第75話 五人とひとりと海からきたもの 11章
一瞬の驚きから立ち直った比企が、茫然自失の俺達の前にスッと移動した。
「みんな、静かに今来た道を戻ってくれ」
「え」
「あれに対して、準備もなく打てる手は大してない。一番の有効手段は一つだけ。尻に帆かけて逃げ出すことだ」
早くしろと、いつになく緊迫した調子で強く促す。
待てよと異議を唱えるまさやんと忠広。
「そんなら比企さんも一緒に戻らないとダメだろ」
「俺らが置き去りなんてひでえことするわけねえだろ」
二人に続いて、結城が源が声を上げる。
「まさやんよく言った」
「俺も忠広とまさやんの意見に賛成」
「引き揚げるなら全員でだ」
俺も断言した。桜木さんがうなずいて、僕が君を一人で残らせると思ってるの、とダメ押しする。
「彼らを逃すのは僕も賛成だ。でもそれは、君一人で残れってことじゃない。選択肢は二つ。彼らだけ逃すか、全員で立ち去るかだ」
比企の赤い瞳が、じっと桜木さんを見据えた。厳しい表情で、たぶんいろんなことを同時に考えているのだろう。でも、それは一呼吸の間で、すぐに比企は情けない顔でガクッとため息をつきうなだれた。
あんたはこういうときには絶対に引かないからな、とぼやいてから、赤毛の探偵は顔を上げて、行くぞとひと言、目線で今来た道を示す。
「
「本当だろうね」
「最前線で相棒に嘘をついてどうする」
「信じるからね! 」
そこで桜木さんが、俺達を背中で庇いながらジリジリと後退を始めた。
比企がでっかい、体積で言うなら六畳間くらいの空間をちょうど埋めるであろう、こんにゃくとかゼリー寄せとかを思わせる、それでも腰が抜けそうなほどおそろしい何かを発散する小山に向かって、一歩前に進み出る。
「ようデカブツ」
声をかけて、そして。
白いコートの裾から袖口から、ザバザバと流れ出て滝のように落ちて溢れるお札!
すぐにコートはお札に埋もれ、視界いっぱいにお札の山が溢れ返り、ぽっかりと広がった岩室は、黄色いお札でいっぱいになった。
「行くぞ。早く出るんだ」
「ウォウ! いつの間に! 」
俺の隣に比企が並んでいた。
「とりあえず奴の視界は塞いだが、あんな小手先の手品、そう時間は稼げないぞ。早く脱出しないと」
行きには様子を窺いながらゆっくりと歩いた道を、今度は全力ダッシュで駆け抜ける。比企は走りながら、肩越しにお札を放り投げては追撃を警戒し、宣言通り一番後ろを堅持した。
あの、洞窟の入り口の小さな砂浜は、すっかり潮位が上がっていた。ここまで乗り付けてきたボートは波に船底を洗われて、ちょっと漕ぎ出せばすぐ海に出られそうだ。俺達全員が乗り込んで、桜木さんが比企を待つ。全員がボートに乗り込むのを確認しながら、洞窟の奥を警戒しながら、比企がお札と木の短剣を懐から出した。バッとお札を放り投げ、短剣の
「
掛け声でお札が炎に変わった。洞窟の奥に向かって伸びていく。おお、火炎放射。比企はくるりと踵を返してボートに駆け寄り、エンジン! と叫ぶ。桜木さんが意を汲んで、船底の竿で漕ぎ出し、ボートのエンジンをかけた。
比企の後ろから伸びるあれは。
葛餅みたいな透き通った、プルンプルンしたあれは、さっき見た恐怖のゼリー!
「出してくれ、早く! 」
比企が鋭く叫び、桜木さんが竿で更にぐいと砂を突いて海へ漕ぎ出す。モーターはもう回ってるから、ボートは勢いよく水を駆けた。
比企が砂を蹴って跳ぶ。
かつて源義経は、平氏との最後の合戦、壇ノ浦で密集する船を飛び移り戦ったという。比企の跳躍は、歴史の授業でチラリとでた、そんな逸話を思い出させた。
ポールもなし、助走もなし、おまけに足場は砂地。こんな条件で走り高跳びや幅跳びをしろと言われたら、どんなアスリートだって拒否するだろう。それなのに。
比企はあっさりとボートに飛び乗った。
これこそが、比企が自分を「化け物だよ」と言って憚らない理由。常人離れした、というより、人間離れした身体能力。およそ人間には、こんな跳躍はできない。どんなに鍛えたって無理だ。
だけど、こいつは自分の持って生まれた異能を、徹底して自分より弱い誰かのために使う。今虐げられている誰かのために。
怪物じみた体に収まっているのは、良識とか希望とかを大事に思う人間の心。それが俺達の仲間、比企小梅という女だった。
ボートはかろうじて口を開いていた洞窟の天井近くを、ギリギリで滑り出た。時間経過により潮位が変わって、水面が上がったのだ。
水平線がうっすらと明るくなっていて、やがて洞窟はすっかり海の中へ沈み、のぼる朝日に水面がキラキラと光った。
「戦友諸君、相棒、怪我はないか」
「ないよ」
「お陰さんで」
「同じくー」
桜木さんと俺、結城が答えて、まさやんと源、忠広もサムズアップで応じる。比企はそれでやっと安心したのだろうか、ぐらりと倒れ込むように船底に崩れた。桜木さんが膝を貸して寝かせてやる。
「疲れた。腹が減った」
その言葉の通り、盛大に鳴り響く腹の音。
「聞いていたのか」
啜り込んで口いっぱいにしたラーメンを飲み込んでから、比企は思い切り顔をしかめた。
あの葛餅みたいな小山を前にしたあのとき、比企が漏らした言葉を聞いていたのは、俺だけではなかった。
「あのさ比企ちん」
合板のテーブルについて七人でラーメンを啜りながら、不意に結城が訊ねたものだ。
「ヒッカモアってなに」
今日の日替わり学食のメニューを訊ねるような調子で切り出す結城に、比企は思い切り顔をしかめ、それから俺達の顔をじっと見て、桜木さんの顔をしげしげと見た。
「比企さん、今どうにか誤魔化せないかと思っただろ」
源が言い当てて、忠広が俺も聞いちゃったんだよな、とあとに続く。
「俺も聞いた。ヤギはどうよ」
まさやんが俺に水を向け、俺も聞いたよとうなずいた。
「あんまりこういうところではしたくない話かな」
桜木さんが取りなして、まずは飯に集中しようと、しばし全員がラーメンを啜る。
ひと頻りラーメンを食い、替え玉とおかわりで比企の腹が膨れるのを待って、砂浜に河岸を変えた。
「比企ちん、隠し事っていくないと思うの」
結城に再び問いただされて、比企はどうにかインチキできんのか、としわい顔をしてから、観念してついに口を割った。
さて、何から話したものかな、とため息をつき、ラーメン屋の脇の自販機で買ったホットの紅茶を啜りながら、朝の海を眺めつつ、訥々と話し始める。
戦友諸君はヌシというものを知っているか、と比企は話し始めた。
「日本では民話や伝承でよく語られるだろう。山や海にいる、あれだよ。ああいうものは、形は変われど世界中でまま語られている。数は少ないけどね」
そういうヌシの正体を一つ一つ検証すると、ほとんどは動物だったり、中には人間だったり、まあそれがどんなものであれ、いずれ正体はわかるものだったのだけど。
中には、どうしてもそれがつかめないものが出てきた。
「これまで発見されたのは片手で数えられる程度ではあるけれど、遭遇するとまず間違いなく、甚大な被害が発生する。町一つすり潰されたり、地形が変わるほどの災害が発生したり」
「まじか」
「でもそんな事件、ニュースとかになってるんじゃないのか」
おののく結城、冷静に突っ込むまさやんだけど、報道はされないよと比企はあっさり否定する。
「そういうものは全力で揉み消される。どんな国であれ、あれは誰もが欲しがるんだ。そういう大惨事は、あれを手に入れようとして失敗した結果だ。情報をオープンになんてしたら、あるとわかっているのに目の前で他の勢力に奪われるだろう」
「なんであんな寒天みたいなもんが欲しいんだよ、そこまでして」
忠広がわっかんねえな、と首を傾げた。
比企がその様子を見て、きっと岡田君も欲しいと思うだろう、と応じる。
「あれは、目の前に立つ者の願いを片っ端から見境なく叶えていくんだ。メカニズムも原理もわからない。とにかく因果関係も物理法則もねじ曲げて、目についたものから現実のものにしていく。差別も区別も節操もなく平等に」
「なんだよそれ」
俺が思わず漏らすと、とにかくわからないことだらけなんだ、と比企は紅茶を啜った。
「いや、もっと正確にいうなら、わからないということしかわからない。
だから決して表沙汰には語れない。みんなが存在を知るようになれば、我も我もと願いを叶えようとする人間が入れ替わり立ち替わり押しかけ、世界が混乱するだろうから。
だって、率先して願いを叶えたがる人間が何をしようとするのかなんて、わかったもんじゃない。平和を願った王様や政治家が何をしたのか、歴史という書物には数えきれないほど書き込まれている。
世界の裏側に隠されたのは、混乱に疲れた世界中の首脳や権力者や、そういう人達の意見が、この一点においてだけは共通したからだった。あれば欲しくなる。でも奪い合えば互いに消耗し疲弊し、無駄に滅びるばかりだ。そういう予測から牽制し合った結果でしかないけれど、それでも。
比企はみんながテーブルの下で足を蹴り合うのに疲れたんだと言った。
「外交や諜報というのは、テーブルの下で足を蹴り合うようなものでね。みんな、誰と誰が互いの足を蹴り合っているか、テーブルの上では優雅に茶飲み話なんてしながら、争いを察していること、自分がまさに争っていることをおくびにも出さずに振る舞うのが当たり前なんだ。それができなくなって、テーブルの上に乗って胸倉摑み合って殴り合うところまで行くのが戦争だ」
だから、言ってみればこの、不可解の塊についてだけは、全員がいい加減、蹴り合う足が痛くなって嫌気がさし、もうこれのことでは喧嘩するのやめようぜ、と紳士協定が結ばれた、というのが実情だったのだそうだ。
そして。
紳士協定の結果、不可解なあの塊やその眷属が発見された場合、見つけた者が責任持って封じることが取り決められた。
「あれを無力化できるのはごく限られた数人。仙人と、オドエフスキー大公家の者だけが、その能力を持っている。だから、」
私はあれをどうにかするためにこそ造られたんだ、と比企は言った。
「それ以外の戦闘経験やらなんやらは全部おまけだ。ただただ、あれに対峙するための、戦闘能力を鍛えるだけの目的でやらされていた余録でしかない。私は人間よりも怪物よりも、もっとおそろしいものをどうにかするための生物兵器なんだ」
黙って話を聞いていた桜木さんが、そこで口を開いた。
「ヒッカモア、っていうのはどういう意味なんだい」
その問いに、うん、とうなずいて答える探偵。
「わけがわからないもの。古代バビロニアの言葉だそうだ」
私はあんなもの、あれとかこれとか、その程度の呼び方でちょうどいいと思うがね、と比企は結んだ。
いや、牧場の羊じゃねえんだから。
お日様が昇る。海風は冷たいけど、洞窟に入る前の、耳がちぎれるかと思うほどの寒さを思うと、だいぶ気温は上がってきた。
あほかと思うような、自分が実際に見ちゃった以上どうしようもないのは確かだけど、それでも嘘だと叫びたいような話を聞かされて、俺達こだま西イレギュラーズは揃ってくたびれた顔を並べて、ゆるーく曖昧な笑みを浮かべ、さてどうしたもんかと思案している。桜木さんは難しい顔だけど、これはたぶんアレです。比企がまたしても隠し事をしていたことでちょっと腹立ててるんですねコレは。まあ、話聞いちゃえば、隠すのも無理ないだろとは思うけど、そういう理性とは別の部分で腹立てていて、でも仕方ないのがわからないわけでもないからジレンマ、ってことでいいですか。仕事のパートナー、監督官としては仕方ないと思いながら、それでも男としてはそりゃねえだろと、思っても無理ないよなあ。
比企はだいぶぬるまった紅茶を啜りながら、海に昇る朝日を眩しそうに見ている。
「おねえちゃん、」
海岸沿いの道路から砂浜へ降りる階段を、トッコトッコと降りてきたのは繭。
朝食の時間だと呼びにきたのだろうか。それにしたって、どうして俺達が浜にいるとわかったのか。ふと不思議に思った俺の前で、繭はもこもこに着膨れた上着のポケットから飛び出たものを比企に差し出した。
「はい、どうぞ」
卒業証書を入れる筒みたいな、海苔の缶みたいな、ちょっと大きな筒状のものだった。
「え」
不意を突かれて言葉が出ない比企なんて、珍しいもん見たな。
繭はちょっと小首を傾げて、あのね、といつものように続けた。
「みさきちゃんもはるかちゃんも、しっぱいしちゃったの。みんな、たきさんにまけちゃったの」
東京ってどんなところなの、とお話をねだるいつもの調子で、繭はまるっきり訳のわからないことを口にした。
「はるかちゃん」? 「たきさん」? って何。てゆうか誰?
比企の表情が変わった。何にそこまで驚くんだ。
「だからね、こんどはたぶん、繭のばんなの。おねえちゃん、おにいちゃんたちも、繭のおじゃまはだめよ」
えへへ、と笑ってちょこちょこと駆けていく繭。道路に上がる階段の辺りで両手をぶんぶん振って、伊織にいちゃんをまもってねー! とにこにこ笑って、小走りに去っていった。
何が何やら、さっぱりわからん。
「なあ比企さん、今の繭ちゃんさあ、」
なんだろうなあ、と言いかけた俺の言葉は、そこまでで凍りついて引っ込んだ。
愕然として目を見開き、繭に手渡された筒状のものを、指の関節が白くなるほど握りしめて立つ比企は、片手で額を覆って、なんてことだと鋭く吐いた。
愕然としたまま、端末を出してどこかに電話をかける。
「親父殿、いや、大佐」
比企はそこで息を整えてから、スパッと言い切った。
「
そこで一瞬言い淀んで、目を閉じる。
「私の戦友達です」
いつぞや、上海亭の目の前で決闘したあの親父さんみたいだけど、口調が随分改まっているような。というか、大佐ってことは、完全仕事モードで話してるのか?
「詳細については追って報告します。では」
通話を切って、比企はがっくりとうずくまった。桜木さんが声をかけあぐねているうちに、スッと立ち上がると、もういつもの太々しいほど落ち着いた探偵に戻っている。
「行こうか。まずはこいつを、どこかで腰を据えて読まなくては」
比企がさっきの筒を示すのを見れば、巻物だった。紙に題名を書いたのが貼ってあって、
「由来書? 」
忠広がぼんやり読み上げてから、え、と驚いて、まじかよと漏らす。
途中ですれ違った警察の皆さんが、比企と桜木さんが揃ってるのを見かけて声をかけてくるが、赤毛の探偵は挨拶もそこそこに、早足でその場を立ち去る。どうも何やら考えながら、周りに気遣いをする余裕すらないようで、ということは、こいつの早足は俄然、普通人のジョギングくらいの速度になる。普段鍛えてる桜木さんと剣士トリオはそれでもまだ幾らかの余裕を持って、運動なんて体育の授業でしかしない俺と忠広は幾分汗ばみながら、比企についていった。
宮本のお屋敷に戻ると、上を下への大騒ぎになっていた。
家政婦さんが、先輩のご両親が、お祖父さんが、俺達が外から戻ったと見ると口々に、繭を見かけなかったかと訊ねる。朝、家政婦さんが部屋へ起こしに行くともう、既に部屋から姿を消していたのだという。
ご隠居が座敷から、オロオロと慌てふためいた様子で出てきた。俺達が外から戻ったと聞いたのだろう。比企を捕まえるように引き留めて、繭を見かけませんでしたかと必死の様子で訊ねる。
比企はどこか眼前とした調子で応じた。
「ご隠居様、それはあなたの曽孫でしょうか、それとも、」
ミガワリサマですか、と訊ね返す。
「そ、」
「ミガワリサマならお見かけしましたよ」
比企の答えに、ご隠居さんがはあ、と息を漏らして膝から崩れた。
比企は振り返りもせずに部屋へ入ると、俺ら男子部屋の座卓に向かって、黙って腰を落ち着けあの巻物を広げ始めた。
何となく座卓を片付ける俺と結城、源が電気ポットに水を汲みに出て、忠広とまさやんが座布団を人数分出して比企にもすすめた。桜木さんがすかさずお茶の支度を始め、茶菓子を出す。
比企は読みながら端末で文面を撮影し、お茶を啜り、わんこそばのように桜木さんが皮を剥いて置いたみかんを食べ、胡麻煎餅を食った。その間、集中しているのか、俺達の存在に気がつく様子はなし。
いや、桜木さん、そこまで世話する必要ないでしょ。
俺の視線に気がついたのか、桜木さんがしてやったりという表情で言ってのけた。
「僕はね、小梅ちゃんが僕なしではやっていけないくらいになれと、いつも思ってるからね」
そんなダメなセリフを爽やかに吐かないでください。
愕然としながら読み終えて、そこではたと我に返った奴さんは顔を上げた。
「どうした八木君」
「いや、どうしたじゃなくて」
そこまで没頭するか?
どうだったのさと俺が巻物を指して訊ねると、ああ、と実に忌々しげな顔に戻って、それからお茶を飲み干す。
「ご隠居様と宮司さん、和尚様にお訊ねしなくてはいけないことが出てきた。肥後君、結城君、源君。すまないが、宮本先輩に同席をお願いしてもらえないか。八木君岡田君、貴君らにも、住吉さんと青松寺へ一走りお願いしたい」
先輩には知り合って日の浅い私より、貴君らから頼む方がよかろう、と言って、今撮影した由来書の文面をまとめてどこかへ転送し始めた。
ご隠居さんの居間は、隣の座敷との間仕切りの襖を取り払い、十一人がずらり並んでいる。部屋の主が床の間を背に座り、向かって右側に和尚さんと宮司さん、先輩が、その向かいに俺達、比企小梅と愉快な郎党どもが並んでいる。
俺はいつだったか、親父が邦画のアーカイブで観ていた「犬神家の一族」を思い出していた。関係者がずらり並んで、広間に集まって新族会議、というより言い争いが始まるのだ。まあ、今集まってるのは親族じゃないし、何よりこの会合は比企の要請によるものだけど。
口火を切ったのは和尚さんだった。
「それで、これはどういった趣向の集まりなのかな」
宮司さんがうなずく。
「探偵のお嬢さんの仲間から、すぐにお越し願いたいと頼まれて来てはみたが」
「ご友人に遣いを頼んで、私達をわざわざ呼び寄せたということは、何かそれなりの理由や目的があってのことでしょう」
それにしてもと宮司さんが、廊下の方をチラリと窺った。そう、比企は例によって立ち聞き盗み聞きを防ぐ目的で、廊下や窓を開け放っている。ご隠居さんや先輩はドテラや半纏を着込んで、俺達もセーターの上からジャケットを羽織っている。上着を着ていないのは比企だけだ。奴は黒いタートルネックセーターにブーツカットジーンズといういつものスタイルだった。
家政婦さんが全員分のお茶を出してから引っ込んだところで、探偵は無言で、あの巻物をその場に出した。
ご隠居さんと宮司さん、和尚さんが息を呑んで黙る。
「ミガワリサマから託されました。おそらく、もうミガワリサマはこれを不要と判断したのでしょう」
町の重鎮三人が顔を見合わせる。先輩は訳もわからず、繭に会ったのかと俺達に訊ねた。
「ええ、海岸で、」
答えかけた俺を探偵が遮った。
「先輩、繭さんは戻りません」
「どういうことだ」
「繭さんはミガワリサマになってしまいましたから」
「どういうことだ。繭は元々ミガワリサマじゃないか」
何言ってるんだと言わんばかりの先輩だが、俺はすごく嫌な予感に襲われていた。これから比企の口から、すごくひどい話が飛び出しそうな、そんな嫌な予感だ。そしてそれは、外れてくれというこちらの願いを無視して現実になってしまうのだ。
先輩には取り合わず、比企はご隠居さん達に、いずれ隠せなくなることですと前置きして、どうしますと水を向ける。
「先輩には、ご隠居様や宮司さんからお話しされる方がよかろうと思いますが」
再び顔を見合わせる三人は、だけど眉根を寄せて首を振った。
「あなたからお話しいただけませんか。情けないことだが、私らには、伊織にすべてを話す勇気と覚悟がまだ持てずにおります」
「そうですね。兄も私も言ってみれば当事者です。冷静に話をする自信は正直ありません。あなたがお知りになったことを、そのままお話しいただくのがいいと思います」
「私もまあ、宮本の家とは長い付き合いだが、先代からの申し送り程度で、すべて知ってるわけでもない。それに、二人の口からは言いにくいこともあろう。お嬢さん、あんたからお話いただくのが一番いいのじゃないかな」
ご隠居、宮司さん、和尚さんが揃って促し、仕方ないと比企はお茶を啜った。
そしてえらくぶっきらぼうな口調で、赤毛の探偵は仕切り直す。
「これからお話しすることは、この由来書を読み、この町で起きた殺人事件の遺体の状態、及び海岸の崖から続く洞窟内を見た結果、私が導き出した推論です。だから当事者であるご隠居様や宮司さん、和尚様からみれば間違っているところもあるでしょう。その点はどうぞ、ご指摘いただけますか」
わかりましたとうなずく三人。それと見て、では、と探偵は始めた。
巻物をざっと広げ、比企は自分の端末を出すと、ホログラフであの家系図を映し出した。ぽわんと柔らかく要所で光る、ミガワリサマとヨリマシサマの名前。
「今起こっている一連の殺人について触れる前に、まずこの町の歴史から始めましょう。裏口から押し入る方が話は早いのでしょうが、正面から堂々と入る方が、より状況を理解できる」
御三方には釈迦に説法でしょうが、事態をできる限り正確に捉えるため、しばしお付き合いを願いますと探偵が一礼する。重鎮三名もお願いしますと答えた。では、と比企が本題に取り掛かる。
「先日、住吉さんへお邪魔した際に宮司さんとお話しした内容はこうでした。住吉三神を祀るのは明治に入ってから、神仏判然令への対策であり、本来の祭神は恵比寿神だった。それも、宮司さんがこの由来書を読んだ中で書かれていた文脈から、恵比寿は恵比寿でも、世間一般で見られるものというより、海からの恵みの象徴の方だった」
この前比企は青松寺で、和尚さんとミガワリサマについて問答したときに言っていた。海から打ち上がった珍しいものは、海からの恵みと敬われ、特に海難事故で亡くなった人の遺体は豊漁の兆しと喜ばれたのだそうだ。
「私は昨晩深夜から今朝方にかけて、その恵比寿に会ってきました」
ここでいきなりぶっ込んだ。っていうか、待ってゆうべって、まさか。
「えー! 」
俺達こだま西イレギュラーズと桜木さん、全員驚愕。だって、ゆうべって、ゆうべって言ったらあの。
「あのゼリーが? 」
「寒天だったじゃん! 」
「なんかプルンプルンしてたし! 」
「てゆうかひたすらおっかないだけじゃん! 」
「神様っていう感じじゃねえぞあれ! 」
俺、忠広、結城、源、まさやんが納得いかんと異議を唱えたが、そんなご意見は織り込み済みなのだろう、比企に一蹴された。
「その昔の日本においては、神というのはただありがたくて神々しいだけのものではない。人並外れた何かを持っていた者、何かすごいことを成し遂げた者、あるいはおいそれとは見かけない巨大な岩や木といった、自然物だが並外れたもの、そういった、度外れたもの、スケールの大きなものもまた神となり得た。そういうものの持つちからにあやかって願いを叶えたい、という思いからだろうがね」
ほんとかよ。言いかけた俺は、そこでふとご隠居さんの方を見た。
三人は真剣な表情で、比企をじっと見ていた。怖いくらいの強い目だった。
「あれを見たと」
「見て、どうしんさった」
「お嬢さんまさか」
宮司さん、和尚さん、ご隠居さんが顔色を変えるが、比企はしれっと答えた。
「ご安心ください。私は何も願っちゃいません。彼らも驚くばかりで、それどころではありませんでしたよ」
「信じていいんですね」
「洞府の名誉にかけて。大体、彼らは恵比寿の正体については一切予備知識がないまま遭遇しました。突発的な事態を前に、しつこくあれこれ願いを抱えながら対処できるほど、私の戦友達も相棒も小賢しくもなければ強欲でもない」
「あなたは」
「私はああしたものに慣れていますから」
繰り返し念を押す宮司さんに答えてから、比企は更にぶっ込んでいく。
「ご隠居様、宮本のご一族がミガワリサマとヨリマシサマを生み出し続けていたのは、まさにあの恵比寿を封じるためだったのですね。封じるか、できることなら消し去るか」
先輩が曽祖父と大叔父の顔をまじまじと見つめる。じいちゃん、と小さく漏らした。
「先輩、あまりご隠居様達を責めないでください。できるならあなたには、必要になるまで聞かせたくなかったむごい話なんです。──とはいえ、あれが戻ってしまった以上、時間の問題ではあったのでしょうが」
「あれって何だ」
そこで忠広が、あ、と声を上げた。
「渡海船」
その呟きに、比企が
「あれは大東亜戦争の後、昭和三十年代のヨリマシサマだったみさきさんが乗せられていた」
青松寺の墓地、宮本の一族が眠る墓に名前がなかった女の子。みさきさんは、ヨリマシサマという、一族の中で最も敬われる存在だったからこそ、渡海船に乗せられ海へ旅立った。最も敬われる弔いの仕方で。
その船が、百五十年の時を隔てて戻ってきた。それも、近隣の浜や港でなく、測ったようにピッタリと、自らが旅立った凪の浜の港へ。
不思議な話だよなと俺がぼんやりと言うと、そうだ八木君そこだ、と比企がうなずいた。
「ただ自然に流れ着いたというのなら、もっと離れた地域や、それこそ外国の浜辺であってもおかしくない。どうして、あつらえたように生まれ故郷へ戻ってくるんだ」
「奇跡的だよな」
源がうーん、と目を閉じるが、奇跡じゃないとしたらどうだと、ロシア娘が切り返した。
「帰ってきたかったのじゃないか」
おいおい、何言ってるんだ。この見た目で人をたばかる女は。
「でも死んでたから船に乗せて葬式したんだろ」
慌てて忠広が打ち消そうとするが、比企はしれっと否定しやがった。
「肉体的には死んでいるように見えた、と言うことじゃないのか。肉体が死んでも魂が死んでいなかったのだとしたら」
ああ、こういう例えはちょっと違うな、だが他に言いあらわしようがない、と実にもどかしそうに言って、探偵はお茶を啜った。
「物理的には死んではいるが、ただ別の相では生存している、いや、これもどうなのか。とにかく、まるっきり死んでいる、と言うわけでもない、ってそれも微妙だな」
ざっくり言ってしまえば、生死のくびきが関係なくなってしまったというか、と比企はもどかしそうに赤毛を掻きむしった。
「去年、私達は生きているかの如き死体にまつわる事件に遭遇しただろう。戦友諸君と相棒は憶えているだろうが、まああの逆の存在だと思ってもらえれば、少しはイメージできると思う」
なるほど。真逆と言われてなんとなく、ぼんやりだけど想像することはできた。だけどどっちの極に行ったところで、いずれ不気味の谷を覗き込むことにはなりそうだ。十歳の女の子が、そんなものに成り果てる残酷を、俺はおそろしいと思った。
いかがですと比企は長老三人に訊ねた。
「私の推測は、どの程度合っているのでしょう」
その問いかけにご隠居さんが目を閉じて天井を仰いだ。それから、ぬるくなり始めたお茶を啜り、ため息と一緒に口を開く。
「ミガワリサマは御神体が目を覚ますと、ヨリマシサマに変じるんですわ」
そして。
「御神体を封じて眠らせると、ヨリマシサマはじわじわと御神体のようになって、最後には溶け合ってしまう」
そこで先輩が、嘘だと鋭く叫んだ。
「そんなの嘘だろ。そんな出鱈目があってたまるか! 」
「嘘だったらどんなにいいか」
何かを必死に耐えるように、ご隠居さんが俯いて言葉を絞り出した。
「繭さんは我々に、伊織にいちゃんを守ってくれと言っていました」
比企がそこで静かに言った。宮本先輩がストンとちからなく、崩れるように座る。
「私は繭さんに頼まれたことを実行しなくてはならない。皆さんがご存知のことを、すべてお聞かせ願えませんか」
比企が淡々と、それでも決意を滲ませて促した。
和尚さんが、ご隠居が、宮司さんが静かにため息をつく。
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