第6話 乾し肉のスープ  曙光

「ぅうわっ」

 海老のように後ろに飛ぶ。

「いゐりゃぬ神だ! いゐりゃぬ神! あゝ、自然石の上に」

 驚愕し、震えているロネを見て、ラフポワは眼をぱちくりさせ、

「そうだよ、そう言ったはずだけど」

 ロネは蒼白になっていた。

「半信半疑、いや、ほとんど、いや、まったく疑っていたし、もし、真実だったとしても、これほどとは思っていなかった。

 そもそも、いゐりゃぬ神を知らなかった。ラフポワから初めて聞いた。それでも、見てすぐにわかった。あゝ、そして、奇妙な感覚、清爽、歓喜か、崇高、陶酔か、脱力感、いや、何だろうか。だが、畏怖もある、喪われることの怖さも混ざったような……」

 イシュタルーナが鷹揚に言う、

「結論があればよい。結果が現実だ。で、どうだ。手伝う気になったか」

「は、はい。紛れもなく。

 他意はありません、もはや。されども、もう一度、拝観してもよろしいですか」

「見よ」

 恐ろしいのに、なぜ、もう一度見ようと欲するか、ロネ自身にもわからなかった。

 畏れ畏み見る。

「美しい、あゝ、何と言うべきか……」

 言葉にもならぬ繊細さにて、かつ微妙、儚くも、初々しく、生命に富み、輝かしく。甚だ深い静寂の歓喜が身に染み渉る。

 いゐりゃぬ神は論理を超えた大義であると感じる、歓喜とともに。深く深く心静かに欲するがゆえに。真の真から。奥の奥から。


 手を合わせて深く祈り終えると、戻ってロネはイシュタルーナの前に姿勢を糺し、眉も眸も口元も凛々しく、生命を甦らせた者のようにまったく表情を新たにし、

「命に代えても。神聖な使命です」

「最高の真理があるならば、余談は要らぬことを悟ったか。よろしい。おまえをいゐりゃぬ神の臣とする」

「はっ」

 ロネは崇高の稲妻に打たれた人のように一度、大きく震えてから、ガクっと跪いて叩頭(ぬかづ)く。

「身命を惜しまず。一切を捨て、必ずや」

「ふむ。期待するぞ」

 立ち上がると、さっきまでが演技だったかのように平静を取り戻し、ロネは、

「提案なんですが、現状のいゐりゃぬ神の祠は粗野です。あまりにも」

 イシュタルーナは深く頷くも、

「知っている。だが、魂魄を込めればよい。今は、これでも已むを得ないものと考えている」

「むろんです。状況を鑑み、諸事情を慮れば、已むを得ないでしょう。

 現状が悪いとは言いません。或る種の、侘び寂とも言える良さもありましょう(ラフポワは首を傾げたが、イシュタルーナはそもそも興味がなくて反応を示さなかった)。粗いゆえに原初的で、非人工的で、土味を遺した陶器のようにリアルです。

 しかし、存在としてリアルであっても、生存のためには、リアルではありません。所詮、これは雪を積んで小さな塀を作っただけです。

 凍っていて、石壁くらいに頑丈ですが、所詮は雪です。木の塀が欲しいところです。丸太でもよいから、堅牢な何かを立てて。

 為せることから、為しましょう。

 とは言え、今、この吹雪の中で作業するのは危険です。たとえ、晴れても、人数が欲しいところです。

 ですが、屋根くらいは葺いておきましょう。いゐりゃぬ神のために屋根を。寒さや風雪が凌げます」

「素晴らしい考えだな。

 自然もまた、いゐりゃぬ神の御心のままゆえ、風雪など意にも介さぬが、介することも、どちらでもないこともできる。

 あたしたちは深慮し、正しいと思うところを為すのみ」

 ロネは吹雪もものともせず、鉈を打ち込んで、それを足場とし、器用に針葉樹に登ると、斧で枝を伐って、編むようにし、土手の上にかぶせた。その上に雪を固める。確かに、我ながら作業が速いと驚いた。いゐりゃぬ神の力か、と独り言つ。 

「洞窟へ戻ろう。ロネ、少し休め。小さき積み重ねも尊い。命を永らえよ。生の存続にも意義がある」

「ええ、しばし休みます。体力が回復すれば、気力も再生するでしょう。その方が道を間違えない」


 だが、ロネは数分ほど休むと、すぐに洞窟を出た。小屋から生活道具を持って来て、洞窟にあった風の抜ける穴の下に、石で簡単な炉を作り、火打石で羊毛に火を点けた。乾いた草や枝に点火する。これは濡れないように大事に保管していたものであった。薪に火が移る。煙は穴からどこかへ消えて行った。

「ラフポワ、ほら、見たまえ。とても良いよ」

「そうだ、ラフポワ、おまえも来い、いゐりゃぬ神に捧げる火の儀の端緒だ。おまえも見た方が善いだろう。

 未だ火を点せるほど、祠が整ってはいないが」

 洞窟に赤々と燃える炎。燠の火は暖かく、平和で、おだやかで、何と優しいことか。

 希望が点された。一族の虐殺を眼の当たりにして絶望していたイシュタルーナにも、未来の光のない苛烈で殺伐たる前線に傭兵として擲たれていたラフポワにも。

 少年は恐る恐る手を翳し、

「あゝ、暖かい。指先がじんじんする」

 ラフポワが喜悦の感嘆を洩らす。

 ロネは背負ってきた大きな革の袋から、鍋や食材を取り出し、

「スープでも作りましょう」

 乾し肉でダシを取っただけの汁だった。しかし、豊かな風味と旨味とがある。まともな食べ物だった。

 匙で一口掬って、ふうふうしながら飲むと、旨味が五臓六腑を廻る。

「んー、堪んない、あー、血が通うのがわかるよ。甦る。生き返るようだね、イシュタルーナ、僕は本当に生き返ったよ! 自由になった気がする」

 ラフポワは随喜した。

「では、私は早速、自分の使命である狩りに出掛けます。数日かかることもあることを、予めご承知おきください」

 颯爽と出る。その肩や背や、無骨な表情は、行動ということだけを露わに示していた。


 その頃、いゐりゃぬ神は粗野な祠で睫毛を伏せ、坐し、瞑想する。

 イシュタルーナも洞窟の中にいながら遠くを見遣る。

 いゐりゃぬ神も時には、考えるのであった。すべてが意のままゆえに、考え煩い、模索する必要などなくとも、そうすべくしてそうするのである。

 巫女騎士の心に髣髴する何某かの思慮の繚乱も、ただ、いゐりゃぬ神の御心のまま。自由な、自主的な、自らの意志など、未だかつて存在したことはない。非存在ですらない。そもそも、自由意志とは、何か。我らは自由意志を持つ。唐突に、自由意志は実在している。

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