第83話 真打・五人とひとりと怪事件 4
学校とは真逆の方角、駅を通り過ぎて更に町の南側へ出るとグラウンドだ。着いてみると、元気だけど生意気そうな中学生が、薪の山を二つ、さらに三つ目を盛大に櫓形に築いていて、こっちに気がつくと、馬鹿でかい声でねえちゃああん、と手を振った。
「どーだ見ろ! 二時間でここまで作った俺のゴイスーな手腕! 存分に褒めやがれ! 」
ああ、あほの子だ。
グラウンドに降りたところで、紹介しよう、と比企が中学生の頭を盛大にはたきながら、しれっとした表情で言った。
「一昨日の晩に怪物を取り逃した弟弟子だ。小虎、うちの高校を受験するなら彼らは先輩になる。挨拶しておけ」
「西中三年の財前琥珀でっす! 将来なりたいものは美女のブラジャーでっす! 」
うん、しみじみとあほの子だ。なんか安心した。
「さっき店を出る前に、チャットで指示を出しておいたが、…ふん、いいだろう。数は足りんが、二時間という時間を考えれば、お前にしては上出来だ。まさかとは思うが、手伝ってなどと師公におねだりして困らせてはおるまいな」
まさかー! と慌てて否定する弟弟子だが、やっぱり比企は見ちゃいない。まあいい、とひと言、斜めがけの鞄からでかい風呂敷包みを出して、グラウンドの隅の公衆トイレに入ると、弟弟子が三つ積み上がった薪の山から少し離れたあたりに、テキトーにバツ印を書いた。
「サメの先輩はここに座っててくださいっす。あと、他の皆さんはテキトーに、始まるまで見ててくれてればいいっす。俺もだけど出番は始まってからなんで、それまでその辺で一緒に待ってましょう」
「始まるって何が」
「始まればすぐわかるっす大丈夫っす」
わからん。
ぷらっとトイレに行ったと思ったら、比企はなんか、和服のような、そうでもないような、なんか不思議な格好で戻って来た。手には木でできた小さい剣…剣? だよな? ハリポタでお馴染みの杖みたいなサイズの棒を持っていて、足元もさっきの下駄から、布の靴に履き替えている。着物は腰のところを、何でだか荒縄を巻いて留めていて、全体的に質素というか地味というか。
比企は地べたに座った俺をみると、八木君すまないな、と詫びて、着物の懐から、さっき上海亭で見た縄を出し、何やらぶつぶつまじないを唱えた。
そして唐突に始まるイリュージョンの嵐。
まずは絹のようなあの縄が、比企のまじないの文句に乗って伸びていくと、チッ、という掛け声で俺を縛り上げる。
「無理に動かなければそのまま、だけど逃げようとするとどんどん絞まる。意識がしっかりしてるうちだけでも気をつけてくれ。本来なら宝貝はあまり常人の体にはよろしくないが、短時間で済ませれば問題あるまい」
「アッハイ…」
縛られはしたものの、幸い、今のところは苦しくも何ともない。俺はひとまずおとなしくしていることにした。
「もう少し火種が欲しいな」
ボソリと比企が言って、指をパチリと鳴らす。俺の正面に、背中と左右に並んでいるのと同じ、櫓に組んだ薪の山があらわれた。
一瞬で、影の中から生えたみたいに、いきなり出て来た。
見ればあの弟弟子はけろりとしているが、忠広もまさやんも、源も結城も、みんなが目と口をぽかんと開けている。
「祭壇もない急場しのぎだが仕方ない。いささか荒っぽいが、うちの洞府は実践第一。…確かみんなは、勉強会をする名目で結城君の家に集まっていたんだったな。あまり帰りが遅いと結城君の親御さんが心配するだろう。深夜までには片付けるぞ」
そこで比企は、とろけるような笑みを浮かべて高らかに宣言した。
「さあ! 戦争の時間だ、出て来い化け物! 殺したり殺したりしてやろう! 」
そしてもう一度指をパチリと鳴らす。今度は一斉に、俺の周りの櫓に火が点く。ごうごうと燃え始めた。なんだか普通の炎と色が違う、ような気がするが、気のせいだということにしておこう。
もう驚かないぞ。こうなると何でもありだろう。驚かないったら。
一気に俺の周りに炎の熱気が立ち込める。暑くて、というより熱くて息が苦しい。呼吸のたびに熱気が鼻から口から入り込み、喉と肺が焼けそうだ。グラウンドまでの道中、自販機でスポドリ飲んでいたというのに喉が渇く。そのくせ、俺は滝のような汗にネトネトとまみれていた。
ふうっ、とわずかに気が遠くなる。
熱い。熱くて熱くて熱くて──息ができない。乾いてしまう。
ぶるん、と体が震え始めた。俺の意思でも、体の自然な反応でもなく、痙攣というより、端末のバイブレーションのようにブルブルと。生き物の断末魔みたいな。
「ぐぎいいいいいいいいいいもぎげえええええええええええええ」
俺じゃない。第一、俺の声じゃない。それでも俺の喉から出ている呻き声は、やがて俺の喉を内から痛めつける。絞り出すように無理やり声を発しているからだろう。例えば、喉を締め上げられるときなんか、こうなるのじゃないか?
とにかく苦しい。ただでさえ息苦しかったのに。これじゃ呼吸なんかできやしない。頭に酸素が回らない。肺が焼けつく。心臓がバクバク言っているのがわかる。無意識にのけぞってしまう。すると、俺の体の動きに反応して、あの絹みたいな縄が締まり始めた。
なんてことだ。ブルシット。ホーリーシット。くそったれ。俺の頭の中を、知る限りの罵りの言葉が乱れ飛ぶ。苦しいったら。息をさせてくれ。痛い。痛い。死にたくない。死にたくない……。
「小虎! 」
どこか遠くで、この二日ですっかり聴き慣れた声がする。誰だったっけ。
ああ、比企だ。
隣のクラスの天才少女。制服のスカートの下にジャージを履いていて。私服のセンスが残念で。大飯喰らいで。なのにガリガリで。
そんでもって、不思議な術を当たり前みたいに使って。
そんなことをぼやけた頭で考えて、それでも俺の口からは濁った呻き声が止まらない。ああ、星が見える。ということは、いつの間にか仰向けに寝ていたのか。寝かされたのか。それとも倒れたのか。
とにかく苦しい。まずはそれが一番。こめかみがバコバコいっている。頭が破裂しそうだ。苦しい。熱い。焼け死ぬ。
焼け死ぬ? 櫓は一辺五メートルぐらいの正方形で立っていて、俺はその真ん中にいるはずで、確かに熱いことは熱いけれど、つまりそう簡単には飛び火なんてしないだろうに。なのに。
俺は焼け死ぬ恐怖に怯えていた。焼けて死ぬ。乾いて死ぬ。乾く。死ぬ。死ぬ。死。
乾いて死ぬって?
ふ、と違和感が首をもたげた。その時。何かを咥えさせられた。ガチリと顎と頭を抑えられ、しっかり噛み合わせられて、何か、硬いものが。俺の、口に。
同時に俺の肩を、両足を、ガッチリと押さえ込まれて、俺はもう、腹をねじくらせて苦痛に耐えるしかできない。違う、耐えられないから芋虫のように蠢くしかできない。
俺の体を突き破って、いや、手足をバリバリと引き破って、身体中をズタズタに、ボロ雑巾のようにしながら、何かが引き剥がれるような、そんな感覚を覚えた。さっきまでとは比較にならない、桁外れの恐怖と激痛。
「おい、」
声をかけられた。地獄の酷暑の中でなお、涼しげな、掠れたアルト。
涙と熱気で霞んだ俺の目は、どこか愉しげな比企を捉えていた。
比企は片手で懐から瓢箪を出して、もう一方の手がきゅっと捻るように動いて、それから、ひょいと瓢箪を傾けて。
ビチャビチャと音がした。
「欲しいか」
その声音を、俺は忘れられまい。
あれこそが女帝の一声。
そっちの趣味なんかかけらもない俺でさえ、随喜にうち震え思わずひれ伏して慈悲を乞いたくなる、有無を言わさぬ響き。なるほど、比企は一部の男子に熱狂的な人気があるというあの噂は、本当だったのか。俺でさえ、今の一瞬だけだけど下僕になりたくなっちゃったもんなあ。
そんなことを考えて苦痛を忘れようと必死な俺の口からは。
──おで の。だ。
呻き声の合間に、押し殺すように漏れた言葉。
比企はそれを聞いて、とろりと笑った。
「おお、そうか。…でももうないな」
くつくつと、心底愉しそうに笑う。こいつ絶対ドSだ。俺は確信した。
その言葉を聞いた、その刹那。
俺は、自分のものではない怒りを、底抜けの怒りと殺意を、感じた。腹が煮える。頭が沸騰する。眼球が灼ける。何も聞こえない。
感じて、それはいきなり消えた。
同時に比企が鞭打つように叫ぶ。
「小虎! 」
「あいよぉ! 」
俺の口に噛まされていた硬いものが外された。
まさやんと結城に助け起こされながら、俺が、俺達が見たのは。
背と腹の境目で二つに裂かれた馬鹿でかい魚。
そいつが比企に殺到している。すごい速さで這い寄る。青っ白くて、ぬらぬらしていて、背鰭も腹びれもないのに、なぜか魚だと見ただけでわかってしまうのがとても気持ち悪い。何よりこいつを禍々しくしているのは、目があるべきところがつるりとして、何もないことだった。体を裂かれているのに血が流れるでもなく、スパッと断ち割られた内臓の断面が当たり前に見えていることだった。
比企は知らぬげに、何かを左手で受け取ると、どこか空の向こうに手を合わせ、ペコリとお辞儀した。
「只今殺戒を破ります」
ふい、と化け物に向き合って、あの木の小剣に添えるように、闇にきらりと光る小さな何かを、顔の前に立てるように構えて、
──比企の立っている手前一メートルほどのところで、怪物の体がバックリと、今度は縦半分に、開きでも作るみたいに裂けた。
裂けて、その体はすぐに砂か灰のように崩れてなくなる。
比企の白くて小さい手には、黒くキラキラ輝くナイフがあった。どこかで見たような石だな。
ああ、そうか黒曜石か。
小さい頃、アーカイブで観た「はじめ人間ギャートルズ」に憧れていた俺は、河原や山へ行くと黒曜石を探す、あほな少年だったのだ。だからすぐに、それと見分けられた。いや、だからって別にすごくはないんだけどね。
何事もなかったように、スタスタと、淡々とした足取りでこちらへ来ると、比企は子供が何かを発見したみたいな顔で笑った。
「そうか、貴君はそんな顔だったんだな八木君」
「え」
比企の言葉に、あっとみんなが驚きの声をあげた。
「やった! サメじゃねえ! 」
「おかえりヤギ! 」
「やっぱりヤギちんはこの顔じゃねえと! 」
「よかったなあ、もうサメじゃないぞ! 」
まじか! やったぜサンキューありがとう! アーメンハレルヤピーナツバター! 携帯端末の、画面オフの暗いガラスで自分の顔を確認。うん、一六年付き合ってきた俺の顔だ。サメじゃない。よかった。
思わずお互いに肩を抱き合おうとした俺達だが、そこで比企が淡々と、やめたほうがいいんじゃないのか、と歓喜に水を差す。
「八木君、貴君はシャツを替えた方がいいだろう」
言われて初めて気がついた。そう、俺はどうやら、さっきのあの、死ぬかと思うような、てゆうか生きてるのが不思議としか言えない激痛と呼吸困難と痙攣に襲われていた間に、無意識のうちに夕飯を吐き戻していたみたいだ。
ひと言、事前に食うなと言ってくれればいいのに。いけず。
凄まじいスペクタクルはほんの一瞬。時計を見れば、意外にもまだ十時前で、俺達はいつものように、いつものノリで、結城の家に引き揚げた。
「私はこれから、師父に経過を報告しないといけない。今夜はこれで失礼するよ」
そう言って、やっぱり指パッチン一つで炭になった薪の山を消すと、比企はお疲れ様、報酬は改めて連絡するよとひと言、スタスタとグラウンドを後にした。
後には俺達五人と財前少年の、野郎ばかりが残った。財前はこのまま自転車で帰るという。途中まで方向が一緒だというので、連れ立って歩き話をしてみると、なんだ、俺達よりしっかりしてるなこいつ。グラウンドの隅の水道でシャツを洗い口を濯いで顔を洗う間も待っててくれてたし、うん、いい奴だ。別れ際、俺達は財前少年とも連絡先を交換した。
そのままいつも通り、コンビニに寄ってスナック菓子とコーラの二リットルペットを買って、結城の家へ何事もなかったかのように戻る。いつものように風呂を借りてワイワイやって、俺達は揃って日付が替わる頃に寝た。
週が明けて月曜になれば、元のヤギに戻った俺は、噂の半魚人でもなんでもない、いまいち冴えないただのヤギに戻るのだ。
でも今では、俺は、俺達は知っている。
隣のクラスの天才少女は、ただの天才でも、ただの変人でも、ただの美少女でもない。
あらゆる意味で並外れていて、全部が凡人の理解の枠に収まりきれない女の子で、戦闘となるとやたらイキイキして、実はすげえドSの女王様で、要するにとてつもない女の子だったのだ。
でも、それを知っているのは俺達だけ。
これは、あの子と俺たちだけの秘密。
ちょっとしょぼくて、でもどこにでもいる俺達と、あの子だけのささやかな秘密。
だから、このことは俺達だけで、誰にも明かさず大事にしよう。
冴えない俺達にも、少しはすげえ秘密があるんだぜ。へへへん。
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