第78話 五人とひとりと海から来たもの 14章

 水平線の向こうに太陽が沈みかけている。線香花火の最後の、橙色に輝く火の玉みたいな色の夕日が、周囲を茜色に染め上げながら、海面をキラキラ輝かせながら、ゆっくりゆっくり水平線に触れようと近づいている。青松寺の境内から見える海はきれいで、俺は今自分が置かれている状況がまだ、あんまり飲み込みきれていない。

 もう少し近くへ視線を転じると、小さな港町はひっそりと静まり返っていて、何だか嘘臭いくらいだ。

 昼下がりに降って沸いたような狂騒を経て、今、凪の浜の町にいるのは、比企と桜木さん、俺達こだま西イレギュラーズ、それから和尚さんと宮司さん、宮本のご隠居だけだ。

 この状況は、比企の創り出したものだ。おそらくは今日明日にも起こるであろう、ヨリマシサマと「たきさん」──あの寒天寄せみたいな御神体との戦いの、被害を最小限度に留めるために、限りなく人的被害をゼロ近似にするために。

 ──第二次大戦中に旧日本軍が秘匿していた弾薬が発見された。自衛隊の爆弾処理班が出動するが、数が多いので時間がかかる。万一の可能性もあるので、町民は全員、数日は避難が必要だ。

 町役場からの通達は、町内のあちこちに立っているスピーカーを使って出された。そこからはもう、けたたましく騒ぐおばちゃん達、オロオロする爺様連中、早々に授業を切り上げた学校から集団下校で各々の家へ戻る子供達、漁協から無線連絡が入ったらしく一斉に港へ戻る漁船、そして、家々から当座の手回り品や急拵えの旅支度をトランクや荷台に詰め込んで出てゆく自家用車や軽トラ。パニックというのを俺は初めて見た。

 映画の中くらいでしか見たことがないテンヤワンヤだというのに、比企は一顧だにせず、和尚さんから筆と硯を借りて、店主のみどりばあが避難するギリギリの瀬戸際で、みどりやであるだけの半紙を買い込み、あの蔵の中の書斎でいきなり作業を始めた。

 いつもより細かい書き込みのお札を、一枚書いては軸で上から書いてなぞって何やら口の中で呟き唱え、それをひたすら繰り返す。何度も何度も何度も。買った半紙を縦半分に切っていたのに足りなくて、しまいにはポケットからメモ用紙まで出していた。床一面に散らばるお札の渦を、あれほど食い気に支配された女が、朝から文字通りの飲まず食わずで押し広げていく。慌ただしく大量の紙を抱えて戻った比企は、ひたすら書いてはなぞり書いてはなぞり、終わる頃には空は黄昏て海がきれいな夕日の色に変わり、東の空が藍色になっていた。ただでさえ白い比企の顔色は、いつも以上に色がなくなって蝋燭のような白になり、額には脂汗が浮き心なしかやつれたように見える。実際、奴は疲労していた。微かながら肩で息をして、よろよろ立ち上がり、硯と筆をきれいに掃除して、玄関からの小上がりの座敷でコタツに当たっている和尚さんに、ありがとうございます、と丁寧にお礼を述べる。

「おかげさまでどうにか、道具は揃えられました」

 比企の様子にちょっと驚きながらも、お役に立ちましたかな、と道具を受け取り、何か食事でもと勧めた和尚さんだが、お構いなく、とやんわりとした笑みで比企は遠慮した。

「おそらくですが、そんな暇はないでしょうから」

 軽く腰掛けた赤毛のロシア娘はスッと立ち上がる。

「全員、日が沈んだら境内から出ないように。結界を張っておくから、境内から出なければ、外で何が起ころうと皆無事に助かる」

 よくわからんままに、はあ、とうなずく全員。だけど何この鳩尾あたりのザワザワ感。

 俺も何となく、ザワザワを腹に抱えながら立ち上がって追いかけた。桜木さんも俺と同じくらいのタイミングで来て、やや遅れてまさやん、結城、忠広と源。

 俺達が出逢って間もない高二の夏休み、あのときは李先生が寄越した折り紙の動物だったが、比企が結界の要にしたのはお札と宝石、それから、自分の血だった。指先を少しだけ傷つけて、お札の頭に一滴。それを境内の東南西北の四隅に埋めていく。最後のお札を埋めるポイントに向かっていたところで、思わぬことが起こった。バス停前に続く階段からひょっこり姿をあらわしたのは、

「みんなここにいたのか」

「先輩、え、なんでいるんすか! 」

「逃げろって言われたじゃないすか! 」

 向かいの定食屋で買い込んだと思しき、惣菜パンやスナック菓子、ペットボトルの大瓶が何本も入った袋を六つも下げて、あの長い階段をえっちらおっちら登ってきたようで、どうにか最後の一段を這い上がった宮本先輩は、真冬の夕方には似つかわしくない大汗をかきながら、ヒイヒイぜいぜいと荒い息をついてへたり込んだ。

「曾祖父さんと住吉の爺さんもいるんだろ。親父とお袋も一緒に避難しろとは言ったけど、曾祖父さんが心配だって強引に振り切ってきたんだ」

 やや呼吸が落ち着いたところで、ヨイショと立ち上がって袋をさげて玄関の方へ行きかけた先輩だが、お前ら何してるんだとそのまま着いてきた。

 じろりと先輩の顔を見て、何か言いたいことが山のようにあるのだろうけど、比企は黙って最後のポイントへ向かう。

 境内の隅の、柵も植え込みもないまま周囲の森につながる辺りで、比企はしゃがみ込んでアーミーナイフで穴を掘る。十センチくらいの深さの、苗木でも植えるような穴に、お札にちょっと血をつけてからふっと息を吹きかけ、指先くらいの黒い宝石をおひねりのように包んでから穴に落として、丁寧に埋め戻す。

 立ち上がると、探偵は厳しい表情で先輩を見据えて訊ねた。

「なぜ避難しなかったんですか」

「できるわけないだろ」

「繭さんの言葉を無にするおつもりですか」

「それは、」

「繭さんは先輩を守ってくれと言っていた。私はそれに応えようと、あらゆる手を尽くし横車を押し通してこの状況を作り出しました。気に食わん昔馴染みに交渉し、持っているコネを総動員した結果を、先輩は台無しにされるのですか」

「いや、」

「繭さんが逃げてくれと言ったのは、あなたにこれからこの町で起こる事態を見せたくなかったからだ。巻き込まれて怪我をしたり死んだりするのが嫌だったからだ」

「でも」

「先輩は幼い女の子の必死の願いを無にされるのか。でもでもだってではありません」

「俺は、」

 どこまでも冷徹に果断に問う比企は容赦がない。

「ここに居残る以上、先輩は見たくないものを見て、知りたくないことを知らされるでしょう。そして、それに耐えなくてはならない。覚悟はおありですか。いや、今となってはもう、帰れと言ったところで手遅れだ。無理だできない、こんなはずではなかったと仰ったところで、それでも耐えていただく他ないが、よろしいか」

 仕方ない、と心底忌々しそうにため息をついて、それから比企は俺たちの顔を見て、甚だ不本意だがそういうことだと言った。

「すまない戦友諸君。先輩のフォローを頼む。万一私が斃れたら、東に向かって師父を呼ぶんだ」

「おうよ」

「まかせろ! 」

「なんだかんだいつものパターンになってるよな」

「まあほら俺ら慣れてるから」

「経験値の蓄積を見せてやるぜ」

 まさやんが、源が忠広が答え、俺は笑ってうなずき、結城がドヤ顔でかっこつけた。

「まったく、すっかり頼もしくなってしまったな貴君らは。──シン、」

「うん」

「戦友諸君と先輩を頼んだ。後ろは任せる」

 

 西の空が真っ赤に燃え上がる。熟し切った柿みたいな夕日の、最後のひとかけが水平線にじわじわととろけるように吸い込まれていくと、夕暮れの名残が少しずつ夜の藍色に変わっていった。空には星がぶちまけられて、天の川がよく見える。

 あんなささやかな田舎町でも、やっぱりそれなりに人の営みが生む灯りはあった。ゆうべまであったそれは、天の川の真下にパラパラと星がこぼれ落ちたようにも見えたものだが、今はただ、わずかに道路を照らす街灯があるのみで、眠っているというより、俺には何だか町そのものが死んでしまったように見えた。

 たぶん、全員が避難してほぼ空っぽになった時点で一度死んでしまったのだろう。住民が戻ればまた息を吹き返すのだろうけれど、そのとき、凪の浜の町はきっと、前とは違う何かになっているのかもしれない。

「では行ってくるよ」

 あの大量のお札をコートの内側に収めて、何の気負いもなく比企は町へ降りていった。

「比企さん、何かあったらちゃんと通信で報告しろよな」

 忠広が自分の耳の後ろをトントンと指先で示して釘を刺す。

 俺たち七人全員が、いつぞやの骨伝導通信端末を、耳の後ろに貼り付けていた。ぎゅっと押さえるように固定すると通話スイッチが入りっぱなしになる。両手が空いた状態で、常時会話が可能になる寸法だ。

 玄関先で見送る俺達に軽く手を振って、白いコートを翻し、赤毛の探偵が出てゆくのと入れ違いに、今度は李先生が唐突にあらわれた。いつもみたいなシャツに白衣の診療スタイルでなく、比企のそれと同じような道服の着流し姿だ。

「坊主ども、梅児メイアルはまだいるか」

「どこから来たんすか」

「驚いた」

「道路からくる階段と逆側から来ませんでしたか」

 源と結城と忠広がギョッとするが、先生はまあそこはそれ、と笑って、どうももう出たみたいだなと察したようだ。

「あとは頃合いを見て、頼まれた通りにいけばいいか。ふん」

 それから、まったくあの子は相変わらずだなと肩を揉みながら、腰に下げた瓢箪を撫でた。

「何を頼まれたんすか」

 気になって質問すると、先生はん、と顔をあげて俺に答えてくれた。

「子供のな、魂魄を回収してほしいのだそうだ。放っておけばまず死ぬだろうが、昔の自分を見てるようで気が咎めるとな」

 桜木さんが何かを堪えるような目になって、俺はすぐに気がついた。繭のことだ。

「あの子の口からそんな殊勝な言葉が出てみろ、頼みを聞いてやらないわけに行かんだろう」

「李先生、なんだかんだ甘いっすね」

 結城がのほほんと言うと、先生はそりゃあだってなあ、と苦笑した。

「梅児は聞き分けがいいんだが、とにかく手がかかるんだ」

 わかるような気がする。

 まあよかろう、と言って、先生は町に降りていった。

 先生が来たと知ると、比企はこれでどうにかいけそうだと、ほっとしたように声を和らげた。

「懸念の片方がこれで解決した。あとはタイミングが全てと言っていいだろう」

「そうなんか」

「先生はなんか比企ちんの計画、全部心得てるみたいだけど」

 蔵の書斎にたまるのは、桜木警視とこだま西イレギュラーズのみ。先輩はご隠居や和尚さん宮司さんと、玄関先の座敷にいるので、ここで俺らの話に加わることも、内容を知ることもない。ので、堂々と相槌を打つ俺、相変わらずののほほん結城。

「で、比企さん何をやるつもりなんだ」

 まさやんがジャンプを源に回しながら訊ねると、ああ、と比企は今回の計画を超ザックリ説明し始めた。

「まず、みさきさんが船から出てくるのを待つ。こちらはそう時間はかからんだろう。船の板目の隙間からでさえ、あれだけのことをできているんだ。あの中に収まるにはとうに限界がきている。そこに町長の要らぬちょっかいと、私との小競り合いときたもんだ」

「刺激されちゃったってことか」

 源に御明察ヴォワラ、と比企が答える。

「そこに、町中の人間がほぼ消え急激な変化が起きて、しかも私という脅威はなお去らずに残っている。まずは脅威を取り除こうとみさきさんが動く。たきさんもご同様だ」

「脅威を除いたとして、その次に何をするつもりでいるんだ」

 忠広がみかんを剥きながら、何がしたいんだろうなと首を傾げた。

「さあな。ただ、ある種の生物は自身の親の周囲では育つことができない。砂漠の植物には、風で親株から遠く隔たった子株だけが育つことができるものがあるが、この場合は、そうだな、親株を殺しなり変わるか、子株を殺し存在し続けるか、どちらかなのだろう」

「それが、これまでのミガワリサマとヨリマシサマってことか」

「その全部がたきさんに負けた」

 まさやんと源が考え込む。

 そこで桜木さんがちょっと待ってよと声を上げた。

「今回はもしかして、すごくイレギュラーな事態なんじゃないのかな。たきさんと対決する子孫というか分身というか、それが、本来なら繭ちゃんだけだったはずなのに、みさきさんが戻ってきてるんだよ。三つ巴になるにしても、二対一になるにしても、これまで通りというわけにはいかないんじゃないの」

 そうだなと答える探偵。

「単純に考えても、これまで人目にはつかないところで繰り広げられていたはずのたきさんとヨリマシサマの戦いは、今度は目に見えるところで起こるだろう。親株があっさり磨り潰せる程度の子と違って、それなりに年経て戻ってきた逞しい子株がみさきさんだ。どうしたって、諍いは激しくなるだろうさ」

 つまり。

「つまりさ、」

 朝のうちに買い込んでおいたお菓子や飲み物の袋から、大袋のポテチを出してパーティ空けして、全員で円座に座った真ん中に出しながら俺は整理した。

「今までは一対一のタイマン勝負をこっそりやってたのが、今度は乱入上等のバトルロイヤルを、東京駅前でやってるような感じ? 」

「まあそういうことだ」

「ひでえな」

「うん、ひでえや」

 肯定する比企に、まさやんと忠広がげっそりした。

「この町で一番人目につかない場所というとどこだ」

「さあ、せいぜい畑の裏の森とか山の中とか」

「どこ歩いたってジジババが散歩したりしてるもんな」

「なんか洞窟とかいわくありげな空き家とかがあるならともかく」

 比企の言葉に俺と忠広が顔を見合わせ、結城がふにゃりと笑いながら言った、そこで。

「まさか」

 源が漏らした。

「あの寒天のいた洞窟」

 全員の顔が凍った。

「そういうことだ」

 小憎らしいくらい冷静な探偵。この野郎!

 だが、あそこでひっそりと誰も知らないまま始まって終わっていたこれまでのヨリマシサマの戦いだけど、ちょっと待て。みさきさんは戦う前に死んでしまって、渡海船で流されたということなのだろうか。

 俺の疑問に答えるように、比企は素知らぬ様子で続けた。

「実際に何があったのかは刻の彼方、当時の一族でもなければわからないだろうが、いくらでも想像はできる。ともかくだ」

 桜木さんがポットから急須にお湯を注ぎながら、悩ましい表情になっている。

 ──みさきさんはもしかして、生きながらそのまま。

「なあ比企さん、みさきさんはもしかして、」

 俺が言いかけたのを遮るように、比企はともかくだ、と繰り返した。

「当時の家族が怖れをなすほどの怪物性を持ちながら、みさきさんはたきさんと遭遇し生存圏を争うことなく船出してしまった。それが戻ってきた上、今まさに繭さんがヨリマシサマとして覚醒しようとしている。何がいつ起こってもおかしくない」

 ミガワリサマとヨリマシサマがどんなものなのかを知っているはずの家族さえ恐怖を感じた、みさきさんの変容。恐怖ゆえに遠ざけようとしたほどのそれがもたらす力が、まともにたきさんと遭遇し衝突していたら。あそこにいたのはみさきさんだったのかもしれない。

 だけど、それは現実には起こらなかった。その結果に至るまでに何があったのか、俺の言葉を遮ったということは、きっと比企も同じようなところに考えが至ったのだろうか。

 仲間達の顔を何となく見遣ると、まさやんと忠広がまずいものでも食ってしまったような、渋い顔をしていた。忠広が俺に顔を寄せて、おい、と耳打ちしてくる。

「もしかしてあの船って」

「言うな。比企さんが俺にみなまで言わせなかったんだぜ」

「ってことはやっぱり」

「だろうなと思うが、まあ、今となっちゃなあ」

 ボソボソ囁きあうところに、桜木さんからお茶が回ってきた。うっす、あざっす、と受け取って、隣の源にも回し、新しいのをまた受け取る。全員が何となくお茶を啜って、そのあったかさにほっと息をついた。

 しばらくは無言。たまに誰かがお菓子を摘んで小さく「うめぇ」とか、俺ションベン、と宣言してトイレに立ったりとか、その程度の静かな時間だけど、その一番底には息苦しいほどの緊張が薄くわだかまっていた。

 青松寺の境内を結界で覆った比企を見送ったのが夕方の日没くらい、大体五時半前だろうか。それからもう何時間経ったのだろう。

「今何時? 」

 俺の言葉に結城が相槌を打つ。

「そーね大体ね」

「やめれやめれ」

「七時、七時、五十二分」

「源きかんしゃトーマスかよ」

 忠広が突っ込み源が腕時計を見た。もう二時間は経ってるのか。そういえば比企は、朝から何も食わないまま出て行ったが、今どうしてるんだ。

「比企さん飯食ってるか」

 まさやんが備蓄食料からカップ麺を出した。そろそろ俺達も何か食っておかないと。みんなでワイワイと、自分が買ってきたカップ麺を出しては箸を回し、和尚さんに借りている電気ケトルに水を汲んで、ゴミ分別用にレジ袋の中身を振り分けて空のものを二つ用意し、と手分けして食事の支度を始めた。比企は本当にどうしてるんだ。もうラーメン屋も定食屋もとっくに避難してるし、自販機で買えるのなんてお茶くらいだ。

 心配ないよと奴はあっさり答えた。

「こちらはどうにかやっている」

「でも今日ほとんど食ってないじゃん」

 俺の言葉に全員がうなずくが、比企はしれっと慣れていると答える。

「飢餓訓練では一週間、飲まず食わずで過ごすんだ」

「ちゃんと食って! 」

「水のめって! 」

 悲鳴をあげる結城と忠広の気持ちはよくわかる。うん、何か腹に入れときなさいよ。もう。

 そこで源が、そういえば、とふと切り出した。

「比企さん、どうやってバトルロイヤルに乗り込んでいくつもりなのさ」

 言われてみれば。ほんとこいつ、どうするつもりなんだ。だけどこれまたあっさりと、不敵に言い抜けやがった。

「状況が激しく動いて緊張が最大限に高まったところを見計らって、横合いから思い切り殴る」

「殴るってどうやって」

「発想が暴力一択って」

「少なくともあの寒天の山は、殴るとかいう次元じゃねえだろ」

「まじでムチャクチャ言うなこの人」

「すぐチェストに頼る癖直そ? 」

 俺達こだま西イレギュラーズの総ツッコミに、まあ見ていたまえ、と赤毛の探偵は余裕だ。

 何か手があるのか、と俺が訊きかけたそのとき。

「あ、」

 小さく比企が声を上げた。

「始まった」

 それから、遠くのどこかでどーん、と大きくて固いものが崩れる音がふたつ。

「全員、境内から出るなよ。そこがDMZだ、中にいれば無事に終わる」

 おうよ、と答えながら、六人全員でばたばたと玄関で靴をはき、慌てて境内の一角、町を一望できる場所に向かった。

 俺は、見た。

 あの寒天オバケ──「たきさん」がいた岩穴があった辺りの崖がドシャメシャに崩れていた。それから、港に面した漁船の倉庫の一角が、グッシャグシャになっていた。

 遠浅の海に。倉庫の残骸の中心に。燦々と光を放ちながら、そいつらが立っている。

 残骸の中にいるのは、京都で見た仏像達によく似ていた。しなやかであまりメリハリのない肢体に、薄衣がまといつき裾がふわふわとなびいている。背中に光背、ゆるやかに結い上げた髪には冠。いく筋も宝玉の飾りが下がっていて、僅かな動きで触れ合い、しゃらしゃらと音を立てた。微笑みになる寸前の表情も、やっぱりどこか仏像を思わせるものだった。

 一方、海に立っているものの姿は、実際のかたちと印象がおよそ真逆のもので、これを俺はどう捉えて自分の中で把握して分類すればいいのか、戸惑いしかなかった。

 まず、フォルムは丸い、ように見えるが、なんか表面はザワザワしている。ザワザワうごうご、いや、うーん、こう、何だろう、ぞわあああ、っていうか、とにかく、凝視すると不快、を通り越して生理的にキモチ悪くて怖い。コワイ。

 色は、残骸の中の仏像チックなやつと同じような半透明の白なんだけど、ぽわあっと淡く発光してるのも同じなんだけど、どっちかっていうとこの海にいるやつの方が光は強くて、うっすらと虹色がかっている。よくよく見れば、その表面のザワザワは全部が、人間の腕と足だった。全部揃ったように、女の子の腕と足だった。数えきれない腕と足が、ウジャウジャとびっしりと。生えているそれはところどころでランダムに固まってより合わさり、言い方は変だけど、翼のように見えた。こう森みたいな爬虫類系でない、鳥みたいな翼だ。そして、何より気味が悪いのは、結構遠くにあるはずのそれが、すぐ目の前にあるものみたいにしっかりと見えることだった。イメージとしては、カメラの望遠レンズ。端末のカメラで何か撮って、指でピンチして部分を拡大するような、そんな感じで見えてしまうのだ。

 なんて言うのが正確なんだろう? その、手足がみっしりと覆っているのは表面の、風船みたいな外皮状の何かで、その中心には、虹色の光を放つものがあった。

 輪郭は、眩しいのもあるがぼやけて見える。それは、幾重にも重なり合う女性、それも少女達の体だった。首から下だけの、ぼんやりした体たちが半透明のレイヤーを何枚も積み上げたように重なり合う。それだけでもうすでに結構なR指定がGの字付きで入りそうだったけど、おい、と源が俺の脇腹を肘で軽く小突いた。

「なあ俺、やーなことに気がついちゃったかも」

「言わんといて言わんといて」

「もー、やめてよ男子ー」

 ぶんぶん首を振って嫌がる忠広と結城。もうアホなことでも言い合ってないとやってられない。だけど源は、心なし顔を引き攣らせながら弱々しい笑みで、チワワくらい震えながら首なし少女の群体を指差した。

「あの、胸の前に、手が」

「いやああああああああ」

「言うなって言ったじゃん! 」

 泣きが入る二人と、まじか、とうめくまさやん。俺も、指さされて気がついた。そしてバッチリ見てしまった。見なきゃよかった。気づかないままでいたかった。

 源が言っている、胸の前の手は、ふわりと何かを抱えるように持ち上げていた。小さめのビーチボールとかサッカーボールとか鉢植えとか、そのくらいのサイズのもの、なんだけど、持っているのはよくよく、というほど凝視しなくてもすぐに見えてしまった。

 頭だ。

 長い黒髪がツヤツヤときれいで、シャンプーのCMにだって出られるくらい長くてきれいで、白い肌、なめらかな頬、長いまつ毛にほんのり笑みを含んだ薔薇色の唇の、女の子の首だった。それだけならどうにか耐えられなくはないけど、何より俺たちの背筋を凍らせ鳥肌を立たせたのは、首が胴から離れているのにも関わらず、首も体もきっちり生きてピンピンしているのが、どうしてだかわかってしまうことだった。やめて。もうやめて。

「やだもおおおおおおおおお」

 頭を抱えてのけぞる結城。

「比企さん、あんなもんどうするつもりなんだ」

 まさやんが眉間に皺寄せて考え込み、源と忠広は肩を寄せ合いプルプルしている。桜木さんも呆気に取られて、ただ息を呑みじっと、町に突然あらわれた異形の何かを見ているばかりだった。

「比企さん、横合いから殴りつけるって、あんなのどうやって介入するのさ」

 思わず小さくこぼす俺の耳に、ザリザリと砂が噛むようなノイズ混じりの探偵の声が届く。

「今はどんな状況だ」

「え」

 当然、通信端末で全員リンクしているから、みんながえ、と顔を見合わせて、ちょっと待てと我に返った。

「比企ちん町にいるんじゃないの」

「見てないん」

「ちょっと待って小梅ちゃん、今どこにいるの」

「いるにはいるんだが」

 返事は砂嵐が強くなり、ざらざらとノイズが濃くなっている。ほんとどこにいるんだ?

 そこで再びの衝撃音が轟いた。

 腹の底に響く、でっかいものがぶつかり合う轟音。

 目の前の町では、遠浅の海から出てきた風船お化けが、仏像もどきの邪神像みたいなやつに激突していた。

 正面からまともに衝突した刹那、響き渡ったのは、凄まじい地響きと周囲の建物や波止場が壊れる衝撃音、と同時に、甲高い女性の悲鳴のような咆哮、としかいえない音。恐怖とも歓喜ともつかない、ただただ純粋に悲鳴。

 俺達は咄嗟に耳を塞いだ。鼓膜が破れるかと思うくらいの、なんかやばい周波数なのだろうか、とにかく頭の芯にガツンとくる、いやーな音だった。ガラスや黒板を爪で思い切り引っ掻いたような。

「わーもうなんだよこれー! 」

 悲鳴をあげて文句を言う程度で逃げ出さない俺を褒めてほしい。

「比企さん何してんだよー! 」

「何がどうなってんだよまじでさあ! 」

 忠広とまさやんが町を見下ろして耳を塞ぎながら俺に続いてぼやく。

 港では怪生物としかもう表現できない二大怪獣対決が始まっていた。首なし少女のバリアから腕が伸びて邪神像を摑んだと思えば、邪神像の光背から放射状についている棒が伸びてグサグサとバリアに刺さり、互いに赤みが強いのと青が強いのと、微妙な差分の虹色の光の帯が伸びては相手に絡まり締め上げ、その闘争に文字通り巻き込まれて、街は海岸に近いところからじわじわと擦り潰され始めていた。

 砂嵐のノイズはまだ続いている。

 その、町の中ほど、神社の前辺りにぽっちりと小さな光が灯った。細く細く、糸一筋がピンと張られたように天へと伸びていく。

 あれは。もしかして、あれは。

「…繭ちゃん? 」

 桜木さんが小さく呟く。ということは。

「港に出た仏像みたいなのが、」

「みさきさんってことか? 」

「じゃああのやばいバリアみたいなの張ってるやつが」

「この前の寒天? 」

「あれが真の姿ってこと? 」

 そんなやりとりで検証している間にも、町は粉々、邪神像は薄衣や光背はボロボロ、首なし少女はバリアがなくなり本体らしき少女達が丸出しになった。同時に細い光の糸は、細いながら輝きを強くしていく。

 邪神像と首なし少女群体が、ゾワゾワと組み合うように溶け合いながら、互いに取り込もうと、相手を包み込もうと絡まり始めた。そのまま混ざり合いながら、光の糸ににじり寄っていく。にじり寄りながら、じわじわと決着がつきつつあって、みさきさんと思しき邪神像は少しずつ、首なし少女を吸収するより相手に取り込まれるスピードの方が速くなっていた。

 首なし少女が邪神に重なり合う。半透明の少女をまとわりつかせながら、仏像のような天人のような、神々しさと忌まわしさを併せ持った異形のものは、苦しげに身悶えし始めた。やがて、それも微かに痙攣する程度になり、それもぱったり途絶える。少女は美しい首を捧げるように持ったまま、今度は光の糸にスッと近寄った。

 光の糸がぽっ、と丸い球状に変わり、すぐに消えて、ぽわあっと淡く白く、真珠質の光を放つキューブがあらわれた。

 キューブはすばしこく逃げるが、少女の群体はレイヤーの腕を何本となく伸ばし、白い腕がしなやかに追っていく。

 そこで不意に、砂嵐の合間から声が響いた。

「待たせたな。こちらの支度は整った」

 比企だ。こいつ、どこで何してたんだ。

「比企さん何してたんだよ」

 やや非難がましくなったのは認めるが、奴は俺の気持ちなど頓着しない。

「みんな、境内に揃っているな。もう少ししたら仕掛ける。範囲攻撃だからな、そこで動かずにいたまえよ」

「え」

「嫌な予感しかしねえ」

 しれっととんでもない宣言をするなよ。桜木さんが硬直して、まさやんがぼそっと言った。

 町の真上の空に、いきなりキラキラと輝く何かが、何十何百とあらわれる。

 俺は、自分の目に今何が映っているのか、理解が追いつかなくて、ただただ息を呑んで驚くばかりだった。

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