第77話 五人とひとりと海から来たもの 13章

 それで、と佐藤さんは、七対三の割合で疑いの方が多いのを隠さない顔で、目の前に積まれた古書や古いノートの束と比企を交互に見た。

「お話は分かりましたがね」

 問題は殺人事件の方なんですよと頭を掻く。そりゃあそうだよなあ。普通の公務員だもんな。

 そちらは問題ありませんと、普通でない探偵はしゃあしゃあと言いやがった。

「おそらく今日明日にでも、防衛省から和歌山県警本部に連絡が入るでしょう。相手が相手だ、表向きには害獣駆除とでもして、こういうものに対応する専門のチームが派遣されると思います」

 はあ、とまずは答えるが、佐藤さんにしてみれば、化け物退治と殺人事件の何が関係あるのか、と言いたいところだろう。正直、ずっとここまで付き合ってきた俺でさえ、だからなんだと突っ込みたくなるのだから。

 青松寺の蔵座敷に場所を移しての面会の場は、まずこよりを挟んだ古い記録達をバサバサと積み上げて、比企は言ったものだ。

「真犯人はこの町に古くから伝わる、個体進化の果てに奇形化した生物です」

 すげえな、この嘘もいいところな大嘘を、堂々と抜け抜けと言ってのける神経。会議が終わったと佐藤さんが折り返し連絡くれたときに、比企が指定した場所がここだった。通話を終わらせると、青松寺に向かうその道すがら、奴は俺達に釘を刺したものだ。

「どんなに異議があろうと、まずは黙って話を合わせてくれたまえ」

 まあ、こいつのこういう頼み事は今に始まったことじゃないので、俺達もいつものようにうなずいたのだが。それから桜木さんの袖をちょいちょいと引いて、俺たちからやや離れたところで、何やら打ち合わせていた。だからだろうか、良識の人である桜木さんは、黙って成り行きを見ているだけだ。

 それで、と佐藤さんがお茶を啜りため息をついた。

「ミガワリサマですか、網元さんの一族にその生物と親和性の高い子供が生まれて、成長するとテリトリーをかけて争うのはいいとして、ですよ。あの三人がなんで死ぬことがあるんです。それも、あんな凶器の特定すら難しい、おかしな絞殺体にされて」

 ほんとそれ。だけど比企は狼狽えるでもなく、そうですね、と受けて立ち上がる。

「では行きましょうか。三人に何があったのか。彼らが何をして、ああいう結果に至ったのか」

 物怪顔で立ち上がり、佐藤さんは比企の後についていく。桜木さんも立ち上がりかけて、それから俺達に声をかけた。

「君たちはここで待っているといいよ」

 桜木さんが言い終わるより前に、もう俺は立ち上がっている。まさやんも源も忠広も、それから、足が痺れたとへこみながら結城も。都合が悪くなると比企や大人たちに丸投げなんて、そんな没義道もぎどうなことができるか。剣士トリオにとっては部の先輩ががっつり巻き込まれているし、俺と忠広だって仲間がつらいものを抱えて困難な道を行こうとしてるのに、それを他人事のように見ながらみかんとか食ってるなんてできない。

 俺たち五人は、いや七人は、いつだって共に危険も困難も乗り越えてきたのだから。

 バタバタと小走りに追いついた俺達を見た比企は、昏い目でひと言、着いてきたのかと漏らした。

「源君、結城君、肥後君、少しでも生理的に嫌悪や恐怖を感じたら、迷わず八木君と岡田君を連れて逃げてくれ」

「留守番してろとは言わないのかよ」

 まさやんの問いに、あっさりと探偵は答えたものだ。

「貴君らは言って聞くほど物分かりがよくはないだろう」

 だけど、その声と表情はどこか柔らかい。

 

 一つだけ懸念すべき点は、と町を貫く川沿いの道を歩きながら、比企が語り始めた。

「繭さんのヌシ化が始まっているのかどうか、だ」

 そこがどうなのかで、考えられる事態は様相を変える。

 繭のヌシ化が始まっているとしたら、町長と中学教師、大学から来ていた三枝教授の三人は、繭とみさきさんのどちらが手を下したのか。繭がまだミガワリサマのまま、人間の範疇にとどまっているのなら話は簡単なのだが、そうでなかったとしたら。

「だとしたら、理由はなんなんだろう」

 ああ、と桜木さんに答える比企の目は昏いままだ。

「何か見られては困るものを見られちゃたとか、そういうことなのかな」

「それとも、未知の生物だって捕まえて調べられそうになったとか」

「町長さんなんか、渡海船を町おこしの目玉にしたがってたくらいだ、そこにこんな見たことのない生き物があらわれたとなったら、そりゃ利用しようと思うだろう」

「先生とか学者さんだって、調査したい、くらいのことは考えるよな」

 桜木さんの推測に、源、まさやん、忠広が続く。確かにそんなことになれば、繭にしたってみさきさんにしたって、嬉しくはないだろうな。ましてや繭は歳よりも幼い心の持ち主だ、あんな繊細で無邪気な女の子がそんな目にあったら、恐怖でしかないだろう。

 川沿いの道を歩いて、港に差し掛かった。

 

 みさきさんの乗っている渡海船が収まる倉庫の扉は開いていた。

 比企は躊躇いもなく踏み込んで、ちょっとこちらを振り向いてひと言、扉口にいたほうがいいよとだけ言い置いた。

「では始めよう。おそらくこれが真相に近いところだろうと思うよ」

 全員が倉庫の入り口に固まって、比企の行動を見ている。

 いつも通りの足取りで、いつものように気の抜けた様子で、比企は腰の後ろに手をやった。いつものアーミーナイフを抜き放ち、軽く道路の段差でも飛び越すくらいのジャンプ。

 とん、と体重を全く感じさせない着地で、白いコートの裾を翻し、赤毛の探偵は渡海船の甲板に飛び乗った。

 何かが変わった、ような気がした。何だろう。別にいきなり薄暗くなったとか、異臭が漂い出したとか、そんなのは一切ない。だけど、何かが変わったのだ。

 比企はそのまま、当たり前に船室の扉に手をかけた。同時にそれが起こった。いきなり、何の前触れもモーションもなく。

 甲板の、船室の、扉や板目のあるかなしかの隙間から、いきなり白く透き通った何かが伸びる。何だろう。どこかで見たような見なかったような。

「ニョロニョロ? 」

 不意に結城が小さく漏らした。

「似てね? ムーミンに出てくるニョロニョロ」

「まあ白いしウネウネしてるけどさ」

 俺がいささか呆れ気味に相槌を打つのに、結城は更に小さな声で続けた。

「似てんだろー、密集してびっちり生えてるし」

「そりゃ似てるけどさ、でも見ろよあれ」

 源が小さく指差した。

「なんかニョロニョロってゆうか、イソギンチャクみたくね? モーションがさあ、全体的に」

「やめろよ結城、ムーミン見られなくなっちゃうじゃん、こえーだろ」

「おい待て、あれよく見ろ」

 びびる忠広、そこでまさやんが俺の脇腹を肘で軽く小突いた。

「あの先端のところ、俺の空目でなけりゃすげえキショいぞ」

 え、と揃って凝視する俺達こだま西イレギュラーズ。桜木さんが一呼吸早く気がついて、はっと息を呑んだ。

「腕だ」

 サラサラとさやさやと、かすかな潮の流れにたなびくイソギンチャクの触手を思わせる動き方だけど、ひょろひょろと長く、夏場の草原のように丈高く伸びているけれど、それはよくよく見れば、確かに先端には小さな小さな掌がついていた。関節のない、おそろしく長い腕たちは比企の足に腕に絡みつき、頬を撫で髪を探り、比企にまとわりつく。

 よくよく見ればその腕は、全部が女性の腕だった。男の無骨でいかつい腕ではなくて、しなやかで繊細な、すんなりと伸びた腕。それも、とても若い、変な言い方だけどどこか女の子の腕のような。

 ちょっとした閲覧注意な、どこかのブランチで写真を流したら即座に警告メールを喰らいそうな、そんな光景だけど当の本人は涼しい顔で、邪魔だと振り払うことすらせずに完全無視。厳重に、観音扉に上から二重三重に板を張り封をした、その一番上にぐいと手をかけた。微かに木材が軋む音がした、ような気がしたその瞬間。

 しなやかに、さやさやとなびいていた腕が、スルスルと首に巻き付いた。抱きしめるその動きは、巻き付いた側から比企の細い首の上でとろけて一つになる。一見とても緩慢に感じられるその動きは、実はふた呼吸ほどで起きていた。具体的にいうと、ファミレスで頼んだ、小洒落た盛りのアイスクリームを比企が駆逐するくらいのスピードだ。あいつはあの程度の盛り付けだったら、それこそ三口くらいで食ってしまう。

 こうして説明してると、俺がいかにも冷静にことの推移を観察しているように映るだろうけど、実際にはすげえ驚愕していた。具体的には、股間がヒュッてなっていた。あんな夏場の怪奇現象ものコンテンツでよく見る、海からびっしり生えて伸びる腕的なニョロニョロだけでもお腹いっぱいなのに、それが更に喉首締め上げてくるんですよ? 俺そんな死に方絶対やだ。九十九人の孫や曾孫に囲まれて大往生したい。

 だが比企は笑っていた。薄く笑みの形に口角を上げて、首に巻きつく白いニョロニョロの群体に手をかける。首とニョロニョロの隙間へ強引に指をねじ込んで、そのまま渾身の力を込めて、更に強引に引き伸ばした!

 ざわざわと苺色の髪が広がる。輪ゴムやグミのように引き伸ばされながら、それでも粘り腰で元通りに縮んで比企を締め上げようと抵抗するニョロニョロ。数分の勝負は、拍子抜けするほどあっさりと決した。

 ばつん、と固いものが引きちぎれる音がした。うねうね動いていたニョロニョロの全部が、びくんと痙攣して、それからシュルッと一斉に引っ込んだ。

 ちぎった腕を片手に、甲板からポイと飛び降りてきた比企は、やれやれとばかりにため息をついてから、黒チャイナの襟を指で軽く広げるように整えた。

「まあ、大方今見たような手口で被害者三名は死んだのでしょう」

 心底どうでもいいと言わんばかりの口調だが、瞳と唇の色が真っ赤に変わっている。純粋な腕力勝負は大して面白く思えないのだろうけど、気分的な面と別の問題として、それなりに本気を出さなければ力負けしていたということだろうか。

 俺らは全員が、まあこいつならこのくらいのことはするだろうと思っているので淡々としていたが、桜木さんはちょっとホッとしたように息をつき、佐藤さんは目を剥いていた。うん、仕方ない。比企のデタラメナイズな異能を初めて見たら驚くよね。

 女鬼島津は周囲をざっと見回して、倉庫の隅に転がっていた発泡スチロールのトロ箱とブルーシートの切れ端を拾い、引きちぎったニョロニョロの腕をいい加減にシートで包んで箱に放り込んだ。やっぱりその辺からロープの束を拾い上げて、蓋をしたトロ箱をグルングルンに縛り上げて、最後にコートの内懐からお札を出して貼り付け、更にその上に最後のロープを一周させて固く縛る。いかにも大急ぎでにわか仕立てに作ったとすぐわかるお札だった。だって、霊園のチラ裏に極太の赤いマジックで書いてるんだぜ。それでも、やっぱり書いてあるのはガチのお札感満載の、一番下に急々如律令ってあるあれだった。

 一応保存しておきますか、と赤毛の探偵は佐藤さんに声をかける。

「とは言っても、開封するのはおすすめできませんがね。強引に開けると瘴気に当てられますよ。開けてから何人が発狂せずにいられるか」

 さらっとおそろしいことを言うな。

 その辺に箱を転がしたまま、では行きましょうかと比企は倉庫を出た。え、いいの? あの箱どっかよそで厳重に保管したりしなくていいの?

「比企ちん箱あのまんまでいいの」

 結城が長身を縮こめて軽くビビりながら、もそもそと訊ねたのも当然だろう。が、赤毛の豪傑女は構わんよと即答した。

「あんなもの、盗み出したところで何もできんよ。強引に箱を開けたところで、中を見た瞬間にお頭の中身が空の彼方に吹っ飛んじまうだけだし、金になんてならないからね」

 いや、悪用されちゃったらどうすんのさ。

 外に出ると、繭が立っていた。

 目に涙をいっぱいに溜めて、どうして、と小さく言葉をこぼすと、火がついたように泣き出した。

「ひどいよおねえちゃん、繭、みさきちゃんのことはほうっておいてねって、ちゃんとおねがいしたのに! 繭のおじゃまはしないでねって、ちゃんとゆったのに! 」

「だが三人死んでいる。少なくとも、人間の社会では変死者が出たら、誰がなぜ、いかにしてやったのかを調べなくてはいけない。それはヒトの社会のルールなんだよ。繭さん、いや、ヨリマシサマ。あなたたちの間の掟と同じ、それは動かせないものなんだ」

 言って聞かせる、というより宣告するような比企の口調は、淡々としているようでいて、血反吐を吐くような苦渋に満ちていた。

「でも、にいちゃん、は、」

 しゃくりあげながら、それでも繭は続けた。

「にいちゃんは、もう、繭まもれない、のに」

「我々が守る」

 キッパリと答えた。

「たとえ何があろうと先輩は守る。何が来ようと、たとえあなたからでも守ってみせよう」

 比企の表情は冷徹で、その横顔は、とんでもなくハードな状況を切り開くときのものだった。高二の夏休み、高三の夏休み、大学に入ってすぐの初夏、状況が荒れるその瞬間の、厳しく引き締まった眼差しと同じだった。

 ちょっと待て。今こいつはなんて言った?

 ──「あなたからでも」? なんでそんな言葉が出る? 先輩を守ってくれと必死に頼んでいるのは繭だぞ。その、守ってくれと頼んでいる当人から守るって、矛盾してないか? 論理がおかしくないか? 

 俺の背筋を、ざわざわと何かが撫で上げた。強いていうなら、嫌な予感、だろうか。

 比企の言葉で嫌な予感に触れながら、それでも口に出してしまうことを躊躇う俺をよそに、結城が疑念をストレートに発した。まさに空気を読まない男。

「繭ちゃんからでも守るって、どういうことなん? 比企ちんなんかおかしくね? 」

 思わずうなずいちゃった俺。やっぱりおかしいだろ。だってアレよ。Aさんを襲うので自分からBさんを守ってくださいと頼まれるっていうね、いや頼んでないで襲うのやめればいいでしょ。としか言えない状況だよね?

 だけど比企は当たり前だと言わんばかりに即答した。

「ヨリマシサマの覚醒が起こったら繭さんはおそらく自我を失う。未来の自分がどんな他人よりも遠い存在になってしまうんだ。だから我々に後事を託すんだ」

 そんな。

「そんな、そんなことって」

「どうにかならねえのかよ」

 あまりのことに何をどう表現すればいいのかまとまらないのだろう忠広に、まさやんが続いた。

「どうにかできねえのかよ比企さん。いつもこういう、どうにもできなさそうな物事をさ、比企さんどうにかしてきたじゃねえかよ」

「そうだよ」

 まさやんの言葉に、源も口を開いた。

「比企さん一人になんでもおっかぶせたりしない、俺達だって一緒にやるぜ。七人揃えば怖いもんなしだ、そうだろ」

「源いいこと言った」

 結城がにぱっと笑ったが、比企の目は昏い。

「どうにかできたら、どんなによかったか」

 痛みを堪えるような声だった。

「私は過去二度、あれと対峙したことがある。結果はどうだったと思う」

「どうだったんだ」

 忠広が探るような表情で訊ねると、比企はチラリと背後の渡海船に視線を投げた。

「師父と小虎シャオフー、それから私。三人がかりでやっとどうにかできた、いや、師父に御来駕を願いどうにかしていただいたというのが本当のところだ。私は二度とも死にかけた。本当に、言葉通りの意味でだよ。九割がた死にかけて、魂呼ばいで呼び戻された。今生きているのは、ただサイコロの目が生きる方に出ただけのことだ」

 私がもっと何でもできればよかったのにな、と言って、比企は目の翳りを深くした。

 しばし俯いて考え込む男子六名、ポケットから飴ちゃんを出して繭にも分けてやる比企。そこで結城が再び口を開いた。

「比企ちん、その死にかけたときって魂を呼び戻されたの」

 そうだよと答える声は素っ気ないが、いつもより気持ち重たげだ。

「じゃあなんかあって繭ちゃんが変身したとして、魂呼び戻すってできないの」

 そこで比企が顔を上げた。完全に虚を突かれたという表情だった。

 そして待てよ、と呟き、やおらポケットからチョークを出して、コンクリの地面に何やら描き始める。ぶつぶつ呟き、ガリガリ描いて、比企の足元は謎の図形とキリル文字でいっぱいになった。なんかすげえ細かく巻いてる渦巻きがあったり、太短い筒状の両端が細かくボーボーに枝分かれしていたり、勾玉が組み合わさった陰陽マークがあったり、とにかく謎。何を書いてるのか、文字からして謎。

 立ち上がって自分が描いたものの全体を見渡して、それから赤毛の探偵は顔を上げた。

「どうにかなるかもしれない。ならないかもしれない。確率は半々だ」

 え。まじか。

「まじか」

「できるん」

「どのぐらい? 確率どんくらい? 」

 勢いづく源と忠広、結城。俺もおおっと思ったから気持ちはわかる。まさやんはじっと、比企が何を言うのかを窺っている。

 まずは、と比企は続けた。

「やるかやらないかで確率は半々」

 は? 何っじゃそら。当たり前だろ。

 何だよそれと忠広が異議を申し立てたが、そんなものだよと探偵は取り合わない。

「私に今わかるのはそこまでだ。実際にやったとして、そこで何が起きてどうなるのかは正直まったくわからない。ただベストを尽くすとしか言えない」

「わからないってそんな」

「そのくらい、全部が不確実なんだ。指一本の位置次第で何が起こるかわからない」

「そんなに難しいのか」

 結城に答える比企に俺が訊ねると、難しいよと奴はスパッと答えた。

「二度死に損なってわかった。何が起こるのかは全部がランダム、確率の向こう側だ。だから言えるのは、やれる限りのことはすると、それだけだ」

「できるんか比企さん」

「マ? 」

 食いつく俺と源に、落ち着けと比企はひと言、

「うまくいく保証があるわけじゃないぞ。ただ、できなくはないのじゃないかという可能性が見出せただけの話だ」

「でもさ、それだって大したもんなんだろ」

 結城のポジティブ発言出ました。でもほんとそう。八方塞がりの状況に、ちょっとでも可能性が見えただけでも、気持ちは変わってくるだろう。

「どんな風にするんだ。俺らもできることがあったら手伝うぜ」

 まさやんよく言った。俺も忠広も結城も、源も大きくうなずいた。

 桜木さんがそこで、いいかな、と小さく挙手。

「小梅ちゃん、こうなると、どうにかできる誰かがするのが一番いいとは思うけど、探偵としてでなく道士として関わるって、本当にできるのかい」

 そう、問題があるならそこだ。比企は李先生と親父さんに報告はしているが、李先生からのアクションはまだない。返事があったとして、最悪、放っておいて帰ってこいと言われてしまうことだってありうる。

「わからない。師父に報告はしたが、師命が下るかどうか。だが十中八九、師父はどうにかするようお命じになるはずだ。お山は紅塵の巷にああしたものがあって、それが騒ぎを起こすことを好まない」

 だから、と言って赤毛の探偵は、棒付きキャンディを舐めながら、まだ鼻をぐずぐず言わせている繭を見やった。

「元特務の犬としてなのか、道士としてなのかはともかく、関わることになったらすぐに動けるように、準備だけはしておくさ」

「伊織にいちゃんは? たすけてくれる? 」

 まだ不安そうな繭だが、自分がさっき比企の首を締め上げようとした、みさきさんだった何かと同じような何かに変貌するのだろう未来が見え始めているというのに、それでもなお宮本先輩の身を案じている。幼い心で、自分がどうなってしまうのかよりも誰かを思って後のことを頼もうなんて、それは、どんな心境なのだろう。 

 

「あのねえ、」

 落ち着いた頃を見計らって、俺は繭にそれとなく、今の心持ちを問うてみた。

 死ぬというのとは違うのだろうけれど、今の自分がいずれ消え失せてしまうのかもしれない、自分が今の自分とまるで違う何かに変貌してしまうのかもしれない、それは恐怖ではないのか。

 だが、繭は比企からもらった飴を舐めながら、ニコニコと道端の小さなスミレみたいな笑顔で、幼いなりの言葉で懸命に自分の感じていることを伝えてくれた。

「繭はねえ、じいじとか、じいちゃんとか、ばあばとか、みんなだいすきなのね。だからねえ、みんなをたすけてあげたいし、繭がなんにもわからなくなっちゃっても、ひどいことしたくないの。でも、なんにもわからなくなっちゃってたら、やっちゃうかもしれなくて、それはね、いまの繭にはわかんないし、どうにもできないの。だから、おねえちゃんにおねがいしようとおもったの」

「他の大人には頼まなかったの? お巡りさんとかさ、いるでしょ」

「うーんとね、みさきちゃんとたきさんはね、おねえちゃんとおにいちゃんたちがきたときからね、すごくざわざわしてるの。こわがってるの。だから、伊織にいちゃんをたすけられるのは、おねえちゃんなの」

 そこで、ちょっと向こうで自販機のお茶を物色している比企を見やってから、繭はぼんやりとあの寒天お化け、いうところの「たきさん」がいるあの崖の洞窟辺りに視線を投げた。

「もしも繭が、なんにもわからなくなっちゃったときに、みんなにひどいことしたらね、繭をやっつけてね」

 俺はどう答えるのが正解なんだ?

 あんまりにも繭が無邪気に笑ってそんなことを言うので、狼狽えて、お、おう、としか答えられなかった。

 どうして俺は、もっと気の利いたことを言ってやれないんだろう。自分がもどかしい。

 そこで比企と目が合った。

 探偵は鋭い目で、こっちをチラリと見遣って、それから何か話しかける結城とまさやんに答えるが、会話にあまり身が入っていない様子だった。

 桜木さんが繭を呼び、自販機でホットココアを買って飲ませてやるのと入れ違いに、比企がこちらへやってきて、連絡船の桟橋の縁に腰掛けている俺の脇に、よっこいしょういち、と腰を下ろす。

 ペットボトルの紅茶を啜り、蓋を閉めて、それから比企は横目で繭を見ながら小声で言った。

「なるほどな、こういうことだったか」

「何がさ」

 俺が訊ねるのに、いや、と苦笑して赤毛の探偵は答えた。

「先の計画に自分が死ぬことを織り込んだ子供ってのは、確かに見ていていいもんじゃないな。昔言われたことの意味がやっとわかったよ」

「そんなことしてたん比企さん」

「まあなあ。最悪の事態の更に斜め上を想定して、私がいなくなっても状況を掌握したまま、事態を収拾できるように計画を練らなくてはいけない立場にいたからな」

「それは比企さんがいう、現役の頃の話? 」

「ああ。散々考えて、市ヶ谷のコンピュータシステムにシミュレーションまでさせて、最適解だと思ったから立案したんだ。そうしたら、何度提出しても上に蹴られた」

「で、比企さんどうしたのさ」

「いいかげん腹が立ったのでな、書類上はいかにも通りそうなプランを提出して、あとは現場での緊急判断ということで」

 わかるだろう、と比企はそこでにやりとしやがった。

 こいつ、そんな自分の命を的にするようなことしてやがったのか。知り合ったのが比企の引退後でよかった。その当時に友人付き合いをしていたら、こいつが仕事で世界中を飛び回っている間中、これが会って顔を見られる最後なんじゃないのかと心配と不安しかなかっただろう。無理もねえよ。当時こいつの立案書を蹴飛ばした上司の人、英断。

 だが、と比企はポケットからよっちゃんイカを出して食いながら、こういうことだったんだな、とぼんやりした口調で漏らした。

「あの当時の親父殿やまりちゃんは、こんな気持ちだったのか。なるほどな」

「え、親父殿って、比企さんの上司ってあのお父さんだったのか」

「そうだよ。だが、実際に自分がそういうものを見ると、確かにいいものではないな。子供が、自分が死ぬことを受け入れてるってのは、見ていて胸糞悪いものだったんだな」 

 そう言って、比企はゴロンと後ろに寝転がって伸びをした。

「さて、三文道士のにわか仕立てがどこまで通用するものか。やれるだけのことは全部やるが、援軍が来るのかどうかだな」

「おい」

「安心したまえ。何があろうと貴君らと町の人達は安全圏まで逃すよ」

 

「ところで今の、まりちゃんって誰」

 気になって訊いた俺に、比企は寝転がったまま、親友だよと答えた。

「現役時代のね」

 

 俺達がこの小さな町にやってきて、何日経ったのか。計算しても十日近くは経っている。大学生の冬休みが長くてよかった、なんてのは心底どうでもいい話で、今は宮本先輩と源達剣道トリオの気持ちを思うと、どうにか一刻も早く解決しないものかと思う。いや、できないものかと思ってる、という方が正確だ。だから。

 比企がどんな計画を立て、何をしようとしているのか。うっすらと嫌な予感がしなくはないが、それに賭けるしかないのが現実だ。

「動くぞ、おそらくは今日明日にでも。そのくらい状況は不安定だ」

 何が起こるのか。どのくらい酷いことになるのか。皆目わからない。わからないから怖い。それでも。

 比企はきっと、どんな過酷なところに放り込まれたとしても、必ず俺達を助け出すのだ。それだけは動かない、確たる事実だ。

 こうなってしまえば、もう出たとこ勝負。あとは起こった出来事に立ち向かっていくだけだ。

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