第74話 五人とひとりと海から来たもの 10章

 比企はさっきから、町役場の町長室に籠っている。すでに部屋の主人が死に、しばらくは誰も使用しないであろうから丁度いい、と言って、デスクトップから町のデータベースにアクセスし、自分の端末を接続して戸籍データを吸い出している。いいんか、そんなんやって大丈夫なんか、とも思うが、ずっと宮本先輩の一族の戸籍や履歴情報の照会を頼んでいた和歌山県警から、桜木さんにさっき連絡が入り、町役場のデータベースへの侵入エントリコードが来たのだ。あくまでも閲覧用として使用すること、データベースの閲覧で知り得た情報・知識は事件の調査や解決のためにのみ使用し、他所への持ち出しは一切禁止、という約束で許可されたのだが、それにしても、少なくとも第二次大戦後までは遡れる膨大なデータを、こいつの苺色の髪の中に詰まった脳みそは、どこまで理解できるのか?

 少なくとも、俺一人で同じことをやれと言われたら、無理だと即答できる。俺には自信があります。

 さして広くもない町長室は、窓を背にしてデスクが置かれて、壁にはスチールのビジネス用の棚、部屋の中程には応接用のソファーセット。焦茶の合皮張りで、破れてはいないものの、だいぶくたびれていて、座り心地はパッとしない。

 そのソファーには、俺、忠広、まさやん、結城に源が腰掛けて、持ち込んだ二リットルペットボトルのコーラを飲みながらポテチをパーティ開けで食いながら、ウノで遊びつつ、比企の作業が終わるのを待ちつつ、さっき俺がまとめたメモを睨んでいた。

 町長の執務机に行儀悪く足を乗せ、デスクトップに表示した戸籍を見ながら、自分の手帳に愛用の万年筆でなにやら書きつけていて、俺が一度トイレに立って戻ったタイミングで覗くと、ロシア語のアルファベット? っていうの? で書いてるので、さっぱり読めなかった。ロシア娘と仲間付き合いしていながら、二年経ってもロシア語を読めない俺達。

 比企がペンを置いて、手帳のページを破って桜木さんに渡す。どう思う、と訊ねるが、桜木さんがちょっと恥ずかしそうに答えた。

「ごめん、僕ロシア語はちょっと、まだ読み書きは勉強中」

 半眼でジトーっとした視線を送る比企。

「フランス語ならっ、フランス語なら」

 黙って桜木さんの手から紙片を抜いて、新しいページに書き直して渡した。

「なんで日本語で書かないのさ」

 うん、ほんとそう。それが一番早いじゃん。桜木さんの言う通りだって。だけど比企は、目だけで俺達を示して、巻き込むわけには行かんだろう、とだけ返した。

「まあ、それは確かにそうだけど」

 それにしても、こいつは何ヶ国語を操れるのか。

 そこで不意にジャーン、と音楽が鳴り出した。なんで「ドラゴン怒りの鉄拳」? そういえばこの前、桜木さんちで鍋やったときに上映会やったけどさ。ダダン・ダーン、と音楽はそこで途切れて、なんだおい、と思っていたら、比企が端末のケーブルをデスクトップからぶっこ抜いた。あ、データ吸い出し終了のアラームか。

 窓の外では日が傾いて、それにつれて部屋の中も薄暗くなり始めている。探偵は端末のホログラフを立ち上げて、今吸い出したデータを、どうやら自分で作っていたらしい宮本一族の家系図と照らし合わせ、ところどころ何か書き加えた。たぶん、端末の画面だと小さすぎて作業しづらかったのだろう。

 毛細血管のような、あるいはネットワーク系統図のような、連綿と続く家系図は、複雑に絡まり合い、ときに一部は途切れ、それでも本流たる宮本本家は幹のようにしっかりと繋がっている。

 青い背景に白い字とラインで書かれた家系図のところどころで、若草色と薄いピンクに淡く光る名前があった。若草色の方が多くて、ピンク色はポツンポツンとしか見られない。数の比率から見て、たぶん若草色がミガワリサマ、ピンク色がヨリマシサマなのだろう。

 一番下に淡くぽわんと光るグリーンは、繭の名前だった。

 それから、淡くみかんのオレンジに光るのは、

「宮本先輩? 」

 俺の視線の先に気付いたのか、源がホログラフの家系図を見て、小さく声を上げた。


 凪の浜の町は、江戸時代とともに産声をあげた。それまでは片手で足りる程度の漁師が住み着いて、細々と漁をして暮らしていた。そこへ、最初の移住者達──後の宮本一族、その先祖をはじめとする一団がやってきた。先住の漁師達は全員が独身の独り住まいだったそうで、ある者は移住者達の世帯の娘と夫婦となり、またある者は浜を離れて他の土地へ流れ、とにかく、移住者達を中心としたささやかな村がこうしてできた。藩の政策としての移住だったのか、それとも新天地を求めた彼らの選択だったのかは、今となってはもう分かりようがないし、またどうでもいい話だ。とにかく彼らはこの浜へ住み着き、村を作り、魚をとり山を拓いてみかんを植えて、海と山からの恵みを、年貢として収め、時折街へ出て売りささやかな現金収入を得て、静かに暮らし、時代を経て村は町に変わった。

 移住者達が本格的にこの浜を住まいと定めて、村としての体裁を整えるにあたって、まずは村長が必要だが、これは移住者達のリーダー格だった宮本のご先祖が、漁師達のまとめ役、網元となったことで村長を兼ねることになった。そして。

 そこでなにがあったのかはわからない。わからないながら、とにかく、村に恵比寿を祀る神社ができた。それから、村での弔いを取り仕切る青松寺も。

 比企はこの、神社がどうやってできたのか、恵比寿を祀るに足る根拠となったであろう出来事がなんだったのかを、ずっとと考えていた。

 まあ、そりゃ確かに気にはなるよ。でもさ、それほど気にしないといけないことなのか? 

 いささか不審に思う俺の肚など、比企はお見通しだった。

 ホログラフを町の詳細な地図に切り替えてから、遺体が発見された現場と、例の岩穴の位置にマーキングしながら、奴は淡々と言った。

「皆、そんなことが一連の事件に本当に関係あるのかと言いたいだろうが、亡くなった三人の共通項となりうるのは、やっぱりどう探したところで渡海船とミガワリサマしかない。では、渡海船とミガワリサマの両者を繋ぐのはなんなのか。そこを探るには、やっぱり神社とミガワリサマの由来や歴史を辿るしかない。言っただろう、」

 比企はホログラフを閉じて端末をしまい立ち上がった。

「こと犯罪は、できるからやる、という性質のものではない。罪を犯すという行為には、それに見合った熱狂とその根拠たる理由、動機が必要だ。だからこそ、動機ホワイダニットのその向こうに真相があり犯人がいる。理由こそが犯行の可能性を乗り越えさせるんだよ」

「でもさ、」

 俺は思わず問いかけた。

「確かに、できるできないで考えるのは違うと俺も思うよ。けど、理由さえあればさあやるぞ、ってことでもないだろ。留学するとかボランティア活動だとか、そういうのとは訳が違うんだぜ。悪いことだ」

「そう、悪いことだ」

 赤毛のロシア娘は不敵にうなずく。

 あのさ、とまさやんが顔を上げた。

「ヤギの言うのもわかるし、比企さんが言わんとすることもまあ、なんとなくだけどわかるよ。今の話を俺なりに噛み砕くと、例えば、俺がヤギぶっ殺したろうと思ったとしてだ、ただヤギなら反撃されないだろうし楽勝だろ、って程度じゃ、よっぽど頭がどうかしてなけりゃ実行しないってことだろ」

「そうか」

「だよな」

 まさやんの例えに、なるほどとうなずく忠広と結城。

「で、もしもそこで、俺がヤギに対して何か強烈な恨みつらみを持ってたとしてだ、そこにおあつらえ向きの状況がやってくるのが、事前に判ったとしたら、まあ、恨みが強けりゃ強いほどやるだろうな」

 源がうんうん、と同意。

「この場合、人を殺す抵抗感とか倫理のハードルとか、最後の障害になりそうな自分の生理的な部分を乗り越えられるのかどうかが、どこまで強い感情があるかってことなんだろ。比企さんはそういうことを言ってるんじゃないか」

 どうだと結んで、まさやんは室内にいる全員の顔を順々に見た。

 まったくもう、と漏らして、へにゃりと笑う桜木さん。

「君達、本当に修羅場慣れしちゃったねえ。頼もしいけど、内心は複雑」

 はい、なんかすんまっせん。そうだよなあ。良識の人・桜木さんにしてみれば、俺ら確かに比企の仕事に立ち会って染まりつつあって、それはそれで心配なのかも。

 比企は淡々と、九十八点と採点した。

「肥後君の見解はなかなか筋がいい。ただ、これが単なる普通の人間同士の事件であったなら、だ」 

「そうじゃない可能性があるってのか」

 忠広がグッと息を呑む。

「まあ、そうじゃない可能性があった場合もあるし、私はそういうレアケースばかりが回ってくる立場にいるからな。残りの二点が重要になる」

「残りの二点ってのは、何にかかってるんだ」

 源が紙コップのコーラを飲み干した。話のシビアさに緊張して、喉がカラカラになっていたのだろう。俺もコップに手を伸ばしたが、ほとんどなくなっていたので次の一杯を注いでグイグイ飲んだ。

 比企はあっさりと、源の質問に答えた。

「私の懸念はここにある。できるできないばかりで人間は罪を犯すわけではない、それがわからない相手が犯人だったとしたら」

「だとしたら? 」

 結城が口に運びかけたポテチを持ったまま、恐る恐る問う。

「だとしたら、考えられるパターンは二つ。倫理観や本能がお空の彼方に吹っ飛んだ人間か、あるいは」

 そこで一度言葉を切って、探偵は心底嫌そうに顔を歪めた。

「みんな大好き、真物のスーパーナチュラル、人間の言葉も感情も倫理も通用しない、力対力のガチンコ勝負だ」

 どうだ滾るだろう、とヤケクソ気味に吐き捨てて、比企は新しい紙コップを袋から出してコーラを注いだ。グイグイ飲んで、それから、

「ぶっほ! 」

 勢いよ過ぎたせいで景気よくむせて、桜木さんがハンカチ出して顔と服を拭いてやる。つくづく、日常では世話の焼ける奴だ。飲み物でむせるって幼児か!

 気取らないと言えば聞こえはいいが、俺達は知っている。ここには今いないが美羽子も知っている。比企小梅という女は、いかにもクールな美少女に見えるが、実際にはあほでオタクで喧嘩っ早くて、食い気がすごくて、大概のことは暴力で解決できると思っているのだ。自分より弱いものにはジェントルだが、ただ勉強ができるだけの残念なあほなのだ。

 

 ほんではどうもお邪魔しました、と気の抜けた挨拶を残して、あっさり町役場を出る比企と、慌ててお菓子とコーラを片付けて撤収する俺達。結城と源がウエットティッシュで応接テーブルを拭き、まさやんがゴミをまとめ、俺と忠広でペットボトルと紙コップの残りを回収した。

 帰り際にプリントアウトしてもらった町の地図を見ながら、何かずっと考え込んでいる比企は、そのまま川沿いに港へ出て、ぶらぶらと散策している。一度だけ、俺達がついて来ているのに気がついて、驚いたように顔を上げると、先に引き揚げてくれて構わないよ、とだけ言ったが、何となく俺達はそのまま、比企の後に続いて歩き続けた。

 砂浜で比企は、崖のうえのあの大岩を見上げ、それから港の波止場へぶらぶらと向かい、もう水平線に卵の黄身みたいなオレンジ色の太陽が半分がた沈んでいる中を、海から引き上げられた小さな漁船やボートを見るともなく見ていた。

 だいぶ空が暗くなったところで、不意にくるりと踵を返しこちらを向いて、比企はもう一度驚いた顔をした。

「戦友諸君、先に帰れと言ったろう。シンまでどうしたんだ」

「小梅ちゃんこそ、何を考え込んでるのさ。そんなんじゃ心配で、置いて帰るなんてできないよ」

「同じく」

「同じく」

「激しく賛成」

 桜木さんの答えに俺らもうなずいた。そのタイミングで鳴り出す比企の腹の虫。すげえ音だな。

 そこで毒気を抜かれて、俺はたまらずぶっと吹き出した。

「帰ろう。宮本のお屋敷もそろそろ夕飯の時間じゃないのかな」

「そうだな」

 比企も苦笑して、もう一度先に立って歩き出した。

 宮本のお屋敷へ戻る道すがら、結城は首を傾げている。どうしたよ、と長い付き合いのまさやんが察して、小声で訊ねると、うーん、と煮え切らない様子で応じてから、結城は長身を屈めて、団子になって歩いている男子軍団にヒソヒソと囁いた。

「俺変なこと言うかもだけどさあ」

「安心しろ、お前のは変と言うよりゃボケだ」

「そりゃねえよー。いや、まじでさあ、俺変なこと言うかもだけど」

「何だよ」

 即座に切り返すまさやんと忠広に、まあまあ聞いてみようぜ、と源が取りなした。結城がそれを受けて、比企さんさあ、と前を歩く白いコートの背中をチラリと窺う。

「なんか歯切れ悪くねえか」

 ──出た! 

 寄り集まった野郎五名が一斉に結城の顔をまじまじと見る。ここで炸裂したか、天然の馬鹿力。

「話聞いてると、いかにも何でも話してるように一瞬思うんだけどさ、それにしては、いつもの比企さんのやり方を思うと、随分あっさり話しちゃってると思わないか」

 俺は愕然とした。そうだ。言われてみれば、比企はいつも、割とどうしようもなく俺達がことの顛末に立ち会うのが避けられないとなるまで、あんまり核心の部分については語らない。にも関わらず、今回の一連の騒動では、意外なほどあっさりと何でも、訊かれると答えてしまっている。その程度には信用してくれるようになったのかとも思っていたけれど、どこかで違和感、と言うほど強いものではないが、俺は確かに、いつもと違う何かを、感覚的にうっすらと捉えてはいたのだ。

 ただ、それを言葉にして認識できなかっただけで。 

 俺ははっと気づいた。比企は、

「比企さんは何か隠してる」

 俺の言葉に、忠広が、源がまさやんが結城が、そして桜木さんが、小さく強くうなずいた。

 比企がわざわざ隠すということは、これまでの経験からいって、よくないこと、知ったら取り返しのつかないことになるから黙っているのだろうけど、それにしたって、一体何を隠しているのか。

 もう三年からの付き合いだというのに、こいつはどこまで水臭いんだ。

 とりあえず比企は、側から見る分にはいつも通りに見えた。飯をしこたま食い、繭があのねえあのねえ、とコロコロとまとわりつくのに優しく応じて、風呂をいただき、繭が寝る九時まで俺らも交えて、先輩と一緒に繭の遊び相手を務めていた。

「このまえねえ、テレビで、東京ではこーんな、こびとのぼうしみたいなわたあめたべてるのみたんだよ」

「すごいね、繭さんのお顔より大きいんじゃないのかな」

「うん、伊織にいちゃんのおかおよりおっきいよ」

 ババ抜きしながらそんな他愛のない話に興じて、先輩もすっかり懐かれて、満更でもない様子だ。

 家政婦さんにもう寝るようにと呼ばれて、まだねむくないもん、とちょっとだけ渋った繭だけど、先輩が部屋まで連れて行って寝かせてきた。

 やれやれ、と戻ってきた先輩が困ったように笑って戻ってくるのを、お疲れ様ですと迎えて、午後に町役場で飲んでたコーラの残りを飲みながら、何となくみんなでだべる。

 先輩は比企の正体については、明確には聞いているわけではないようだったけど、それでも桜木さんが警察関係者らしいというので、そちらの筋でそれなりに顔が効くのだろうと思っているようだった。桜木さんに、警察の仕事ってどんな感じですか、なんて質問してるが、その切り込み方から見て、就活の参考にでもするつもりなのだろう。桜木さんもそれと察して、キャリアとノンキャリアの仕事の違いや共通項、他の中央官庁との違いや具体的なキャリアプランなど、あれこれ話して聞かせてくれた。

 午後に飲んでいた飲みかけと、手付かずで残っていた二リットルのコーラがなくなったところで、何となーくそれじゃあ、とお開きになった。俺らはそのまま座卓を部屋の隅に片付けて、家政婦さんが置いてくれた布団を伸ばし、比企は隣の部屋に引き揚げる。先輩も部屋へ引き取った。

 そこで桜木さんが、すっとメモ帳とペンを取って、書きつけたものを俺達に見せた。

 ──話すと小声でも小梅ちゃんに聞こえちゃうから筆談で。

 そして、額を集めて無音で盛り上がる俺達男子六名。

 

 草木も眠る、とはよく言ったものだ。

 ど深夜二時半、とにかく寒くてすぐにでも布団へ戻りたいが、これから起こるであろうことを思うとそうもいかない。俺はがっつり防寒対策して、背中と腹に貼るカイロ、ポケットにも貼らないカイロを仕込んでいる。忠広、結城、まさやんに源もご同様。桜木さんもやっぱり、ハーフコートにマフラーと、一見スマートに見えるけど防寒はがっちりやっている。

 とにかく物音を立てると、唐紙一枚隔てた座敷で寝ている女に悟られてしまうので、俺達は全員、布団を伸ばしてそれから、寝巻きから服を着替えて、天上の電灯を消し、充電コードに繋いだままで端末のライトをつけ、筆談で打ち合わせながら息を潜めて待ち構えていた。

 何であれ、待っているというのはきついものだ。他に気を紛らわせるものがあるならともかく、ただひたすら待つしかないという場合、とにかく時間が過ぎるのが遅い。俺も仲間達も、みんな何度となく自分の端末や腕時計で時間を見たものだ。桜木さんは実に泰然としているが、そんな余裕をどうやって手に入れたんだろう。

 不意に、微かな音がした。障子をそっと開ける、音と言えないくらい微かな音。

 そこで俺も障子を開けて、今まさに座敷から出てきた比企の前に立った。

「どこ行くの比企さん」

 目を丸くした比企なんて、おいそれとはお目にかかれない。一瞬の間を置いてから、どうした八木君、といつもの淡々とした調子で返してきたが、座敷からにゅにゅにゅ、と忠広がまさやんが結城が源が、次々と顔を出し、トドメに桜木さんが俺の隣に立つに至って、赤毛の探偵は苦虫をしこたま噛み潰しまくったみたいな顔になった。畜生チョールト、と舌打ちするが、おやめなさいってば。

「お行儀」

 にこやかに微笑みながら釘を刺す桜木さん。ほらー。

「こんな時間にどこに行くの小梅ちゃん」

 にこやかなまま、穏やかに訊ねるのがすげえ怖いんですが。比企よ、こういう人は怒らせちゃいけない。

 観念したのか、比企はため息をつき、肩越しに何か放る仕草のあと、海だと言った。

「さっき町役場で地図をもらったろう。あれと、頼んで探し出してもらった古い地図とを比較したら、どうもあの大岩の下に洞窟があるようだ」

 誰に探してもらったんだよ、と突っ込みかけたところで、そういえばこいつは情報屋とかがナチュラルに知り合いにいるんだったっけ。ああもう、この、ツッコミがツッコミとして機能しないこの感じ!

「何もこんな時間に行かなくたって」

 言いかけた源に、無菌状態で見ておきたかったんだと比企は答えた。

「確かに警察の鑑識能力はすごいものだが、参勤交代じゃないんだ、行列従えてゾロゾロ歩くなんてのは、ちょっと避けたいところだ」

「いやまあわかるけど」

 思わずうなずいちゃうけど、せめて明るい時間に行けないのか。

 今でなくちゃいけないのかな、と桜木さんがちょっと困ったように呟く。

「駄目だ。潮位が変わると入れなくなるかもしれない」

 すごく真っ当な答えが来ました。そう言われちゃうと確かに、海って時間帯によって水位が変わるんだったっけ。小学校理科の復習だ。

 そこで比企が、ちょっと上目遣いに小さく、ダメか、と訊ねた。

 こいつ、自分の美少女顔を利用してきやがった。俺は比企の正体をこれでもかと知っているので揺るがなかった。俺は。

「っ、そんなら僕も行くから! 」

 めちゃくちゃ揺らいで、どころか完全に手玉に取られてる人が一名。

 いや、だからその「計画通り」って黒い笑いをちょっとは隠せよ比企。

 

 そのまま、屋敷の人達を起こさないよう物音を立てず息を殺しながら、そっと玄関から外へ出る俺達御一行様。

 鄙びた田舎町のこと、玄関に施錠せずに寝たり出かけたりするのがデフォルトで、外へ出る難易度はこれでだいぶ下がった。

 真冬の深夜、海からの風が雲を追いやっているおかげで、空はおそろしいくらいの星だ。いつだったか、まさやんのうちへみんなで遊びに行ったら、妹がビーズをこぼしてしまって、拾い集めるのを手伝わされたことがあったのを、俺は何となく思い出した。まさやんがどこからかクッキーの空き缶を探してきて、これの中にあけて手芸しろとたしなめたものだ。床に散っていたあのビーズは、ちょうどこんな感じでキラキラ光っていたっけ。

 しんと寝静まった深夜の町を、俺達は無言で歩く。通りすがりの住宅の庭先には犬小屋。毛布を敷いた小屋の中で、もう一枚毛布をかぶった雑種犬がぐうぐう寝ている。丸まってはいるけど、毛布がある分違うのだろうか。

 比企は道中、不機嫌そうにコートのポケットを探り、中からもはや見慣れたお札を出した。黙って俺達に一枚ずつ渡す。全員が慣れたもので、ん、と受け取りジャケットやジーンズのポケットに収めた。

 桜木さんは一瞬躊躇した。あの、冬の京都で後ろ戸の神を封じた夜とは違う躊躇だった。

「これが必要になる、ということかな」

「わからない。ただ、最悪の事態を考えてのこれだ」

「それは、」

「物理的な攻撃なんて大したことはない。何よりおそろしいのは、魂の尊厳が穢されることだ」

 そこで比企はまた先頭に立ち、行こうか、とひと言、歩き出した。

 海岸へ行くと、浜へ引き上げられていた漁船の中で一番小さな、大きめのボートにモーターが付いているだけの船を、比企はお尻からグイと波打ち際へ押し出した。おいおい、一応それなりに重たいだろうに、そんな片手で戸を開けるような押し方はないだろう。しかし、そんなテケトーな日常的な仕草で簡単に、万国びっくりショー的なミラクルを見せられると、ああそういえばこいつは人外キャラだったんだっけ、と思わされる。

 乗ってくれと促されて、男子全員がボートに乗り込むと、比企は最後に乗り込んで、船底に寝ていた物干し竿みたいな竹の竿を砂に突き刺し、グッと海へ向けて船を押し出した。それだけで、船はもう、水に浮かぶ程度に浜から離れている。探偵がエンジンをかけて、モーターの音が響く。

 見た目はボロかったボートは、意外と沈まずに波の上を滑るように海面を切って進んだ。そして夜目にも黒々とわだかまる、崖のうえの大岩。比企はためらわず、大岩の真下を目指した。いやいやいや、ぶつかるよ? ねえせめてライトとかつけようよ?

 ぶつかる、と思ったそのすぐ後。ボートは大岩の真下の洞窟に吸い込まれ、左に折れたところで、砂が青白く闇に横たわる浜辺へ出くわした。波打ち際でモーターを止め船を降りた比企が、舳先にロープを引っ掛けて、それを砂浜へ引き揚げる。鼻歌まじりに片手でだけど、少なくともざっくり均して、一人六十キロ近い俺達が乗ってる状態で、それを片手でほらよ、というノリでこんなことされると、心底驚くからね。比企はその辺ちゃんと気をつけて。

 全員がボートから降りると、比企はそこで初めてポケットから懐中電灯を出した。桜木さんとまさやんに一本ずつ渡し、落とすなよと釘を刺す。懐中電灯には、紛失防止だろうか、手首に通すサイズのストラップがついていた。

 しばらく無言で歩き続ける。どのくらい歩いただろう? 足元は大した起伏もなく、真っ直ぐ立ったまま歩けるくらいの天井の高さ。横幅も二人並んでいられるくらいの広さで、もっと四苦八苦しながら奥へ進むようだろうと思っていただけに、正直ちょっとだけ拍子抜けしていたが、何とか探検隊みたいなところでないだけありがたいのも確か。

 しばしの沈黙を破ったのは比企だった。

「戦友諸君、それと相棒、」

「んあ、」

「ふえ」

 いきなりすぎて間の抜けた返事をしてしまった。

「今からでも、後でも、とにかく帰りたいと思ったらすぐ、迷わず逃げてくれ。私には一切構うな。命あっての物種だ」

 いくらか鼻白みながら、おっおう、と応える俺達こだま西イレギュラーズ。それにしたって、こいつは何をこんなに警戒してるんだ。

 それからまたしばらく歩くと、ぽっかり開けた場所に出た。

 そこにいたのは、あれは、一体なんと言ったらいいのか。

 俺はこんにゃくを連想した。あとから聞いたところでは、まさやんと忠広はゼリー寄せ、源は障子の張り替えで作ったふのり、結城は葛切りを思い出したと言っていた。

 とにかく、そいつは何かぶよぶよしてふるふると震える、不定形の、およそ似ている生物なんているのかどうか、怪しげなものだった。

 プルンプルンの表面がざわっと波立ち、その瞬間、俺の体は唐突に鳥肌を立てた。見られている。反射的にそう感じた。目なんかなさそうな、ただゼリーみたいなこんにゃくみたいな、つるんとした表面しかないのに、がっちり視線でホールドされたような、根拠もなくそう感じた。背筋を冷たい汗が流れ落ちる。桜木さんが息を呑む。結城が、まさやんが源が喘ぐように息をつく。

 俺と忠広は悲鳴すら上げられずにいた。

 比企は?

 比企は狼のような目で、ゼリー寄せみたいなこんにゃくみたいな、ブルブル蠢くそれを睨んでいた。光の角度で色が変わるその目が、今は真っ赤に光っている。ただでさえ白すぎる肌は血の気が引いて真っ白く、反対に唇は真っ赤な血の色に変わっていた。いつぞやの怪老人相手に見せた、あの凶相。比企小梅という女が、一瞬だけ見せた地金の部分。

 俺達の友人、比企は実は人間ではない。

 もっと正確に言うなら、人間ではあるのだけど、吸血鬼の一族の末裔なのだそうだ。ご先祖は何代にもわたって人間と結婚し、だいぶ血が薄まってはいるのだけど、その中で生まれた、先祖返りの濃い血の持ち主が比企だった。

 持って生まれた異能を自分の意思でコントロールするために、幼いうちから真物の仙人に預けられ育った比企は、だから自身の異能にとても自覚的であり、たぶん、それが他人からどう見えるのかをものすごく怖れていたのかもしれない。 

 奴はことあるごとに、俺達にあまり関わるな、逃げどきを逃すなと、口が酸っぱくなるほど言っていた。

 だけどさ。

 俺達は、少なくとも俺は、生きるの死ぬのなんて物騒な状況は確かに怖いけど、でも、だからといって友達をそういうところに置き去りにするのは、あんまり不人情だとも思うんだよなあ。

 だから、俺はこの、生理的な恐怖と嫌悪を掻き立てるこんにゃくを前にしてもなお、一人でとんずらこいて逃げ出す気には、どうしてもなれなかった。

 だから比企が小さく鋭く漏らす呻きを、俺はバッチリ聞いた。

「ヒッカモア」

 それから、何故こんなところに、と血の滲むような口調で呟く。

 

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