第9話 ファルコ
「イェイサー、イェイサー、イェイイェイサー。
飲めよ、喰えよ、生きてまぐわえ、子孫を遺し、種を永らえよ、宇宙の素粒子どもよ、我らもまた然り。
良善をなせ。それ各々その在るままにある限りのものならば」
ファルコ・アルハンドロは、いつものように早朝に起き、吟遊詩人騎士となって流浪していた頃のように歌いながら、大きな桶を担ぎ、牛や馬や豚や山羊や羊に、水や餌を与えた。
歌は時に声を絞り出すカンテ・ホンドのように切々と歌う時もあったが、だいたいの日は朗らかで楽しげな田舎ふうの節回しだった。
水は雪を大鍋で溶かしたものだ。太い腕は軽々と持ち上げた。黒く渦巻く髪にたっぷり蓄えられた頬髯口髭顎鬚、精悍な大男だ。眉太く眼光は鋭かった。
使用人も彼を手伝う。
家畜は一階にある広い家畜部屋に、柵で種属ごとに仕切り分けて、飼い育てていた。家畜部屋の周囲は使用人たちの部屋で、十数世帯が住んでいる。二階が主人であるファルコの居住スペースだった。
「さあ、飯にしよう」
調理場と食堂は別棟になっていた。屋根つきの外通路で母屋と結ばれている。家事の被害を最小限にするため、火を使う場所は母屋から離しているのであった。
家畜部屋で働いた連中は食堂で一斉に朝食にする。使用人の妻や母親たちは大忙しだ。こどもが騒ぐ。湯気と、食器の音と人々の喧騒。朝はチーズと温めたワイン、石窯から出たばかりのパンだ。
昨晩、猛吹雪の中、山の上の方で烈しい光を見たと言う羊飼いの若者の話を思い出し、
「おい、ハンセン、その話は本当だろうな」
「ええ、間違いございませんとも、ご主人様。ボッカの野郎も一緒に見たんですから、奴にも聞いてごらんなせえ」
部屋住みの羊飼いは応えた。その青い眼は真実を語っていた。
「そうか、ロネが気になるな。猛吹雪も一週間以上続いたし。どれ、後で様子を見に行くか」
大きな斧を握る。
「おい、ジョン・スミス、仕事だ、後で一緒に出掛けないか」
「わかりやした」
火傷だらけ、煤だらけで黒く、精悍な顔と滾るまなざしの鍛冶屋は応えた。
ところが、そのロネが敷地の柵の外で呼ばわっている。
「おおい、ファルコ、私だ。凄い吹雪だったな、大丈夫か」
飛び出て来たファルコは、
「大丈夫かだと? とぼけた野郎だぜ。はっはは、そりゃあ、こっちのセリフだぜ。おまえこそ大丈夫か、隠遁の猟師、真理の狩人」
「むろんだ。なぜ、問うのか」
「昨晩、強烈な光が何度も山で閃いたというが、おまえは見ていないのか、何だ、何事もなかったのか」
「あゝ、そのことか。それを話しようと思って来たのさ、買い出しついでに」
「じゃ、来い。おい、飲むか」
そう言いながら、ポケットからウイスキーのスキニーボトルを出した。錫製だ。大きな手に小さい。
「あゝ、冷えたからな、戴くよ」
ぐいっと呷る。一時間後。
「俺にそんな与太話を信じろというのか」
話半分も聞かないうちに、粗末な書斎で暖炉を囲む安楽椅子に肘を突き、ファルコは不機嫌な顔で言った。
「人の反応というものは皆、同じようなものだな」
ロネはそう言って皮肉な笑みを浮かべる。自分もそうだったと自嘲し。
そのシニカルな態度を見ると、ファルコは理由もなく、信じたくなるのであった。
命の水、琥珀色の濃い酒精を呷る。
「ふ。
まあいい、かつての英雄が言うのだから信じてやろう」
「ありがたいな。信じてないようだが。それに、私は英雄ではない。英雄であったこともない。ただ、戦った。今、ただの世捨て人さ」
「ふん、俺もだ」
ファルコは太い親指で自分の鼻の頭を嬲った。
「ならば、何を惜しむか、喪うものなど、今さらあるか。魂の革命が世の常識の範疇にあると思うか。思わぬなら、来い」
「だがな、イノーグと手を組むのは気に食わんな」
「海神のごときおまえが小さいことを言う。イノーグ族は滅んだ。今いるのは、哀れな少女の巫女騎士だ」
「ふん、泣き落としか。おまえこそ、おまえらしくもない。だが、俺も山の民だ。誇りある古代の民だ。山賊どもとは違う。歴史と、戦士の魂がこの胸にある。
センチメンタリズムだと言われようが、構いやしない。なるほど、そう言われちゃあ、黙ってられないな。わかった。行くさ。逝くとも」
晴れた山の厳しい傾斜、膝までも雪に埋もれながら歩み、二人は休憩時に、エールの樽を傾ける。太陽はぎらぎらと反射していた。紺碧の空である。あと数百メートルほどというところ。ファルコが、
「あれか」
純白しかない世界で、それ以外の色彩があると、遠目でもあっても何となくわかるものであった。
急斜面の上方を見上げる。遠くを見ることにかけては、鷹の眼と同様によく見えるファルコの双眼には、枝を葺いただけの粗末な屋根の翳りが微かにわかったのだ。
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