第71話 五人とひとりと海から来たもの 7章

 青松寺の蔵座敷の、ちょうどど真ん中辺り。座敷の中心辺りへ移動させた文机の上に置いた携帯端末が、立体映像を吹き抜けの空間に映し出している。映像は、今俺達が滞在する凪の浜の町と、町を貫くように流れる川を中心に、周囲の山並みを上空から映しており、山の裾からもう少し奥へ入る辺りにパラパラと、何色かに色分けされた点が散らばっていた。

 文机に向かい、黙々と書物のページをめくりながら時折映像に視線を投げるのは赤毛の探偵。甲斐甲斐しくお茶のおかわりを注ぎながら、映像の中の色とりどりの点が動く様子を注視し、自分の端末も文机の上に置き、スピーカーとマイクをオンにして、現場で山狩りの采配をとる佐藤警部補へ指示を出し、報告を聞くのは桜木さん。蔵座敷の、開きっぱなしの入り口にもたれるように座りながら、それとなく廊下の向こう、お寺の母屋の様子を窺うのは、一見いつものようにのほほんとしてるけど、木刀を脇に置いて臨戦態勢の結城。俺はそんな三人の様子を、壁の書棚に寄りかかりながら、ぼんやりと見ている。

 俺の名前は八木真。仲間には人間なのにヤギと呼ばれて、珍しいものを見られると誘われ物見遊山でやってきた和歌山県の片田舎、鄙びた小さな港町で、なぜかいきなり殺人事件に遭遇している。しかも今は、畳み掛けるように行方不明者が出て、町の大人達と県警の人が山狩りをかけ捜索するのだとかで、俺達の仲間で旅に同行していた比企と、後から合流した相棒の桜木さんが指揮を頼まれた。だけどこの蔵座敷で唸っている古書や記録の類を見て目を輝かせる比企は、殺人事件の手がかりを求めて古書と記録に当たると言い出し、それなら遠隔でリモート指揮をすればいいだろう、と桜木さんが策を講じて、今のこの状況とあいなった。の、だけど。

 どうしてこうなった。俺、どこにでもいるちょっとかわいい大学一年生、飛び抜けた何かがあるでもない、ごくごく普通の男子なのに。

 

 山裾にばら撒いたように散る点々は、山狩りに参加している捜索隊の一人一人に持たせているタグの信号で、みんな山林へ入る道やみかん農場から奥へ進んで山に分け入っている。

 別働隊のまさやん・源・忠広も宮本先輩と一緒に山狩りを手伝っており、やっぱり文机の上に置いた俺の端末は、チャットルームに接続してある。三人とは音声通信でやり取りできるよう、桜木さんの端末と同様、スピーカーとマイクをオンにしているのだ。

 山に散らばるタグの色は全部で四色。県警からの応援がオレンジ、町の青年団が青、漁師さんやみかん農家のおじさん達、有志の助っ人がアップルグリーン。そして、その中にポッチリと混ざる赤が、まさやん・源・忠広のこだま西イレギュラーズ代表と宮本先輩だった。

 タグを持たせたのは比企だけど、それ以外はほとんど直接指示を出したりはせず、必要なことが出ると桜木さんを通して頼んでいる。俺が訊ねると結城がのほほんと、警察のおじさんもその方がイロイロやりやすいんじゃね? と言った。

「まあそうだな、佐藤警部補もまだ、探偵の小娘に命令されるより、シンから言われて動く方が気持ちの持っていきようはあるだろう」

 なるほど。

 警察隊のオレンジは、さすがに仕事柄、こういう捜索には慣れているのだろう。町の北側の山に平均的にうまくばらけている。一方で青年団の青と助っ人のグリーンは、たぶんそれが普段山に入っている人達の行動範囲なのだろうか、細い、普段の生活でそこを歩くから踏み固められてできたのだろう山道に沿ってパラパラと入り混じっている。まさやん達は警官隊と青年団、助っ人がブレンドされている辺りにいた。

「夜中の山こえー! 」

 源が叫んでいる。源と忠広は県警から来た佐藤さんの部下だという刑事さんと、まさやんと先輩はみかん農家の三代目、札幌の大学で農業を学んでいて、卒業したら家の仕事を継ぐという院生のお兄さんとそれぞれ組んで、山狩りを手伝っていた。

 山狩りの参加者には懐中電灯が配られていて、捜索開始の際には佐藤警部補から、夜間の捜索で視界が悪く危険なので、必ず三人一組で行動し、三枝教授を発見したら代表者一人が報告に走り、あとの二人が付き添って介抱するようにと説明があったそうだ。農家さんはみかん畑のすぐ奥だから多少勝手もわかるだろうが、甘く見ずに必ず三人一組行動を徹底してください、と佐藤さんは言ったそうだ。

 忠広もちょっと深夜の山の中という状況に、いやまじおっかねえ、と小さく漏らしている。

「これ冬だから虫とかいねーけどさ、夏場だったらあっついし虫だの動物だのいるだろうし、やべーだろ」

「しかも夏だったら、下草もぼうぼうだろ。歩きにくいったらねえや」

 まさやんもそれに応える。まだ冬場でよかったな、と源がため息をついた。

「みんな、山狩り手伝ってくれるのはありがたいけど、無理はしちゃだめだよ。怪我しないように、足元気をつけて」

 桜木さんが声をかけ、それにしても、と続けた。

「君らまで手伝わなくても」

「いや、知り合って間もないし、たいして話したわけじゃないけど、まるで知らない人じゃないし」

「先輩のご実家には一宿一飯の恩があるしな」

「誘われて遊びに来ただけだから知らねー、ってのも、なあ」

 忠広、まさやん、源があっけらかんと答えた。

「やだ、まさやんカックイイ! 」

 結城が幼なじみにあほ丸出しな声援を送ると、源と忠広が俺は? とツッコミを入れる。

 そこで桜木さんに呼びかける、佐藤さんのいささか緊張した声が切り込んだ。

「警視殿、住吉神社の裏手の森に教授のマフラーが落ちているのが発見されました! 」

 え。まじか。やってみるもんだな山狩り。

「捜索対象の私物だという確認は? 」

 桜木さんが淡々と確認する。こういうところを見ると、ああ、この人確かにキャリア官僚でガチのエリートなんだよなあ、と思う。

「教授の連れてきていた教え子二名が、確かに教授のものだと」

「わかりました。発見場所はどのような場所ですか」

「神社から二百メートルほど入った森の中で、近くには洞窟のような小さな岩穴があるそうです」

 岩穴か。中にいたりして、教授。

 同じことを考えたのだろう桜木さんも、佐藤さんにそれを訊ねるが、どうも一緒にいる誰かとやり取りしているらしき様子が小さく聞こえて、それから、無理でしょうねと返事があった。

「神社の近所のみかん畑の持ち主に訊いてみましたが、どうも岩穴とはいっても、子供がやっと入れる程度の隙間で、さすがに教授の体格では入り口を通り抜けられないだろうと」

 そこで比企が口を開いた。

「どのくらいの大きさの穴ですか。五歳の子でも這い込むのがやっとなのか、もう少し大きな、例えばミガワリサマくらいの身長でどうにか通れるのか」

 へ、と一瞬佐藤さんが呆気に取られて、それから我に返り、また誰かとボソボソやり取り。すぐにお待たせしました、と電話口に戻る。

「そうですね、ミガワリサマならどうにか通れるかもしれない、とのことです」

 比企はうなずいて、ありがとうございます、とひと言、あとは黙って資料を読み、捜索隊の動きをじっと確認する。時折、手薄な場所を見つけると、桜木さんを通して佐藤さんに指示を出し、捜索隊を動かしたりするが、それにしても、なんであんなこと質問したん。

 比企は俺達のチャットルームで山狩りメンバーに、神社裏の岩穴を見てきてほしいと頼んだ。

「話はあとで構わない、入り口がどの程度の広さなのか、貴君らで確認しておいてくれまいか」

 わーった、りょ、と思い思いの返事のしばらくあと、空がだいぶ明るくなった頃に、四人全員が端末のカメラで写真を撮って送ってきた。穴の大きさとの対比で、脇にまさやんが立っている。俺ら五人の中では一番小柄で、比企より二センチばかり身長が高いくらいだから、確かにこれなら比企もサイズを確認しやすいだろう。

 

 結局、夜明けまで山狩りを続けたが、見つかったのはマフラー一本だけだった。

 比企は宮司さんが持ってきてくれた書物の、最後の一冊を読むうち、段々と目つきが鋭くなっていって、ただただ黙ってお茶を啜っていた。

 

 

 

 ・千草 享年十九歳 ミガワリサマ

 

 ・布由 享年十六歳 ミガワリサマ

 

 ・みさき 享年十歳 ヨリマシサマ

 

 ・衿子 享年十三歳 ミガワリサマ

 

 

 

 夜明けと共に、比企は蔵座敷を出た。

 夜通し古書や古い記録に目を通しメモを取り、その間口にするものといったら、和尚さんが用意してくれたお茶くらいなのに、比企は腹が減ったのひと言すらなく、いつも白すぎるほど白い顔がいっそ青白いくらいだ。普段血の気のない唇は、今は血の色に染まり、いつもは青とも緑とも灰色ともつかない深い色の目が、光の角度でエメラルドグリーンやコバルトブルーに色を変え、瞳孔の縁はオペラピンクが輪郭を描いている。

 青松寺の長い石段を降りると、忠広とまさやん、源が待っていた。先輩はさすがに草臥れたと引き揚げて、仮眠をとるそうだ。

 肩にいつもの白いコートを引っ掛けて、手には数冊、ノートや和綴じ本や、宮司さんが持ってきてくれた書物を抱えて、今何時だとぼんやり呟き、ゴツい腕時計を見遣る。

「六時半か。さすがにこの時間に伺うのは失礼だな」

「どこ行くん比企ちん」

 結城が天秤棒みたいに木刀を担いで訊ねると、ああ、と目頭を揉みながら探偵は答えた。

「住吉神社だ。宮司さんにいくつか伺わなくてはいけないことが出てきた。まあ、和尚様に伺うのもいいだろうが、宮司さんは網元一族の方でもある。やはり宮司さんにお話を伺う方がいいだろう」

「読書のお時間でなんか出てきたのか」

 俺が結城に続いて訊ねると、まあねと比企は認めた。

「だが、まずは何か腹に入れたいな」

 比企が情報共有しておこうと言い出したのは、山狩りを手伝っていた三人と合流し、朝っぱらからラーメン屋へ入り、ラーメン四杯で腹を満たしてからだった。

 店を出て、港の端っこのささやかな砂浜で、比企はラーメン屋の脇の自販機で買ったお茶を飲みながら、周囲に俺たち以外の誰もいないことをそれとなく確認して、海風に煽られないように注意深く、腕に抱えた書物の、細く短冊を挟み込んだページを広げた。

 風でページがめくれたり短冊がすっ飛んでいったりしないよう、円陣組んで自分達の体を風避けにしながら、俺達はそこに書かれていることを読もうと額を集めた。

 うん、読めねえ。達筆だ。

「源これなんて書いてある」

 比企を除くと唯一、毛筆の崩し字を読めそうな国文学専攻の源に振った。ちょい待って、と源が解読を試みる。

「えーと、よ、りま、し? であってる? いや俺もそんなにすげえいっぱいこういうの読んでるわけじゃないからな、たぶん、だけど」

「すげえ源。さすが国文学専攻」

「ヨリマシってなに」

 忠広が感嘆し結城がなぜなに期に突入。比企が淡々と解説する。

憑座よりましというのは、霊的な何かを乗り移らせる器のことだよ」

 それってもしかして、

「恐山のイタコ? 」

 俺の呟きに、御明察ヴォワラ、と比企はうなずいた。

「まあ、あれは憑座という設定の見世物だが。津軽弁のマリリン・モンローなんて、ショーアップの産物でしかないだろう」

 なんだかよくわからないが、イワコデジマ案件っぽいな。

「これは宮本先輩のご先祖一族の人別帳だ。これを見ると、どうもミガワリサマだけではない、特殊な子供がいたみたいだ。和尚様がどの程度ご存知かはわからないが、少なくとも宮司さんは宮本一族のお一人で、しかも一族の誰かが宮司を務めてきた神社の、当代の宮司だ。まるっきり何も知らないなんてことはまずありえない」

 比企は言いながら、それとなく周囲に視線を走らせた。何もない砂浜、その向こうは冬の大西洋。反対側は町だけど、早朝のことで、たまにあらわれるのはせいぜい、お散歩ワンちゃんを連れてるんだか連れられてるんだかはっきりしないおばさんや高齢者が数人くらいで、それだって砂浜にはまず降りてこない。夏場ならともかく、今の時季に海で水遊びなんかさせたら、犬も人間も風邪をひくだろう。

 だがその前に、と比企は書物を閉じた。

 そういえばさっき写真撮って送ったときに、丁度岩穴の手前辺りでまさやん達と会ったよ、と忠広。まさやんもうなずいた。

「俺と先輩とで一緒に山狩りで組んでた人が、子供の頃からここらの山は遊び場だったって人でよ。神社の裏で教授のマフラーが見つかったって聞いたときに、あそこか、ってすぐ見当がついたみたいだったから、案内してもらったんだ」

「結構山の中入っていく感じか? 」

 俺が訊ねると、そうでもねえなとまさやんは答えた。

「二百メートルくらいだったか、でも傾斜があんまりキツくないから、バカみてえに山の中に分け入っていくって感じはあんまりねえな。忠広でも鼻毛で歩けるルートだ」

「ひでえな! そりゃ俺鍛えてないけど! だからって親友をもやしみてえに言うなよう! 」

 まあ、表現の問題は置いといて、地元の人の感覚としては、子供の遊び場の圏内ではあるようだ。これ以上奥へ行けば道に迷って危険だけど、山で仕事をする大人が子供の行動を把握できるぎりぎりのラインにあるみたいだ。子供達も、この辺なら大人が歩いているとわかる。

 まずは岩穴を先に見ておこう、と比企が言って、全員でゾロゾロと町を歩いた。いい加減、朝日も眩しくなり始めて気温も上がってきている。神社の境内に入る手前、石段をほぼ上った辺り、最後の何段かで、先導しているまさやんがこっちだ、と脇へ逸れた。

 そのままぐるっと境内を迂回するようにして、神社の本殿の真裏に出ると、そのまままっすぐ山へ踏み込んでいくのだけど、傾斜はそこそこあって、五分も歩くと俺と忠広は軽く息が上がってきた。結構しっかりクッションが入ったスニーカーなんだけど、それでもなかなかの山道だ。みんな足元を気にしてゆっくりと歩く中、比企だけがきれいに舗装された道でも歩くように、気軽に歩いていた。

「師父は仙人、ミーチャ・ロマノヴィチは元山岳兵。山男二人に育てられれば、いやでも山の歩き方は身に染みついてしまうさ」

 すげえな山男、と感心する間に、お目当ての岩穴にたどり着いた。

 そうだな、なんて言えばいいんだろう、誰か寝てるときの布団の、端っこがちょっと持ち上がって頭が出てるでしょ。そんな感じで斜面の一部分がなだらかに盛り上がってて、布団の隙間にあたる岩穴は、穴っていうより亀裂って感じだった。あんこぎっしりなどら焼きの断面図の、中心のあんこ部分を空洞にしたような、そんな形。確かにこれは、繭ちゃんが這い込むくらいが限度だろうな。比企も厳しいんじゃないのか。

 それでも腹ばいになって、果敢に挑む比企。挑戦することに意義がある。が、腰まで這い込んだ辺りで、バッタンバッタンと足がばたついた。慌てて桜木さんが比企の針金足を抱えて引っ張り出す。

「プハッ」

 ため息を一つ、いやあ空気ってうまいな、と比企は深呼吸。

「ダメだな、私もさすがに入れなかったよ。もう少し小柄だったら行けたんだろうが」

「小梅ちゃんは今のその状態がいいんだよ! 」

 あの、そこで力説なさらなくても。

「いやまあ、確かに今これだけかわいいんだから、小さい頃もかわいかったんだろうけどさ」

 はい次行こう次。

 しかし、これはただの岩穴というより洞窟の出口という感じだったな、とコートの前をはたきながら探偵が言う。言いながら同時に考えて、思考の過程をそのまま自動口述しているような口調だ。

「しかしこの出口が、ここ一箇所のみなのか、それとも複数あるファイナル・ファンタジーのダンジョン式なのかが問題だが」

 あー、まあ確かに出口がいっぱいだとめんどくさいよな。でもその例えはなんだ。

 とりあえず自分で直接現場を見て、サイズを確認できて満足したのか、それでは行こうかと切り替え、比企は元来た道を逆戻り。

 さっき脇道へ逸れたところから石段に戻り境内に入ると、社殿の前を掃き掃除していた宮司さんが俺達を見つけ、おはようございますと声をかけてきた。

「昨夜は大変でしたなあ」

「宮司さんはおやすみになれましたか」

 比企が世間話モードの顔ですっとぼける。宮司さんは、いやあ、と苦笑いした。

「二時を回ったところで、県警の警部補さんでしたか、私と和尚に、付き合わせるのもなんだからと、一旦引き揚げるようすすめてくれまして、帰りはしましたが、どうにも目が冴えて寝つけませんでしたな」

「そうでしたか。こちらは全員徹夜でした」

 赤毛の探偵に、それでも若い方は元気ですなと宮司さんは笑い、うちの古書はお役に立てそうですかと立ち話の気楽さで訊ねる。比企はええまあ、と曖昧にうなずいてから、無造作に本題を放り出してみせた。

「ヨリマシサマ」

 宮司さんが、表情も姿勢も一切変えず、それでも静かに緊張する。

「という表記が、時折見られますがね。これは一体何者なんでしょう」

 表情ひとつ変えずにぶっ込む比企の質問に、こちらも穏やかな笑顔のまま、宮司さんがスッと背を伸ばし、そうですねと口を開いた。

「きっと、それについて冷静に話をできるのは私だけでしょう。お話ししましょう、町のこと、ミガワリサマとヨリマシサマのこと」

「ありがとうございます。──それじゃ、」

 まずは掃除を手伝って終わらせなくてはな、と言うと、比企はちりとりを拾い手に取った。

 

 江戸幕府によって寺の本末制度が整備されて、当時の戸籍ともいうべき人別帳が成立するようになってからの記録だけでも、ミガワリサマは少なくとも十数人が確認できたと比企は言った。

「四世代から五世代の間隔で生まれたミガワリサマは、全員が揃ったように短命で、三十を越したものは一人もいない。二十代前半で長寿と言っても差し支えないくらい、ミガワリサマは短命で、まあ、だからこそ『町の皆の厄を肩代わりしてくれる』という信仰の理由になっているわけだが」

 場所をこの前の社務所の応接間に移して、宮司さんがお茶を淹れてくれたところで、比企はそう切り出した。

 持ってきた古書をこたつ式座卓の上に置いて、こよりを挟んだページを開いていきながら、

「そうした記録を辿る過程で、ごくたまにヨリマシサマという記述にぶつかるようになった。江戸中期に一人。幕末から明治に差し掛かる頃に一人。昭和の終わりに一人。明らかにミガワリサマ以上の慎重さで記録されていて、どこから出現するのか、どんな存在なのか、共同体内での役割は何なのか、ミガワリサマとの差異はどこにあるのか、残っている文献からは何も窺い知れなかった」

 表紙に太字ででっかく「人別帳」と書かれた大福帳みたいな綴り、その昔の青松寺の住職や住吉神社の宮司達が記録した日記や覚え書き、そんなものを数冊、バサバサと座卓いっぱいに広げながら、宮司さん、と比企は呼びかけた。

「ヨリマシサマというのは、一体何を憑依させるための存在なんです」

 そうだ。さっき比企は、憑座について行っていたではないか。霊的な何かを乗り移らせる器だ、と。それなら、ヨリマシサマとは一体何をその身に宿らせるものなのか。

 宮司さんは瞑目して、大きく深呼吸をひとつすると、私も詳しいことは知りませんがと前置きしてから、お茶で喉を湿らせ語り始めた。

「ヨリマシサマについては、本当に珍しいもので、私の先代もその前も出会ってはおりません。ただ、この神社の宮司の間では代々語り伝えられ申し送りされてはおりました」

 ヨリマシサマとは、

「この神社の祭神を神降しするための器となる子供です」

 え。

 俺達が揃って声を上げ、桜木さんが驚愕し、比企は狼の目で宮司さんを見据えた。

「そうですか」

 随分あっさりした反応だな。驚いてないのか? 俺は驚いたよ?

 まあそのくらいのことは想定していたからね、と俺に向かって言いなすった。

「八木君はいささか愉快ではなさそうだけど、なんのための憑座なのかとなると、選択肢の一つにはなるだろう。ただ記録をあたる中で、このヨリマシサマに関連して、他にもいくつか疑問があるからね、そこをクリアにして行かないことには、何もわからないのと同義だよ」

 ずっと黙って話を聞いていたまさやんが、口を開いた。

「比企さん、このメンバーだけで宮司さんと会うように狙ってただろ」

 まじか。比企はあっさり認めた。

「そりゃあ、この手の習俗は掘り返すと何が出るかわからないからな。先輩にとっては知りたくもない、ご先祖の行いが出てくるかもしれないだろう。他人ならまだしも、網元一家の宮本家は現実にこの町に存在しているし、下手をすればあまり褒められたものではない先祖の行状や、共同体内の風習として認識されているから大目に見られているだけの、違法行為そのものが飛び出るかもしれない。当事者にしてみれば、余計なお世話でしかないよ」

 だから今ここにいる七人限りの胸にしまっておくだけにとどめるのが一番いいんだ、と結んで、赤毛のロシア娘は座卓の記録どもに視線を落とした。

 それにしても、だ。俺はここでひとつ気になった。

 それじゃあ。

「それじゃあ、そのヨリマシサマが乗り移らせる神様って、一体どんな神様なんですか」

 俺の質問に、全員の視線がこっちに集中した。

「そういえば」

「住吉神社って、どんな神様だっけ」

「ときどき見かけるよな、お稲荷さんほどじゃないけど」

「なんの神様」

 源、忠広、まさやんと結城が疑問符を並べていく。それから俺も含めて、揃って比企を見た。

「住吉神社はザックリ言うと航海の神。日本書紀と古事記の記述で表記の違いはあるが、底筒男命・中筒男命・表筒男命の三柱、いわゆる住吉三神を祀るが、住吉大神となっている場合は、この三柱に息長帯姫命を含めて祀っている。本地垂迹では住吉三神を各々、薬師如来・阿弥陀如来・大日如来と照応させている」

 比企は淡々と解説。まあ、ここは漁師町でもあるし、それなら住吉神社があったところで何も不思議じゃない、と続けた。

「だが、本社ならともかく分祀した末社で、一体どんな祭神を神降しするんです」

 その言葉に、宮司さんが目頭を揉みながら答えた。

「私も若い頃にそう思いました。まだ学生で、この神社を継がないかと言われたときに。東京の大学からこの町へ戻り、この神社を継ぐと、私はだから真っ先に、蔵の整理だと言って、めぼしい古い記録を探し出した。そして、この社の由来書を見つけた」

 それを読んだ宮司さんは、書かれていたことに釈然としないものを感じたという。

「祭神は恵比寿神だとありました。ただ、それならどうして住吉神社を名乗ったのか」

 恵比寿神、と聞いて、比企がちょっと目を丸くした。それから小さく確かに、と同意する。

「恵比寿信仰であれば、明治初期の神仏判然令でも堂々としていればよかったはずだ。なぜいきなり祭神の名を変えた? 」

 またしてもよくわからん疑問の持ち方してるな。そうです、とうなずいてるのは宮司さんだけだぞ。

 困り笑いで小首をかしげる無垢な俺達の様子を見て、比企はまたザックリ解説。

「明治維新で皇室の権威が戻り、徳川が帝陛下の一臣民に戻ったのは皆知っているだろう。皇室は神道の領袖ともいうべき立場だ、明治新政府が真っ先に取り掛かった政策の一つが、溶け合って判然としなかった神社と寺院の分離だった」

 そういえば、いつぞやの京都への旅で当時に行ったとき、五重塔の壁画が削り取られて見るも無惨な姿になっていたっけ。なんでも明治に入ってすぐの頃に、新政府支持派の暴徒に削り取られたって言ってたな。なんでわざわざ分別するん、とか思ってたけど、そういうことだったか。

 で、比企によると、このときに神社として認められはしたものの、祭神が怪しい小さな神社のほとんどが、祭神の名前を偽って届け出たのだそうだ。

「新政府は、日本書紀や古事記に名前がない神は認めなかったからな、生き残りに必死な神社は皆、こぞってメジャーな神に祭神の名を改めて届け出たんだ。元々は山神や村の鎮守といった土地神を祀っていたからな、名前どころか御神体だって、存在するのか怪しいものだ」

「どういうことなんだってばよ」

 なにせ俺達は違いのわからない男、いきなり神様の名前をすげ替えるとか言われましても。

「祭神がはっきりしていれば、政府からお墨付きが出て税金も免除される。とりあえずそういうことにしておこう、と思わせるには十分な理由だろう。そうだな、わかりやすく言うなら」

 証人保護プログラムのようなものだよと比企は噛み砕いて説明した。

「犯罪に巻き込まれ、重要な証言をした人間が、被告の逆恨みの対象になる可能性が高い場合、刑期を終えた被告が復讐のために探し出そうとしてもたどり着けないよう、新たな戸籍と身分を司法と行政で用意して保護するアレだよ。この場合は新政府からの優遇が目当てで改名するわけだけど」

 おお、とどよめくあほの子五名。それで、と比企は水を向けた。

「他に何かわかったことはありましたか」

「そうですね、本来の御神体についての記述が簡単にありました」

 比企が目顔で促すと、すっかりぬるまったお茶で喉を湿らせ、

「海、とだけ。ただそれが、海そのものなのか、海から上がった何かなのか、そこまで明確には書かれていませんでした。どちらとも取れる文面で」

 おそらく後者でしょうねと比企は断言した。

「海そのものなら、最初から恵比寿を祭神にはしないでしょう。海から打ち上げられたものこそが恵比寿なんですから」

 つくづく惜しいな、と頭を掻きむしって、由来書を読めれば言うことはないんだが、と比企はため息をついた。

「だが、今ここにないものを惜しんでも仕方ない。やれることから片付けるまでだ。シン、」

 町役場に掛け合って、先輩の一族の戸籍を出してもらってくれ、と頼んで比企は肩を揉んだ。

「できるだけ詳しく、そうだな、過去六世代くらいは遡ってもらえると検証しやすい。可能なら、学歴病歴犯罪歴に職歴、総ざらえで。なにせ私には弾数がない。できるだけ早く頼む」

 それからもう一度、ぶはあっ、とでかいため息をひとつ、役所からの仕事はなあ、金にならないんだよなあ、とぼやいた。 

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