆した。原初的な芸術の歓喜でもある。
「真の礼拝が可能となった。初期の頃を思えば、何という進捗か。人は集まれば、偉大な仕事ができる。しかし又、衆とは、多くの困難と労苦と複雑化の予兆でもあるが」
束の間過(よ)ぎった。暗雲の想いが。
イシュタルーナはスミスを呼び止める。
「鍛冶屋、用事がある」
「何でございましょうか」
「剣を鍛えて欲しい。今、私が使っている聖剣を材料に使ってもよい。渡しておく」
「はい、直ちに取り掛かります」
「それから、おまえに依頼するが、ミハアンジェロに浮彫や象嵌などのデザインをやるよう伝えてくれ」
「剣にいかようなものを」
「角のある原蛇。自らの尾を咬み、円環を成すウロボロスだ。円環の真ん中には、神彝啊呬厨御皇天帝神様の御徴、聖の聖なる真聖の御徴I(イ)を」
「素晴らしいことです。稀有なことです。それであるならば、巫女騎士様の聖なる鞘も作り直す必要がありましょう」
「さもありなん。今のような拵えではないもの、荘厳していないものにして欲しい。それはレオヴィンチに相談してくれ」
「仕上がりましたら、お持ちいたします」
「頼んだぞ。完成した暁には、いゐりゃぬ神の祝福をその剣に与える。その剣の刃は、いゐりゃぬ神の双眸の光そのままの力を分与されるであろう。
それゆえ、〝太陽の剣〟という名をつけるつもりだ。いゐりゃぬ神へ身命を捧ぐ祈りのすべて、神が人に与えられたままの希(こいねが)いのすべて、睿らかさのすべてを込める。必ずあらねばならない」
その頃、見違えるようになった祠を見て、ラフポワは飛び上がって歓び、ただ単純明快に満ち足りて、感無量という表情であった。
「萬歳、萬歳。萬々歳。凄いやあ。もう、びっくりだよー。ほんとに。
あゝ、何ってことだろう。僕が作った雪の塀が、立派な〝祠〟に……、木製の祠に変わった。
奇妙だけれども、これは祠だ。真実の祠だ。素晴らしいよ。讃えあれ、栄えあれ」
黄金の五人の聖者たちは神将に平伏する。ラフポワは困った顔をした。
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