第67話 五人とひとりと海から来たもの 3章
いかにも老紳士といった風の、背の高い宮司さんは、神社を訪れた俺達を社務所の応接間に通し、腰を落ち着けたところで、驚かれたでしょうと朗らかに笑った。
「狭い町にこれだけの人間が暮らしておりますからな。しかも昔から代々住んでるもんが大半だ、あの渡海船の調査ひとつとってもまあ色々あります」
矍鑠としているのは宮本本家のご隠居と同じだけど、ご隠居とは雰囲気が違う。いかにも網元一家の総元締めといった感じの豪快な爺さんのご隠居とは好対照で、知的で穏やかな、スーツでも着ていれば英国紳士に見えそうな感じの人だった。
鼻筋と眉の辺りがご隠居とよく似ているが、宮司さんはご隠居の末の弟なのだと言って、長男と三男だけがジジイになるまで生き残ってしまったなあ、と笑った。ご隠居のすぐ下の妹、宮司さんのすぐ上に次男坊の兄。すぐ上の兄は若いうちに事故で、妹は数年前に孫や曾孫に囲まれての大往生。さっき和尚さんが刀自と言っていたのが、このお婆さんのことみたいだ。
「私は子供の頃から、学校の勉強も苦にならないたちでしてね。この神社は昔から、宮本の家の誰かが継ぐ習わしになっていたんだが、私の祖父が、私に継ぐ気はあるかとね、そう訊くわけだ」
町の住民の精神的支柱である檀那寺と神社である。跡を継がせるなら、きちんと教育を受けさせ、分別をつけさせることが必要だ──ご隠居と宮司さんの祖父はそう考えて、宮司さんの教育には金を惜しまなかった。ご隠居も、本家を継がせるにはそれなりの学歴で箔をつけさせねばと、県立の大学へ通っていたが、宮司さんは県でも随一の進学校から東京の大学へ入り、大学院まで進んで学問に励んだのだそうだ。神職に就くのだ、ただ学歴をつければいいというものではない。馬鹿では務まらないのだ。
兄弟で大学まで進んだのはご隠居と宮司さんだけだったが、それが元で兄弟の仲がこじれたとかは、まったくなかったそうだ。二番目の兄は勉学に興味がなく、高校を卒業するとすぐ、趣味だったバイクショップに就職して、刀自は専門学校でジュエリーデザインを学び、大阪の宝飾店に就職して、勤め先で出会った男性と結婚したそうだ。先輩の一族は結構なお金持ちみたいだけど、それでもお金や後継で揉めるってのは、安いドラマくらいでしか起こらないのだろう。現実はいつだって、見ている人間の想像力の斜め上か斜め下にしかいかないものだ。
宮司さんは独身で、長兄と姉の家族を外から見守ってきた。
「この子は元々、私の姉の孫が産んだ子でしてね」
繭は今まさに自分のことが話題になっているのにも気付かぬ風で、宮司さんがお茶請けにと出してくれた芋餡の饅頭を無心に食べている。
「ただ、この通りの子ですから。親は和歌山の市内で勤め人ですが、まさかこの子の面倒を見るために勤めをやめろの、町に帰ってこいの、というわけにもいかんでしょう。兄が養女として引き取って、以来この町で暮らしております。実の親は生活を壊さずに済んで楽、本家はミガワリサマを迎え入れられて万々歳、と、どちらにもいい結果が出ました」
「繭ちゃんは、ご両親といたいとか、逆にこの町から出たくないとか、希望はないんですか」
気になって質問する俺だが、宮司さんは穏やかに笑って答えた。
「一度本人に訊いてみたことがありましたがね、嫌だと言われましたわ。都会はおっかないから町がいい、とこうです。一度、市内の親のところへ連れて行ったことがあるんですが、買い物に連れて行ったショッピングモールで迷子になりかけたもんで、それがいまだに残ってるんでしょうな」
なるほどな。初めて行った場所で迷子になりかけて、それじゃあ都会は怖いと思ってしまうのも無理からぬことか。しかも繭は平均的な同年代の子供より繊細なぶん、その辺の印象も強烈なのだろう。
そこで比企がふと、口を開いた。
「先ほど、バス停のそばのお寺にお邪魔したのですが、和尚様からミガワリサマについて大まかなお話を伺いました。もしかして、ミガワリサマの習俗、というか、繭さんのような子供が生まれる事例が、昔からあったのでしょうか」
宮司さんがちょっと目を丸くした。
「和尚様からは、繭さんがミガワリサマとして町中の大人達に愛され敬われているということを伺いました。しかし、突然繭さんのような、世間ではハンディキャップを持っていると判じられる子供が生まれたとき、共同体内で必ず敬愛されるかといえば、決してそうとは言えないでしょう。今の繭さんを取り巻く環境を考えると、やはり昔から、こうしたことが幾度かあったが故ではないのかと思いまして」
ふむ、と比企の言葉に考える宮司さんは、伊織さん、と先輩に声をかけた。
「面白いお嬢さんを連れてきたもんですね」
穏やかな笑顔でうんうんとうなずいて、少々お待ちください、と席を立つ。
「寺と神社は昔から本家と付き合いが深いんだけどさ、ああいう爺様だから、結構面と向かって話すると緊張するんだよな」
きらいじゃないんだけどな、と先輩は、お茶を啜って繭に自分のお茶請けを寄越した。
「話すと結構冗談もわかるし、話しやすいんだけどさ。あの通り、本家の曾祖父さんや祖父さんより品があるだろ」
まあ、わかる気はする。砕け具合で並べるなら、本家のご隠居→和尚さん→宮司さん、という感じか。ご隠居が一番砕けた感じだ。やっぱり高等教育のちからって、こういうことなんだろうか。
宮司さんは、社務所の奥、住居部分から古い本を持って戻ってきた。私家版というのか、自費出版というのか、薄い本の表紙には「凪の浜の民話・伝承」とタイトルが入っている。
「恥ずかしながら、若い頃に大学の友人と一緒にまとめたものです」
こちらに、と宮司さんはページを開いて、どっしりと立派なコタツ式座卓の上に広げてくれた。
拝読しますと比企がひと言、全員で順繰りに読んでゆく。
そこに記された町の伝承は以下の通り。
その昔、旅の六部がまだ鄙びた漁村だった凪の浜の集落を訪れた。一夜の宿の礼にと、網元の娘の病を治した六部だが、欲に憑かれた網元は六部を殺し、病を治す方法を記した秘伝の巻物を娘の持参金がわりにして、領主に嫁がせた。が、今際の際に六部が吐いた呪いの言葉の毒によって、それ以降網元の一族には、数世代にひとり、ただ美しいだけの忌み子が生まれるようになった──。
そして時代が降るにつれ、忌み子は生まれ出る苦しみと一緒に、一族の厄を代わりに背負ってくれたが故の障碍と解されて、それは村の顔である網元一族から拡大解釈され、共同体全体の災厄を肩代わりしてくれたのだと変容し、忌み子はミガワリサマという名前を獲得した。
そうか、だからこそ町の高齢者は繭を手厚く遇し、自身の孫のように愛するのか。
ところで六部ってなに。
「ところで六部ってなに」
俺が訊く前に結城がのほほんと訊ねた。
比企はおやおや、と困ったように眉尻を下げる。
「結城君は六部殺しの民話を知らないのか? ──うん? どうした、まさかみんな知らないのか? 」
「知らない」
「知らない」
「なんだそれ」
みんな揃って首を横に振るので、仕方ない、と探偵は苺色の髪を掻き回して、唐突にレクチャーを始めた。
「六部というのは、いわゆる六十六部の巡礼僧のことだ。六十六回写経したものを持って、日本全国六十六の寺を行脚し、一部ずつ奉納して回る行を行う。そしてこの冊子に掲載されたミガワリサマ誕生の物語は、いわゆる六部殺しと呼ばれる、民話や説話における一つのヴァリアントに分類される」
「六部殺し」
「昔話って結構殺伐展開多いよな」
源が鸚鵡返しに呟き、まさやんが情けない顔でぼやいた。
「六部殺しってどんな話なんだ」
忠広が水を向けると、名前そのままの内容だと比企は答えた。
「旅の巡礼層に宿を提供した貧しい家が、欲に取り憑かれて巡礼を殺し金品や秘伝の巻物を奪い、それを元手に財をなすが、巡礼の恨みを買い呪いを受けて、何某かの祟りを受ける。ヴァリアントによっては生まれた子が六部の生まれ変わりで、犯した罪を告発されたり、あるいは、」
そこでチラリと饅頭をゆっくり食べて、ホットミルクを飲む繭に一瞬視線を投げ、
「子々孫々続く呪いを残したりする」
この冊子を見るに、なかなかの毒じゃないかと比企は鼻を鳴らした。
「そんなに欲を満たしたいなら存分に満たせばいい。娘の美しさを利用して金を得るなら得ればいい。ただしこの先、お前の一族に生まれるのは、娘と同じように見目はよいが知恵には劣る木偶ばかりだ。お前の子孫は花のように栄え、花のように散って終わる、それが似合いだ」
網元とは名ばかりだった宮本のご先祖に、六部が投げた最後の言葉をそらで引用すると、辛辣じゃないか、と奴は皮肉な笑いを薄く浮かべた。
「ここまでの毒はそうそうお目にかかれないぞ」
確かに物凄い悪意だ。美人の娘を殿様に嫁がせて左うちわじゃ、とか言ってウハウハしてる親にここまでの毒を吐きかけるのだからおそろしい。冷や水かけるどころか、氷水にアイヌの涙仕込んで放水車でぶっかける勢いだ。
かくして、宮本の一族は金や地位と引き換えるようにミガワリサマが生まれる運命を背負うこととなった。
それまでご機嫌で饅頭を食べていた繭が、あのねえ、と宮司さんにニコニコ話しかける。
「伊織にいちゃんのおともだちねえ、おふねみにきたんだって」
「この前流れ着いた船のことかな? 」
宮司さんも幼い子供に話しかけるように、優しい調子で相槌を打つ。それでねえ、繭がつれていってあげたんだよ、とちょっと自慢げな繭。そこで話題は、あの渡海船へと戻った。
「あれも随分と不思議なものです。最初はどこから来たのかと、皆首を傾げたものですが、港に引き揚げてみれば、扉に大きく出港の日と、凪の浜より出帆す、と墨で書き込まれていましてね、それで正体が分かりました」
「墨で? よく残ってたなあ」
結城がぼんやりため息をつくが、墨って意外と残るんだぜ、とは日本文学専攻の源の言だ。
「墨汁って千年経ってもくっきりはっきり残るんだぜ。だから古文書とか、今でも翻訳すればちゃんと読めるだろ」
なるほど確かに。
「その日付から、まず寺で和尚が過去帳やら当時の記録やらを確認し、私も気になりましてね、うちに──本家の蔵やここに残る記録やら、総ざらえで探して、やっと当時の宮司が残した日記を見つけました」
夏場なら、探しついでに虫干しもできたんでしょうが、いやはや、と穏やかに笑う宮司さん。ほほう、と食いつく比企。
「寺でもうちとご同様のようですな。お互い、片付けが大変だとぼやき合っております」
「それは、さぞや貴重な記録が唸っているのでしょう。実に興味深い。私でよければぜひお手伝いしたいですね」
「おーい比企ちーん」
「比企さんじゃ、手伝うって言って作業始めた側から読み出しそうじゃん」
結城と忠広が茶々を入れる。でも確かにそう。「これは貴重な」「リアルタイムで記録されているとは」「当時の世相がよくわかる」とか言いながら読み耽りそうだ。これだから書痴は。
俺がそう言って二人に同意すると、宮司さんが愉快そうに笑った。
「いやいや、こんなど田舎の小さな神社です、大した記録など残っちゃおりません。ご期待を裏切るようで申し訳ないですが」
ご謙遜を、と比企も笑顔で、
「でも、こんな機会でもなければ、なかなか蔵で眠る古い文書などには目がいかないでしょう。調べてみれば、町についての古い記録など出るかもしれませんよ。地域の資料館や図書館に寄贈するのもいいかもしれませんね」
整理に人手が必要でしたらぜひ、と奴は続けた。
「冬休みの、この町に逗留する間だけではありますが、微力ながらお手伝い致します」
「これは頼もしい。和尚ともちょっと相談してみましょう。実現したら、真っ先にお声をかけますよ」
宮司さんもにこやかに応じた。
六部殺しというのは、江戸の頃にそのスタイルが完成したものであるようだ。
巡礼を殺し富を得た夫婦に生まれた子供が六部の生まれ変わりだった場合、両親の罪を指弾するとき「こんな晩だったよな」と語り出すことから「こんな晩」とも呼ばれる、らしい。
パターンは宮司さんとの面会で比企が解説した通り。凪の浜の町で語り継がれ、生ける証拠として繭が存在するわけだが、ここでは今際の際の六部によって呪いを受けるというオチになっている。
あほほど博学で、生活には役に立たない知識なら右に出るものはない比企によれば、宮本先輩の一族がいまだに町の名士としていられているのは、どうもご先祖の戦略が見事にハマったからだそうだ。
「うまいこと持っていったものだよ。見事だ」
奴は感嘆していた。
「呪いを祝いにひっくり返したのさ。呪われているからこんな子が生まれた、ではなくて、一家の厄を肩代わりしてくれたありがたい子だ、と言い換えたことで、呪いは祝いに変わったんだ」
すげーな、とのんびり結城がうなずく。
「そう、すごい。なかなか思いつくことじゃない。このロジックを考えたのは、相当賢い人物だ」
今生きていたなら、会って話してみたいものだよ、と比企は大きく伸びをした。
俺達は一度繭を本家の屋敷に送って、そのまま外へ遅めの昼飯をとりに出ている。町の中で食事ができる店は、バス停前の定食屋ともう一軒、港のそばのラーメン屋で、今いるのはこっちの方だ。
もう少しいい加減なラーメン屋なのかと舐めてかかっていたのだが、意外や素朴なラーメンはしっかりとうまくて、思わず替え玉を頼みたくなってしまった。というか、比企は既に替え玉どころか、スープまでがっつり飲み干して二杯目を終えようとしている。あ、追加頼んでら。カウンターの向こうで、枯れかけた爺さんが驚愕してるぞ。
渡海船の調査をしようと言い出したのは、青年団長だったようだ。宮司さんも和尚さんも、そんなことを言っていた。
とにかく町に観光客を呼び込み、世間の注目を集め、こんな静かでよい環境の町ならばと思う人へ移住を呼びかけたい、という目論みのようで、青年団とは名ばかり、若者世代と言って出てくるのが三十代四十代のメンバーばかりが片手で足りるほど、というのが実情で、その辺りもどうにか改善したい、と思っているようでもあった。
静かな田舎町にありがちだけど、若者はみんな、進学で町を離れると二度と戻ってこないのだ。いい学校に行っていい仕事について稼いで、となると、町の中では無理だ。漁師になるかみかん農家になるか、それとも農協漁協町役場郵便局で事務員になるか。選択肢が乏しすぎるのだ。かといって、和歌山の市内やもう少し開けた近隣の町へ通勤するのも、交通の便が今ひとつよろしくない。バスや定期船では悪天候のときには止まってしまうし、自家用車で通うのも条件は変わらない。漁師さんの中には、自宅を民宿にして、自分で取った魚を食事として宿泊客に提供する人もいるけど、それだって漁師さん全員がやるぞと決めたら実行できるわけじゃない。小さな町で仕事を探そうとなると、限られたパイを奪い合うような、しかもそのパイはそれほど大きくはない、まあ、言いにくいけどそういうことだ。
これで、何かしら新しい仕事の口が出てくるならまた別なんだろうけど、とにかく今のままだと高齢化一直線、若者世代が減る一方で先細るばかりだ、と焦っていたところに、あの渡海船がひょっこり戻ってきた。
事情を知ると、うーん、まあそりゃ夢見ちゃうよね。青年団長や町長のおっさんの気持ちもわからなくはない。でも一方ではまた、和尚さんの気持ちもわかるのだ。仏様が寝てるのに、生きてる者の都合で、言ってみれば墓荒らしのような真似をするのは罰当たりでしかないだろう。
俺は神社を引き揚げる間際の、宮司さんの言葉を思い返していた。
宮司さんは、渡海船の調査をすることをどう思いますか、と源が訊ねたのに対して、そうですね、と困ったように薄く苦笑して答えたものだ。
「あのままもう一度、海に送るのが一番よかろうとは思います」
その言葉に比企がうなずいた。
「私もまったく同意見です」
え。あんなものを見たら、真っ先に詳しく調べようやとか言い出しそうな、暴力的なほどの知的探究心に溢れた奴の言葉とも思えない。でもこの表情は腹の底からそう思ってるときの、目の光に遊びがない、まじのやつだ。
あのさ、と俺は切り出した。
「比企さん、さっきの宮司さんに言った、あれはどういうこと」
目顔だけで続きを促すラーメン女。
「もう一遍海に流せとかさ」
源が、忠広がまさやんが結城が、宮本先輩が、俺と比企を交互に見遣る。そう、宮本先輩はどうかわからないけど、いい加減付き合いの長い俺達はみんな、宮司さんの言葉に同意した比企に驚きを隠せずにいるのだ。
おかしいじゃんと俺は疑念をぶつけた。
「比企さん、普段ああいうもの見たら、調べようやって言いそうじゃん。きちんと調査して、どう扱うか決めるのがいいって」
比企が一瞬言い淀むなんて珍しい。
その沈黙を捉えたかのように、ヘイお待ち、と次のラーメンが出てきた。勢いよく啜り込んでから、赤毛の探偵が、あれは、とポツンと漏らす。
「私の勘が的中していたとしたら、あれは、関わってはいけないものだ」
「なんだよそれ」
忠広が鼻白むが、比企はすまない、とひと言詫びた。
「今はそれしか言えない。第一、まだどちらともつかない段階なんだ」
昏い目で、そんな風に低く静かに詫びられては、もう何も言えない。黙って俺達は麺を啜り味玉を崩してスープを吸わせて齧っていた。
そこに次の客が入ってきた。
あの、さっき倉庫で会った大学の先生と、助手と思しき学生が二人。口々にどうしたものかと言い交わして、空いていたテーブルの一つについた。
そこで三枝教授の方が俺達に気づいた。
「やあ、さっきはどうも。ああ、昼食かな。ここのラーメン、なかなかいけるでしょう」
どうも、ともぐもぐやりながら挨拶を返す俺達に、教授はどうです、と水を向ける。
「我々も、できればあの扉をこじ開けたりせずに調べたいものだけどね。どうもあそこまで大きいと、非破壊検査やレントゲン撮影も難しくてね。今は小型の撮影機材もあるものの、できることは限られてしまってお手上げだよ」
比企はふむ、とわずかに考え込み、それからパッシブ・ソナーはどうですと訊ねた。
「あれはさして大きなものではない、携帯可能なサイズだから、持ち込んでいらっしゃるのでは? ないならないで、ここは港町。漁船の魚群探知機を借りて応用すれば、多少中の様子はわかるのではないでしょうか」
その言葉に、ああ、とため息をつく学生達。「僕らも金属探知機を持って来られないかと思ったんだけどね」
「今回は本当に、大掛かりな調査隊を組んでかかるものなのかを調べるための、言ってみればプレ調査みたいな目的だからさ。借り出せなかったんだ」
あー、なるほどね。
「つまり、皆さんが今調べている結果次第で、今後の扱い方が変わって来るということですか」
先輩がうなずいて、教授と助手二人がそうなんですよと同意した。
「こじ開けるまではいかなくとも、せめて扉に少し、一センチもないくらいの穴を開けて、そこから小型カメラでも入れられれば、すぐ判断がつけられるんだけどね」
それができればねえ、と教授が助手の言葉にため息をついた。比企は淡々と、それは難しいでしょうね、と断言する。
「なにしろ和歌山は補陀落渡海の本場。百年も経って戻ってきた渡海船にそんなことをすれば、罰当たりめ、と町総出で袋叩きにされても文句は言えないのでは」
まさに仰る通りで、と助手の片割れ、MA–1を着込んだセンター分けヘアの学生がうなだれる。
「町長さんとか青年団長さんとか、町の中でも比較的若い世代の人は、先がありますから観光とか移住とか、誘致して盛り上げたい分、理解してくれてるんですけどね。お年寄りがどうにも」
「僕らそこの民宿に泊まってるんだけどね、民宿のおばあちゃんにも、大事な研究なんだろうけど、あんまり罰当たりな真似はよしなさいよって叱られちゃいましたよ」
短く刈り込んだ黒髪の、前髪をやや長く残して立てているもう一人、さっきも教授と一緒に顔を合わせた緑川青年が、情けない顔であーあ、と肩を落とした。
補陀落渡海は軽率に扱えないものですよと比企は言って、ラーメンのスープを飲み干した。
「なにせ仏に会いたいと、極楽を目指して船出するんです。失敗例を文献で見れば、初期には旅立ったものの挫折して戻ると、今度は浜から送り出した村人総出で叩き殺されたりするケースは枚挙にいとまがありませんし、そうでなくても死後の名声欲しさからか、貴族や武将が補陀落寺で形ばかり出家して船出した例もある。そういうものを、いくら学術調査とはいえ、扱う手つきが乱暴であれば、土地の住民の反感を買って、下手すれば町中が結託し袋叩き、なんてことにもなりかねないでしょう」
おっそろしいな。でも確かに、地域で敬われているものや習俗を雑な手つきで扱われれば、地元の人からすれば不届き千万、としか思えないだろう。
魚群探知機か、と三枝教授がぼんやり考え込むものの、すぐため息をついた。
「とりあえず町長と、青年団長さんに頼んでみるかな。とはいえ、貸してくれる漁師さんが出てくるかどうか」
「この調査、お年寄りには評判悪いですもんねー」
「若い人ならどうかって言っても、盛り上がってるの、実質町長と青年団長くらいだし」
ヘケッ、とやさぐれた苦笑でぼやく助手二名。何だか先行き不安な調査だな。大丈夫か?
食後の腹ごなし、というわけでもないけど、何となく調査隊の師弟と一緒に、渡海船の倉庫までぶらぶらと散歩した。
倉庫へ行き着いたところで、開け放たれたシャッター扉の前で、激しく言い争う声が聞こえた。
「だから、別に俺達は船を壊して調べようとか、見せ物にしようとか、そんなことは言ってませんって。ああもう、──見てくださいよ宮司さん、家から出て、町の中歩いてて、誰に会います? 今ここに来るまでに、若いもんとはどのくらい会いました? 年寄りばっかりじゃないか。こういう、外の人に興味を持ってもらえそうなものをうまく利用していかないと、先細るばっかりですよ。だから俺らでこうやって、」
「補陀落渡海に船出した者です。仮にも仏ですよ。それを何ですか、利用とは。拓厳さんにも散々叱られたでしょう、お若いあなたからすればくだらない習俗でしかないんでしょうが、もう少し年長者の言うことにも耳を傾けてはいかがです」
「そりゃまあ、俺だって誰かの死体を世間の目に晒してなんてごめんですよ。それでも、頼れるものには最大限頼って、外の人達にここを知ってもらうきっかけにですね」
「そんなことで有名になったところで付け焼き刃ですよ」
「まるで知られずに先細るよりはいいでしょう」
お、なんだなんだ。誰かと思ったら、青年団長の、えーと加藤さんだっけ。電気屋の跡取り。それと宮司さんが言い争っている。宮司さんは、さっき昼前に立ち寄ったときは、境内の掃除をしていたところだったので、白い着物に青い袴をはいていたけど、今は淡いグレーのセーターに濃紺のスラックス、臙脂色のスカーフをセーターの襟元から覗かせ、濃緑色の薄手のダウンジャケットという洒落たスタイルだ。一方で加藤さんは、さっきと同じ作業服姿だった。なんか、見事に対極だな。英国紳士と労働者って感じの二人だ。
「なんだどうした、ラッダイトの反乱か」
同じようなことを思ったのだろうけど、比企よ、その比喩はどうなのか。
そこで宮司さんがしびれを切らし、とにかく、とため息をついた。
「忠告はしましたよ。夢みたいなことばかり並べずに、もう少し目の前をよく見ることですね」
そう言い置いて、宮司さんはスタスタと立ち去った。その辺の若者より、俺達よりしっかりとした足取りで、背筋もしゃんと伸びていて、かっこよかった。
その背中を見送ってから、軽く微かに舌打ちをして、加藤さんも立ち去る。こっちはドタドタとした足の運びで、ごめんだけど、お世辞にもかっこいいとは言えなかった。
なんとなく気まずくて、俺達は妙にソワソワしながら、改めて渡海船を見る。
どうやって調べたもんかなあ、と三枝教授が、四方を鳥居に囲まれた船室を見遣る。
「私も、和尚様と宮司の意見に賛成です」
その場にどさりと投げ出すような声音で、比企は言った。
「できることなら、このままもう一度船出させたいところです」
「え」
いやーいやーいやーいやーいやー。調査しに来てる人たちの前で、それはないだろ比企さんよう!
思い切り突っ込みたかった。でもできなかった。比企の目はいつの間にか、俺達が首を突っ込んだり巻き込まれたり立ち合ったりしたいくつかの騒動の、一番肝心な、一番危険な場面で見せる色を含んでいたから。
狼のような目で比企は船室を見る。
「その昔、この町の目の前の浜から船出したものが、狙ったように同じ浜辺へ戻ってきた。近くの浜へ打ち上げられたというのなら、まあそんな偶然もあるだろう、くらいには思うが、まるで仕組んだかのように出発点へ帰ってくるというのは、実に気味が悪い」
おいおい、と弱々しく合いの手をかけるのは宮本先輩一人で、俺達五人はもう、誰も口を開かない。
比企は、戦友諸君は知っているか、と続けた。
「偶然はただ点々と散っているだけならただの偶然。その点を繋いだときに、歪な像ができると蓋然。その像が整然と整うと、人は必然と呼ぶ。果たしてこの偶然はどうなるんだろうな」
そう。あまりに見事に、偶然が重なっている。偶然、この浜に辿り着く海流に乗って、たまたま乗ったものが、昔ここから旅立った渡海船だった。偶然が二つ。この先、それは増えるのか。
これ以上はないと思うよ、と比企は狼のような目のままで苦笑した。
「いや、それでは正確ではないな。これ以上偶然が重なるなんてことがあってたまるか、が正直なところだ」
俺は、どこから生まれたのかわからない、ぼんやりした不安が、足元にヒタヒタと寄ってくるのを感じた。くるぶしくらいのところで、サワサワと足に絡みつく。牛乳みたいな色の、薄くて淡い不安だった。
ふと仲間の顔を見れば、みんな一様に不安を感じながら、それでもまさかと振り切ろうとしているのがよくわかった。
本当に、これ以上何もあってたまるか。
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