第7話 狩り 生命を奪う

 ロネは再び外へ出た。そして、血の滴る獲物をぶら下げて帰って来た。未だ夜明け前だった。黎明はなく、吹雪なので真っ暗だ。獲物は、巣穴で眠っていたところをキツネに襲われたウサギと、襲ったそのキツネだった。ラフポワはすやすや眠っている。

「新鮮な血だ。これは有り難い。生命は清らかだ。

 早速、聖なる場所、祭場の浄化に使おう。場を清めようぞ」

 イシュタルーナは獲物を奪うように取ると、外に出た。祠の前に来て、獲物を振って血を垂らし、撒く。

 血は神聖なもので、場を浄化する。鹽が清めるように。

 それを野蛮という宗派もある。だが、宗教はさまざまだ。文化を一概に批判するのは、植民地支配と同じで、その方がよほど野蛮である。答は一つではない。考えは一種類ではない。すべては複雑系的であるべきだ。それが現実的である。

 むろん、巫女騎士の考え方はその真逆であるが。

 イシュタルーナは雪に嬲られながらも、膝を突き、頭を垂れ、髪を雪に触れさせ、音も触感も掻き消えるほど深く祈った。

 戻ると、無造作に骸をロネに渡す。

 ロネは吊るして血抜きをし、捌き、その後、休憩した。

 イシュタルーナは、

「早朝、贄として、いゐりゃぬ神に捧げよう。夜は相応しくない」

 夜明け前の、一日のうち、最も清らかな気が萌えいずるとき、処女神のごとき薄明があらわれ始めた。燦めきを強め、黎明となり、紺碧の空が銀嶺に再び微笑む。あゝ、黎明よ、新たな思想が生まれる瞬間であった。甦りの刹那とも言える。

 崇高なる蒼穹へとなりつつあった。雪が閑止している。


 朝、吹雪は止んでいた。イシュタルーナら三人は神の御前で贄を炙り終えると、額突いて礼拝し、その後に棲家である洞窟へと持ち運び、食す。

 塩も胡椒もなかった。だが、久しぶりの暖かい食事、しかも、肉だ。

 ラフポワは大満足であった。笑みの頬で、噛み締める。

「あゝ、幸せ。何年かぶりにまともなものを食べたよ」

 傭兵時代には、まともな食事がもらえなかった。

「生れてから、何年も経っていないだろう、ラフポワ」

「十年以上は経ってるよ、イシュタルーナ」

「あたしより何年も少ない」

「ふ、私から見れば、半分以下だな」

 外に出て、ならんで立った。日が射し、見上げれば、樹木のない大斜面、眩い純白の山脈だ。

 希望を呼吸するも、光に影がつきまとうように、いずれ、そう遠くない未来に、敵が来るであろう、巫女騎士はそう思った。

 荒天が明ければ、再び殺戮の剣がイシュタルーナを探し、エミイシの紋章の楯を打ち鳴らしながら、山を登って来るに違いない。

「さてと、聖なる巫女騎士よ、エミイシの手の者たちが再び来るでしょう。もしここにいることを察知していれば、正規の兵たちが来る可能性もあります。百戦錬磨の戦闘の達人たちが」

 ロネが言うと、イシュタルーナは、

「むろんだ」

 非情の面をもって応えた。

「失礼いたしました。ふう。問うまでもなかったですね」


 しかし、敵はすぐには来なかった。追撃してきた傭兵たちが全滅したので、イシュタルーナがどこへ行ったかわからなかったのである。山に行ったなどとは夢にも思っていなかった。

 普通に残党狩りをしながら、街道に関所を設けたり、民家を調査したり、イノーグに近しい者たちの家を探ったり、湖畔や川や海の傍、特に港などを捜索したりしていたのである。

 そんな様子を感じて、ロネは言った。

「ラフポワを狩りに連れて行ってもいいですか」

「むろんだ。それもいずれ必要になろう。行くがよい」

 毅然たる少女は言った。

 

 

「風上にいてはいけない。風下に回るよう工夫するんだ」

「なぜ」

「世界がそういう仕様だからさ。この場合は、臭いだ。彼らは視覚よりも、臭いを情報源とする。彼らの嗅覚は人間の何十倍も凄い」

「不思議だね、彼らは見るだけじゃなくて、臭いでも世界を感じているんだね」

 ロネはラフポワをじっと見た。

「賢い子だな、ラフポワ。神将だから、賢くなければ困るが」

「よしてよ」

 その言い方がませていたんで、ロネは思わず笑った。

「そうか、そうだな、あはは」

「臭い以外でもあるの?」

「蝙蝠は音だ。夜は見えないから、音の反射でモノの存在を知覚する。我々は主に眼で見て、音や匂いや感触などと総合して世界を構築するが、彼らは主に音で世界を創る。彼らの世界と我らの世界は同じ世界に住んでいても、別物なのだ」

「へー」

「蛇は温度だ。彼らの世界は温度の差で構築される。モグラも眼がほとんど利かず、臭いの差異で世界を構築する」

「皆、僕らにはわからない違う世界があるんだ。僕は彼らって何も考えてないと思っていたけど、僕らにわからないだけで、全然、別の世界があるんだね。きっと彼らの言語や文化や宗教や哲学や、彼ら独自の感情もあるのかもしれないね」

「私はおまえが本当の神将だと思えて来たよ。自分の感覚や価値観を超越することが生の偉大さだ」

「生の」

「そうだ。

 人間に限らず、という意味さ。すべての生に於いて。

 犬もカエルもトンボも樹木もカビもバクテリアも、一切だ。わかるか、ラフポワ。

 いゐりゃぬ神が指差し示す、生の進化の経緯は、自己超越の歴史だ。飛ぶようになったり、陸に上がったり、水棲したり、擬態したり、巨大化・矮小化したりして、生命は過去の自己を超越してきた。

 また、諸感覚を発達させ、より多様な情報を収集し、より複雑精緻な、客観的な世界を構築することで、客観性を獲得し、他者を理解し、すなわち、自己を超越し、俯瞰する。そういう者たちは進化の道を行く者たちだ。

 いゐりゃぬ神はおまえを選んだのだ」

 ラフポワは嫌がる顔をしたが、想うところあって、

「だから、人はリアルなものを求めるのですね」

 ロネはその意味を表面的に理解するしかないと考えつつ、わかるところだけを言う、

「リアリティ(現実)でなければ、意味がないように思えるのも、畢竟は、そうなのだろうな」

 鹿の足跡を見つけた。

「近いな。シカは耳も鋭い。音を立てるな」

「無理だよ。雪はザクザクいうよ」

「奉行せよ。(奉行って、何?)心を込めて行え、という意味だ」

 一時間後に見つける。

「いた。小鹿だ。ロネ、あの子はやめようよ」

「ラフポワ、それでは生きていけないぞ」

「構わないよ、意味ないもん、生きていても」

 ロネはまた悲しい顔をした。

「なぜ。

 意味のない者はない。意味がないなどと言う者は世界を否定する者だ。たとえ、棒切れであろうと海であろうと土であろうと蛇であろうと砂であろうと雨であろうと無空であろうと、すべての存在者は世界を構成する構成員であって、それを否定するならば、世界を否定することになる。水も羊も文書も石も空気も風も月も鳥も草木も火も人も意味がある」

 ロネの顔を見て、ラフポワは俯いた。ぼそっと言う、

「いゐりゃぬ神は否定することも、きっと肯定するよ。結局、現実しかないんだ。そういうことさ」

「肯定されているから、現実にあると言いたいのか。そうだ。そして、その反対の見解も現実にある。それも肯定されているということだ。

 つまり、現実にあることが肯定されているのではないと考えることが事実であり、真実であり、正しいということも肯定されている、ってことだ。

 だから、在る。すべては在る。

 唐突だ。私が言う唐突という言葉の意味がわかるか。

 根拠を超えているということだ。まとまった見解などないということだ。敢えてそう言い切る、私は。敢えて。

 事実でもなく、真実でもなく、正しくなくともいいから、そうであって欲しいと希うから、そうであると思いたいから、そう想ってもよい、だから、今、そう思っている想いが在る。

 現実とは、そういうことだ」

「何もないのと同じだ。それ以上だね」

「そうだ。だから、生き延びよ。おまえの魂の声を聴け。心を研ぎ澄まし、ロゴスに聴従せよ」

 ラフポワは黙った。ロネは小鹿に向き直る。

「弓は未だ教えてないから、無理だな。投げ斧はどうだ、やってみないか」

「いやだよ」

「そうか。では、私が弓でやる。見ていろ。今日は鹿鍋だ。心を研ぎ澄まし、集中する。世界の呼吸と一体になる。菜食主義者だって植物の命を奪っている。いいか、そらっ」

 ラフポワは黙って考えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る