第2話 少年傭兵ラフポワ
イシュタルーナは一人でも多く殺さんと、見事な聖紋の長剣を抜き、楯の蜥蜴をちらちらと揺れる炎のように光移ろわせ、悲愴の死を覚悟し、瞑目しつつ、聖咒を唱える。金の聖句の刺青が螺鈿のように複雑な燐光で、凛々と燃えた。
「龍のごとく肯んじ給う、真究竟の真実義よ、すべてを網羅し給う、真究竟の真実義よ、若(し)くこそしあれ」
この時、突如、半跏趺坐に坐していた女神が動いた。降臨した時のように、再び石の上に立つ。
「おお、何と」
羚羊に乗る傭兵たちは初めて気がついた。激しく燦めきながら動く光の輪の中に、殊更に濃く烑(かがや)く輪郭を以て立つ、いゐりゃぬ神の存在に。
「おい、見よ、石の上の凄い光の中を、人の形をした何かが、あれは」
「太陽が落ちたみたいだあ」
「そうだとも、神だ、そうだ、違いない」
「何だと、何ゆえに神が、奴が召喚したのか」
「ええい、狼狽えるな」
「ならば、おまえ、往け」
「ふざけるな、何事も命あっての物種よ」
イシュタルーナは蜥蜴の紋の楯を構え、聖紋の長剣を抜いた。
いゐりゃぬ神がちらっとまなざしを遣っただけで剣はパッと火が点いたかのように、光燦々と輝く。
「見ろ、女の剣が燃えている」
「神だ、俺はごめんだぜ」
「バカ、逃げるな」
しかし、一人が行けば、次々逃げ崩れていくのは人の性だ。
「ぅうわあああ」
恐怖に駈られ、一目散に逃げ出した。
「卑怯者、逃げるか」
飛ぶように襲い掛かる。たちまち斬殺、十数名。
さらに追おうとすれば、
「待て、巫女騎士よ、朕に仕えよ」
「しかし、いゐりゃぬ神よ」
「逆らうなかれ」
その言葉に巫女騎士は長い髪を垂れて項垂れ、
「言うまでもないこと」
イシュタルーナは跪いた。巫女騎士は知らなかったが、逃げた果(おお)せたと思われた兵二名は、数百メートルも逝くことなく、力尽きて死し、吹雪に深く埋もれて、数年後にも見つかることがなかった。知らぬイシュタルーナは無念であったが、気持ちを変え、私情に走ったこと(人としては、已むに已まれぬ感情ではあるが)を大いに悔悟し、感謝を奮い起こし(そうすることが正しいと彼女が信じたから)、
「申し訳ありません。あゝ、いゐりゃぬ神よ、感謝いたします」
その時、ほんの一刹那、吹雪が止み、静かな光が彼女に降りた。崇高な感情が湧き上がり、清らかな解脱を観ずる。いゐりゃぬ神の表情は相変わらず冷厳で、非情なままではあったが。底知れぬ凍てつきの、深淵のごとき冷厳。
だが、彼女の受けた寂滅為楽の横溢は、いゐりゃぬ神の氷のごときまなざしを受けても、妨げられることもなく、イシュタルーナは萎縮することも畏怖することも憂慮することもせずに、顕かなる祝福を感じた。大いなる恩寵が漲る生命となって体を廻る。
「あゝ、何という、このような閑寂なる陶酔、清明にして清爽なる歓喜、想ってもみなかった。舌が縺れるとはこのことか、言葉では言えない」
いゐりゃぬ神に報いねば。
イシュタルーナは暴風雪もものともせず、捧げものを探した。自分のための食糧よりも、水よりも、それが先に心を衝き動かす。
すぐ傍の、針葉樹の香り高い濃い緑の葉を取り、又雪に埋もれた木の洞を探ってその奥に、幾種類もの木の実があることを発見し、諸手で掬い、捧げ祀った。靴を脱いで跪き、聖なる咒を唱えて、祈祷する。
いゐりゃぬ神は何の意も表さず、冷厳な無表情のままであったが、
「おまえの生命を維持せよ。そのため、その木の実は保存せよ。リスが集めし木の実を、いゐりゃぬ神がおまえに授けて賜るものなり。受けよ。いゐりゃぬ神がおまえに賜る最初の糧なり」
イシュタルーナはおのれ独りの無力を悟った。
「あゝ、いゐりゃぬ神を祀り、護るに、あたしの力だけでは足りない」
彼女は自らの生命維持をも忘れ、そう思う。寒さに凍える手で、再び祈った。
ふと近くに人間が蹲っていることに気がつく。頭を抱えて、雪に伏し、震えているのは、苛烈な吹雪のせいばかりではなかった。いゐりゃぬ神を前に畏怖している。慄いていた。
「おまえは誰だ」
むろん、敵の歩兵でしかあり得ない。しかし、見るからに幼い少年であった。イシュタルーナは十四歳であったが、彼女よりも幼そうであった。
「顔を上げろ、上げねば殺すぞ」
「ひぇえ」
少年は一度、縮こまってから、恐る恐る顔を上げる。
「傭兵だな。傭兵団がいずこかの村を襲った時に攫われ、無理矢理に傭兵にされた少年兵だな。同情に値する。あたしは、おまえを救おう。名は」
「ら、らふ、ラフポ……ワ」
弱虫の傭兵、ラフポワである。声が風にちぎれる。
イシュタルーナは決然と言った。吹雪でも、その声は高らかな鐘のように、
「よし、おまえにいゐりゃぬ神の守護を命ず。今からいゐりゃぬ神を守護せよ、神将である」
鎧もない少年兵は驚いて、眼を丸くした。
「無理だよ、将なんて、しかも神将? とんでもない。鎧もないのに。そもそも、僕は闘えないよ」
楯などなく、剣は錆びて、木製の鞘から抜くのも一苦労だ。だが、巫女騎士は意に介さなかった。
「いゐりゃぬ神の加護がある」
「そんな……むちゃな」
ラフポワは最初の守護者となった。ここで天から聖なる光でも降りてくれば、さもそれらしいのだが、さようなものはなく、ただ、非情なイシュタルーナの言葉が在るだけであった。命ず。
「いゐりゃぬ神を風雪に晒すな。
神を尊べ。祈りは神に捧げる聖なる行為だ。この無空の世の中で、神を崇めずば、すべては崩れ去ってしまう。
諸考概も愛も言葉も虚しい、どうしてそれを押し留められようか。
正義も真実も実体として実在しながらも、無空だ。つまり、実体があること、実在であることが無空と同義なのだ。
このような無際限な無空のさなかで、棹を差すのは、ただ祈りでしかない。神を尊べ。神を崇めずば、すべてが消え去ってしまう。
もう一度言う、いゐりゃぬ神を風に晒すな」
「でも、あなた、えーと」
「イシュタルーナだ」
「イシュタルーナ? じゃ、イシュタルーナ、言うけどさ、ここには何もないよ。
風を遮りたくても、そういう材料が見当たらないよ。そりゃーさあ、神様じゃなくったって、風を遮るものは欲しいよ。僕だって欲しい。けど、ないよ。雪しかないよ。何もないよ」
「雪が在る。
おまえは雪を見たこともないのか。どこの国の生まれだ、そんなにも、遠くから連れられた訳でもあるまい」
「モ、モンタの村だよ、ここからは遠いけど、雪を見たことがない訳でもなくもないけれども」
「ふむ、モンタか。なるほど、雪は少ない場所だが、降らぬ土地でもない。愚か者よ、ただ、愚かなだけか。
考えよ。答はとても簡単だ。
思いつかぬのは、よく気をつけていないからだ。はっきり言おう、よく気をつけよ、と。逝にしへの聖者も言う、気をつけよ、と。
日々の業に気をつけよ、言葉や所作に気をつけよ、こころの機らきに気をつけよ。よく気をつけて生きよ。
いつでも洞察し、解析し、吟味し、創意工夫せよ」
「はい……」
「つまり、答は雪だ、雪を積めばよかろう」
「えー、道具がないよ、凄い風だよ、声もよく聞こえない」
「つべこべ言うな。手がある。厚い手袋もしてるようだが」
「手袋って、見掛けだけだよ、これじゃ、すぐにグシャグシャになって、凍って、指が凍傷になっちゃうよ」
「ふうむ。凍傷のことは知っているんだな」
「そりゃあ……知ってるさあ。知っているに決まっているさ。そんな眼で見ないでよ、ええー、そんなあ。
……あーあゝ、わかったよ。うん、仕方ないよね」
諦めに慣れた顔だった。諦めが張りついている。
だが、不思議なことに、作業中は手袋が凍ることはなかった。
最初の御社は雪の〝祠〟である。
と言っても、周囲に雪を積んで、環状に囲み、出入りのため、南向きの正面を七十センチの幅に開けただけのものである。正確に言えば、雪の壁、又は雪の塀である。それを敢えて〝祠〟と見做して、そう呼ぶに過ぎない。
直径四メートル弱、高さは一メートル超。ただし、屋根はない。いゐりゃぬ神が石の上に立ったままでいると、腿のつけ根の十センチメートル下のところまでしか届いていなかった。
「仔細ない」
いゐりゃぬ神は坐す。
神座する石の直径は一メートルくらい。高さは四〇センチくらい、雪の壁と石との間は一メートルのスペースが生じていた。イシュタルーナとラフポワはそこに跪くも、狭いし、何よりもとても雪が冷たい。
「ダメだよ、凍えちゃうよ、もう指も動かないし」
耐えられなかった。
イシュタルーナは眉を顰めて考え込んだ。いゐりゃぬ神のためには私情、生命、身体は犠牲にすべきだが。ラフポワがなおも訴える。
「黙ってないで、イシュタルーナ。これじゃ、外にいるのと変わらないよ」
とは言え、直接、体に当たる風が減っただけでも、暖かさを感じる。血の気が幽かに甦る気すらした。気のせいかというくらいに幽かではあったが。しかし、感じられるならば、それがリアリティだ。
「心臓まで凍てつきそうだよぉ」
ラフポワは哭いていたが、イシュタルーナは容赦ない。
「大袈裟な。
さあ、さような私情に浸る余裕はない」
「私情、って、そんな……。なぜなの、何のために、そんなに仮借ないの」
「問うな。言葉は虚しい。
いゐりゃぬ神を供養せねばならない。贄を捧げ、威儀を糺し、聖咒を唱え、祈祷し、礼拝しなければならない。行動が言語だ」
「そんな状況じゃないよ。そもそも、神官の仕事じゃないの」
「民も祈るだろう、違うか」
「余裕のある人だよ。僕はない。凍えて死にそうだよ」
気がつき思い出す。ゐりゃぬ神が生命を維持せよと言った意味を。言説を超えて実存的、実在的に実証されるその深き神慮を。
生命の意義を考え、事実を神の言葉として鑑み、深慮の末、彼女にとっては苦渋でもある決断をした。
「わかった。
すぐそこに洞窟がある。そっちの方がここよりは、いくらかましであろう」
「最初からそこへ行こうよ、早く言ってよ」
「そんなものではない。そういうものではない。これでも、苦渋の決断だ。わからないか、愚衆め」
「わかったよ、だから、行こう、どっち?」
「縁なき衆生は度し難し、とは、このことか」
二人は洞窟に向かった。わずか二、三十メートル。それしか離れてなかった。それでも、吹雪は容赦なく、頬は感覚なくも、痛い。ラフポワは腰まで埋まる。イシュタルーナは膝まで。
昏い中に入った。
直観的にイシュタルーナは気がついた。
「とても、深い……」
どこまでも続いているように感じた。途轍もなく奥の奥まで、細長い、あたかも延び続く深淵、のように思えた。
眼が窟闇に慣れると、
「これは何」
素焼きの土の壺だった。元は乾いた暖かみのある風合いの、明るい茶系の色だったであろう。今は凍りついて冷たい。
「何か入っている」
イシュタルーナは手で探る。
「こ、これは」
「何」
パピルスだった。巻いてある。広げた。
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