第72話 五人とひとりと海から来たもの 8章
青松寺の蔵座敷で、比企はさっきからずっと和綴じの古書と、宮司さんから借りた例の同人誌と、この辺りの民話や言い伝えをまとめた観光用の小冊子と睨み合いながら、どこからもらってきたのか、でけえ紙を床に広げて、何やら書きつけている。
ゆうべは空振りだった山狩りは、今夜もう一度行われるみたいだ。ただ、宮本先輩は繭ちゃんが外へ出ないよう、今夜は寝付くまで一緒に遊んでやると言うので、手伝いに入るのは俺と結城、源の三人で、まさやんと忠広が比企の手伝いに残る。
宮本のお屋敷では、ゆうべちょっとした騒ぎが起こっていたそうだ。繭の姿が消えたのだと、朝になって屋敷に戻った俺達に先輩は言った。
「俺も家政婦さんからさっき聞いたんだ」
ご隠居とお祖父さんと一緒に夕飯を食べ、家政婦さんが風呂に入るよう勧めたまでは、確かに屋敷の中にいた。ところが、風呂から上がってきた気配がさっぱりない。心が幼いなりに年頃の娘らしくなってきたかと思い、最初のうちはそのままにしていたのだが、山狩りの現場に差し入れる夜食を作ったりしているのに紛れ、四人いる家政婦さん達がふと気がついたのが、十一時を回った頃だった。
とっくに部屋へ戻って眠っているのかとも思ったが、部屋はもぬけの殻で、ご隠居やお祖父さんのところに行って本を読んでもらっているとかでもない。風呂場も無人で、屋敷の中をしらみ潰しに探したものの見つからなかった。通報しようにも駐在の野村さんも山狩りの手伝いに駆り出されている。まずは自分達で捜して、どうしても見つからなければ朝を待って通報しよう、となったのだそうだ。家政婦さん全員とご隠居、お祖父さんが総出で、すれ違いにならないよう先輩のご両親に留守を頼み捜し歩いた。の、だけど。
繭は見つからなかった。
東の空が白む頃、捜しにでた全員が疲れた顔で戻ると、子供部屋から繭がひょっこり顔を出した。
「伊織にいちゃん、かえってきた? 」
まだ眠たそうに目を擦りながら、大人達の大騒ぎなど知らぬげに、きょうはおてらでケンケンパしてあそぶんだよ、とのんびり言って、あとはただニコニコ笑うばかり。
そんな騒ぎがあったばかりなので、さすがに先輩も心配で、今夜は外へは出ずに繭の相手をしてやることにしたのだ。
朝食の席で先輩は、そういうことだからと、ちょっと申し訳なさそうに詫びた。
「すまないな、なんかほんと。遊びに来いなんて誘っておいて、あれこれ手伝わせちゃって」
その間も先輩の背中には、繭がべったり抱きついていて、どこに行っていたのかはともかく、繭なりに寂しかったのだろうか。
「繭、にいちゃんお茶飲んでるから。こぼすから」
先輩がたしなめながら頭を撫でてやると、やっと離れて隣に座る。
「今日は一日遊んでやるから、にいちゃんお巡りさんの手伝いはお休みするから、繭もいい子にできるか? 」
「できるー! 」
すまないと詫びる先輩だけど、俺らひたすらほっこりしながら出てきました。だって繭ちゃんが「にいちゃんがおとうさんね」ってままごと始めてて、熊のぬいぐるみ抱かされてるんだもの。
そのまま青松寺へ向かって、朝っぱらから比企は和尚さんへ挨拶もそこそこに、床へ紙を広げて何やら書きつけている。
源・結城・まさやんのトリオ・ロス・剣士は広い境内の一部を借りて朝稽古して、俺と忠広は蔵座敷で膨大な蔵書をぼんやりと眺めては、比企が時折立ち上がって今見ていた書物をしまい新しいのを出すのを、ボケーっと見ていた。桜木さんは端末で書類を作ったり、和歌山県警や佐藤警部補と連絡を取り合いながら、どこやらと何か交渉しているみたいだ。
「比企さん何書いてるのさ」
忠広が訊ねると、ああ、と曖昧な返事のあとにロシア娘は顔を上げた。
「宮本本家の家系図だよ」
「なんでそんなもんを」
「たぶん必要になるから」
見ればでかい紙は、ただカレンダーを縦に貼り合わせただけの、ただのリサイクルだった。そこには延々と家系図が記入されていて、ところどころ虫食いのように穴が空いてはいるけど、それでもほぼ九割がた埋まっていた。とりあえず人名は日本語で書いているけど、何か脇に緑や赤で書き添えてあるのは全部ロシア語や中国語表記になっていて、いや読めない読めない読めないから。
比企は明治からこっちは町役場の返事待ちだな、とぼやきながら、家系図の最後の方に何やら赤字で書き込んで、今読んでいたもののページを閉じた。そこでクソでかい欠伸を一つ、背筋を伸ばすとバキバキ音がして、よっこいしょういち、と立ち上がる。さて、と肩を揉みながら、比企は今自分が書いた家系図を手に、座敷から母屋へ出た。
「そろそろ和尚様からお話を伺っておかないとな」
いつもの座敷で新聞を読んでいた和尚さんに、比企は藪から棒に切り出したものだ。
「和尚様、先代と先先代のミガワリサマについて、和尚様が聴いている範囲内で結構です、お話を伺えませんか」
ほらー! 和尚さん驚いてるじゃーん! 話にはクッションが必要だってお母さんいつも言ってるでしょー!
比企は手書きの家系図をコタツの天板に広げて、ところどころ赤字と緑字で書き込まれた部分を指差して本題に入る。
「これをご覧いただけばわかるかと思いますが、ミガワリサマの誕生のスパンです。おかしいとは思いませんか」
言われて系図を覗き込む和尚さんと俺、忠広に桜木さん。でもさっぱりわからないんですが。
「どうです、ミガワリサマはなぜか、三世代か四世代の間隔で生まれているんですよ」
まじか。
比企がトントンと指差して示すのは、赤と緑でメモ書きがされたところで、よく見ればその全部が女性の名前になっている。
「ミガワリサマの特徴は、必ず女性であること。それから、過去のミガワリサマのほぼ全てが短命であること。それから、」
比企は緑のインクでメモ書きが入った数人の名前を指して続けた。
「偶然なのか、あるいは何か特定の条件をクリアすると発現するのか、ランダムにですがあらわれるヨリマシサマという存在」
和尚さんが瞬間、系図に視線を走らせた。
「江戸中期に一人。幕末に一人。大東亜戦争後に一人。時代の節目ごとに一人ずつ出現するヨリマシサマの発現は、大きく二パターンでした」
ほう、と和尚さんが感心したように漏らした。
「どのようなパターンですかな」
比企が薄く笑んだ。なんだろう、こいつのこの表情は。目は全く笑っていない。だけど和尚さんの口から何かが飛び出すのをじっと待っているような。でも、比企のこの様子では、あんまりいいことじゃないのかもしれないけど、でも、じゃあどんなことなのと言われると、俺にはさっぱり。皆目見当もつかない。
「まず、江戸中期のヨリマシサマですが、彼女はミガワリサマを母として生まれてきました。少なくとも、この青松寺さんの人別帳や過去帳の記録を信じるならば、ですが。実際、この代のミガワリサマは二十代半ばまで生きていた。ミガワリサマとしては異例の長寿です」
「よく調べなさった。それも、あの膨大な記録を一晩かそこらで」
「最初から、当たるなら人別帳や過去帳からと目星をつけていただけです。まずはミガワリサマについて知らなくてはお話にならない」
そこの座敷に安置したご遺体は、どちらも渡海船に強い関心を示した人物であり、一方はまた、ミガワリサマにもその興味が向けられていた。今行方が知れず、町をあげて捜索している三枝教授は、渡海船の調査のために招待され、ミガワリサマにもその学問的興味が向けられていた。
「私が文献にあたる上で重視したのは、ミガワリサマとヨリマシサマの記述。それから、昭和三十年代の渡海船に誰が乗っていたのか」
比企の言葉に、その場にいた全員──和尚さんに桜木さん、俺、忠広、まさやん、結城に源の視線が、系図に注がれた。
「ちょっと失礼」
和尚さんが緊張をほぐそうと、お茶を淹れてくれた。喉がカラカラになりかけていたので、正直ありがたかった。
そこで仕切り直し、といった風に、比企が肩を揉み、ヨリマシサマ発現の条件のもう一つですが、とお茶を啜り続けた。
「これが、どうも記録を読む限りですが、ミガワリサマが何かの要因で、ある時突然ヨリマシサマに変化するようです。少なくとも、過去帳や人別帳の記録を信じるなら、そうとしか言えない」
和尚さんが比企の顔をじっと見た。探るような、試すような。
「宮司さんは、ヨリマシサマは神社の真の祭神の憑座となるのだとおっしゃった。そして、真の祭神は恵比寿だと。恵比寿が何を指しているのか、教授と一緒に行方不明になっている由来書には、ただ海、とだけ書かれていたそうですが、それなら最初から住吉三神や宗像三女神だっていいはずだ。でも神社判然令に合わせて看板の祭神の名をすげ替えた、ということは、私は海から打ち上がったもの、文字通りの恵比寿だったのだろうと思っている」
それは宮司さんとヨリマシサマについて話したときにも言っていたな。
海から打ち上がったものというと、だめだ、なんかもう、夏休みにバイトで入った海岸の、朝の光景を思い出してしまう。海水浴客が出てくるまでの間に、早朝ボランティアや海の家の代表数人ずつが一緒に、砂浜に上がってきたゴミを拾って集めるのだ。俺達男子五人がぼんやりした笑いを顔にまとわりつかせていると、比企は大方俺達の頭の中なんて察しがついているのか、当たらずとも遠からずだと言った。
「今でこそゴミばかりだが、その昔は航海技術も未熟だ、船が沈むことはたまにではあるがあったことだろう。商船が沈没すれば、積荷や珍しい品が打ち上げられることもあるだろう。珍重な品が出てくることもあるがね、何よりありがたがられたのは、いわゆる土左衛門だよ」
「ドザエモン? 」
「猫型ロボット? 」
「結城おやめなさい」
「うえー」
「てゆうかドザエモンって何」
「源知ってる? 」
「知らんて」
すぐワイワイガヤガヤしちゃう俺達、かわいいでしょ。ねえ。
そこで比企がお茶を啜って解説した。
「説明しよう。土左衛門とは海難事故等で死亡した遺体のことを指すのだ。土左衛門が打ち上がると、豊漁の兆しとして漁師には大いに喜ばれたのだ」
「えー」
「もっといいものを喜ぼうよ漁師さん! 」
これだからいにしえの伝承は! サツバツが過ぎるよ!
「まあ、ピンポイントで何を指すのかと訊かれればそういうことになるが、大まかには海から上がった珍重なもの、だね」
実際死骸が上がると豊漁だったそうだからなと、赤毛の探偵はしれっと言った。
「屍肉を食うために小魚が集まり、それを食うためにもう少し大きいのが集まり、という連鎖ができるからな、豊漁にもなるだろう」
「イヤッ! もうやめてっ! 」
「オネエになってるぞヤギ」
「よーしよし東京帰ったらまたいつもの草食おうなー」
なんか、あの、シリアスな話してるのに、ごみんね? でも俺ら正直引いてます。それでも、俺達がこんな風にイチャイチャするのすら、比企の中では計算のうちなのだろう。
恵比寿が何を指すのかについて、戦友諸君にも理解してもらったところで、と国籍不明のロシア娘はあっさり軌道修正した。
「何をもって、ミガワリサマはヨリマシサマに変化するのか。年齢なのか、技能の習得なのか、条件はいろいろありますが」
私は通過儀礼ではないのかと踏んでいます、と比企は言って、背筋をすう、と伸ばし居住まいを正した。
「どんな通過儀礼なのかはわかりません。誕生時にミガワリサマとされていた表記が切り替わったタイミングも、全員がバラバラです。でも、確かに何かがあったんですよ」
そして。
「この、ヨリマシサマの出現頻度の低さを思うと、ある可能性が頭に浮かんできました。──これは完全な下衆の勘ぐりです。だから、和尚様と宮司さんは頭から否定するのが当たり前だと思っています」
和尚さんが目で、続けろと比企に促した。
「もしや、ミガワリサマはヨリマシサマを生み出すために、計画的に生み出されているのではないか」
桜木さんが、俺達が、一斉にはあ? と馬鹿声張り上げた。
「いやいやいやいやいや」
「ちょっと待ってちょっと待って」
「そんなことできる? 狙って、その、繭ちゃんみたいな子供を生み出そうっていうんでしょ? そんなさあ」
「都合よく行くかよ」
「競馬だっていまだに、どんな仔馬が出るのか賭けだっていうのにさ」
忠広、源、結城、まさやん、俺が順々に突っ込んでいくが、比企は動じやしない。できてしまったんだろう、と断言した。
「メンデルの法則なんてまだ発見されてない時代だ、それでも何かに気づいた人がいたんだろう。さて戦友諸君に我が相棒よ、この系図を見て、何か気づいているだろう」
比企が系図のミガワリサマの部分を指でくるくると、円を描くようになぞってみせた。
そうだ、俺達全員、ちゃんと気がついていた。比企に言われるまでもない。ただ、ねえでもさ、これ言っちゃていいものなの?
ミガワリサマは、祖父母の代か、近ければ両親が、いとこ同士やはとこ同士で縁組していたのだ。昔のことだ、一人っ子ということもなく、当然の如く兄弟姉妹がいるわけで、その兄弟姉妹もまた、いとこと縁組し、当人がそうしなくてもその子供が、というパターンもまたあった。つまり。
ミガワリサマは、とんでもなく濃い同族婚の末に生まれた子供だということだ。
実際、繭ちゃんもまた、父方のお祖父さんお祖母さんがいとこ同士、更にご両親もまたいとこだったとかで、ねえこれ大丈夫? 合法なの?
ふと見れば、結城も忠広もまさやんも源も、みんな目から光が消えていた。たぶん俺の目もご同様だったことだろう。桜木さんはいつになく緊張した面持ちで、比企は狼のような目をしていた。
和尚さんは黙って穏やかな表情を崩さなかった。
否定してくださいと比企は言った。
「あなたに否定していただけなかったら、私はきっと宮司さんにも同じことをお訊ねしなくてはならない。今、和尚様が否定してくだされば、私はこの、ただの思いつきを、自分の根性が卑しいからだと打ち消すことができる。否定してください」
あんまりにも静かに訴えるその声は、今までに聞いたこともない必死さで溢れていた。こんなに必死に何かを訴える比企を、俺は初めて見た。
こいつはいつも、もっと不敵でもっと図々しいくらいに太々しくて、なんだか余裕綽々で、いつだって喧嘩っ早くて、大飯食らいで食うことばっかり考えてて、服なんかテキトーで、黒と白の車を呼ばれなければ何着てたって無問題とか言ってて、そんでもってアニメとか怪獣映画とかばっかり観てて、とにかく要約すると変人としか言えなくて、でも。
そうだ、こいつはいつだって、自分より弱いものや虐げられた誰かのために、当たり前に味方して当たり前に戦った。だから、今だってたぶん、何も知らない無邪気な繭を、どう傷つけずに事態を解決するのか、そのための武器を探してるのだ。
ミガワリサマとヨリマシサマとやらの歴史を調べ正体を探るのは、知らなければ何もできないから。知っていれば、誰かに何を訊かれても、答えてよいこと悪いことの判断ができる。ただ、知らなければ。
──知らなければ、どうだというんだ?
俺ははっと思い至った。
「待て待て待て」
両手をバイバイのように振って押しとどめる。
「待てって比企さん、それ、あの渡海船とどう関係が? まさか中にいるのがミガワリサマやヨリマシサマだとかいうんじゃ」
反射的に出たその言葉に、比企が驚きすぎて虚無顔になって俺をまじまじと見た。
「私が懸念していることが、どうしてわかったんだ八木君」
「え」
そこで全員が一斉に俺の顔を見た。
え。俺、今何か言ったっけ。
「このような形でお訊ねするとは思ってもみませんでしたが、そこつな八木君のおかげで話は楽になりました」
比企はやれやれと肩を揉みながら漏らして、でもまるっきり妄想だけで固めていたわけじゃないですよと苦笑いした。
「蔵書に当たる合間の、ちょっとした息抜きに十分ばかり、外の空気を吸いに境内を歩いていたときに、裏の墓地で宮本本家の墓を見つけまして」
そこで端末を出して、例の立体映像でお墓の写真を出した。墓石本体の側面だけでは面積が足りず、脇に建てた石板に掘られている、名前と命日の部分だ。そこだけ拡大して、昭和の頃のものがよく見えるようにした。
一人一人、系図と照らし合わせながらみんなで確認していく。この人は系図のここ、この人はこの人と兄弟、と答え合わせのように引き比べて、結城があれ、と声を上げた。
「一人名前がない。石板にないんじゃね」
その言葉に、えー、おいおい、と揶揄うように応えながら、それでも俺達はもう一度系図を確認した。こういうときの結城が発揮する天然の馬鹿力は侮れない。
「えーと、喜一」
「昭和二十二年、七十四歳」
「しのぶ」
「昭和三十年、六十八歳」
「ミヨシ」
「昭和二十九年、五十一歳」
「武」
「昭和二十年、二十七歳」
「布由」
「昭和二十年、十六歳」
「みさき」
「みさき、みさき…ってあれ、」
なかった。
そこで比企が口を開いた。
「みさきさんというのは、ヨリマシサマだ。そして、その母親が昭和二十年に亡くなっている布由さん」
え。
「え」
「だって十六歳って」
ざわっとするかわいい系男子な俺達に、豪傑女が幾分白っぽい目を向けたような気がする、のだけど。
「おいおい、いくらなんでも、貴君らだって保健体育の授業くらい受けているだろうに。十代半ばにもなれば、まだ体は成長期が終わってはいなくとも女性の出産能力は備わってるぞ。男性がどうなのかは、わざわざ貴君らに言わずともよくわかっているだろうから言わないが」
「んもう比企さん! お下品でしてよ! 」
「ヤギなんでお嬢様になってるん」
「でも確かに比企ちん露骨ぅ」
俺と忠広、結城がてんでに発言。そう、今の俺達の常識や良識からすると、十五や十六の女の子がいきなり母親になるなんて、ちょっとした虐待だし、相手の男は何をしてるんだと槍玉に上げられがちなのだけど、昭和二十年って、そういうのどうだったんだ。
そうだなと比企はうなずいた。
「私も師父から聞いたことがある。父親がいない出産というのは、珍しくはなかったようだよ。白い目で見られるかどうかは、状況によりけりではあったそうだけどね。なにせ当時は、若い男というだけで徴兵される時代だ。出征前に大慌てで、親戚や知人を当たって手頃な若い娘を見繕い、即席で結婚させて、ひとまず初夜だけ済まさせて送り出す、なんてことがザラだった。そういう夫が帰って来なければ、どうしたって独りで出産育児をこなすしかあるまい」
なんて時代だとまさやんがうめいた。源も顔をしかめて、うえー、と舌を出している。
「そんなんなったら俺、死んでも美羽ちゃんのとこに帰る」
「おう頼んだぞ。お前がいないと俺らじゃ美羽子は手に負えねえ」
だがまずは、みさきさんとやらについてだ。
そういう時代の空気もあったのだろうか、過去帳や当時の宮司さんの覚え書きを読むと、みさきさんは当たり前に布由さんの娘として届け出たようだ。他の、もっと平和な時代なら違ったんだろう。例えば、布由さんの母親や家庭を持ってる兄・姉の子供として役所には届け出るとか。もしかしたら、今現在もまた、そういうことが起こっていてもおかしくはない。
「名前がここにないのは、みさきさんがこの墓に入っていないからではないのかと思ったんだ」
あるべきところに、あるべき名前が入っていない。
とっくに死んでいるはずの人の名前がないのなら、考えられる理由はそのくらいだろう。それじゃあ、なぜ入るべき人が墓に入っていない? 一族で、どころか地域で敬われているミガワリサマは一族の墓に入っている。それなのに、どうやらミガワリサマすら、それを得るための過程やフロックでしかないらしいヨリマシサマが、なぜ墓に入れられないのか。
和尚さんが感嘆したように、ほう、と声を上げた。
「墓に入っていないなら、ではヨリマシサマはどこに行ったのかな」
そこで桜木さんが、はっと息を呑む。
「まさか、いや、だから小梅ちゃんは渡海船だって」
「記録では、みさきさんは十歳で亡くなっている。昭和二十年に生まれたなら、昭和三十年、三十一年、そのくらいで亡くなっている計算だ。それから船を仕立てて流したとして、計算は合うだろう」
「それにしたってさ」
桜木さんは混乱してる。無理もないよ。桜木さんは基本的に良識の人だもの。俺らも混乱まではいかないけど、釈然としないものは感じてる。なんで普通にお墓に入れてあげないんだ。十歳の女の子だろ、死んだ後に一人で海に流されるなんて、寂しいだろ。
比企は、だけどあっさりと断言した。
「考えてもみたまえ。ヨリマシサマはミガワリサマ以上の、一族で最も崇敬される存在だ。それを、血は繋がっているとはいえ有象無象と一緒くたに葬るのに、当時の宮本本家の人々には抵抗があったんだろう。敬うべきものだからこそ、最も敬われる葬送の仕方で見送ったんだ」
「船に押し込めて外海へ流すのの、どこが敬われる葬送なんだ。何だいそれは」
更に混乱する桜木さん。比企はそうか、と赤毛を掻き回した。
「行きの新幹線で戦友諸君には話したが、あんたには詳しく教えていなかったか。くだらん俗信と片付けてしまえばそれまでだが、
だから、とひと息にそこまで言って、比企は当時の遺族は、故人が一族で一番敬われる者だから、一番尊ばれる葬送のやり方で見送ったんだと結んだ。
黙って聞いていた桜木さんは、むうぅ、と小さくうめいてからため息をついた。
「まったくもうさあ、君は不意打ちで僕のこと褒めるよね」
お茶を啜って、どうしてお墓に入れずに海へ流したのかはわかったよ、とうなずいた。
そうか、と俺は思い至る。
一番敬われる子供だから、一番尊いやり方で弔った、ということは、少なくともみさきという十歳の女の子は、それだけ愛されていたのだろう。まるっきりの孤独ではなかったのだ。俺は見送る家族のその選択に、少しホッとした。どうでもいいと思う相手に、人間はここまで手間のかかることはできない。
「お見事」
和尚さんが大きくうなずいた。
「私も当然、記録やら、先代からの申し送りやらでしか知らんことですがな、まあ、昭和の頃のヨリマシサマの葬儀については知っておりました。だから余計に、あの船の調査の話が出たときには、いかがなものかと思った。宮本のご隠居も、若い頃、家を継ぐ際に親父さんからヨリマシサマのことは聞かされていたそうでしてな、だから調査にも、口は出さんが、あまりいい気持ちはなかったようだ」
不意にまさやんが、そういえばよ、と切り出した。
「この、みさきさん、だったか。この子の父親ってのは、誰なんだ。十五、六の女の子こまして孕ませてよ、責任はちゃんと取ったのかそいつ」
「それについては、おそらくだけど、どうでもいいことだと思うよ」
比企が嫌そうに顔をしかめて答えた。
「なんでだよ。母親一人じゃ子供なんてできねえだろ」
そういうことでなくてさ、と比企は不愉快そうに、端的に片付ける。
「いいか、少なくとも過去の宮本本家では、ヨリマシサマを生み出すためにミガワリサマを計画的に生み出し続けていた。ミガワリサマの布由さんが出産可能な年齢まで成長したところで、一族の長が考えるのはヨリマシサマを生ませることだ。これは母親が布由さんなのはいうまでもないが、相手は血縁が近ければ、極論誰だっていい。いや、布由さんが相手に好意を持てなかったら虐待だと私も思うが、本家の者は、条件さえ整っていれば誰でもいいと考えただろうな」
「ひでえ…競馬馬だってもっと相性とかも見るだろうに」
結城がのんきに慄いているが、比企は当時の長老達にしてみれば、まさに競走馬の掛け合わせみたいなものだよと応じた。
「健康な女の子が生まれて、その子がヨリマシサマに育てばそれでいいんだから、相手なんてどうでもいいんだよ。みさきさんは過去帳を見る限りだが本家で育てられたようだし、今まさに、繭さんはご両親からご隠居が引き取り、本家と町の大人達が育てている」
いたいけな俺達、五人揃ってズンムリと負のオーラ背負ってうつむいた。当たり前の環境であれば、年端も行かない女の子を妊娠させれば、それだけで相手の男はクズオブクズだけど、この特異な環境下だと逆に、男はただの種馬扱いって、なんかもう切ねえ。
「和尚様、ありがとうございます。これで謎の一つは解けました」
和尚さんに丁寧にお礼を述べてから、さて、と比企は仕切り直した。
「ここでもうひとつ、わからないことが出てきたな」
「何がさ」
桜木さんがふん、と鼻から荒いため息を漏らし訊ねるのに、気にならないかと奴は答えた。
「なんだってここまで必死に、ヨリマシサマを生み出そうとするんだ? 恵比寿神を降ろすのはまあ百歩譲って飲み込むとして、恵比寿を降ろしたあとに、一体何がしたいんだ。ヨリマシサマに何をさせたいんだ」
いいか、と探偵はお茶の残りを飲み干した。
「人間はよほど強い動機がない限り、一代でさえことをなすのは難しい。それが江戸初期からと見積もっても、一体どれだけ代を重ねたのか。そんなに強い動機になりうるのは、一体なんなのか」
気になるだろうと言って、そこで比企は盛大に腹を鳴らした。
締まらねえなあ、もう。
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