第66話 五人とひとりと海から来たもの 2章
凪の浜の町を流れる川沿いに、河口へ向かってゆっくりのんびり歩いている。時刻は朝八時を回ったくらいで、朝飯もそこそこに、慌てて出てきたものだから、まだ気温が上がりきっていなくてしんと冷え込んでいるのだけど、結城はマフラーを忘れて、でかいくしゃみを一つ二つした。その様子を見て、俺達を外へ引っ張り出した繭がケラケラ笑う。
俺達五人が目を覚ましたのは、六時半過ぎくらいで、示し合わせたわけでもない、目覚ましだってかけていないのに、なぜか揃ってバチッと目が覚めた。一分二分の誤差はあれど、ほぼ同じタイミングだ。うぇーい、と半分寝ぼけた顔でだらしない挨拶を交わしながら、順々に手洗いに立ち顔を洗い、着替えているといきなり障子が勢いよく開いたのには驚いた。
「おはようございます! 」
今日はふわふわのみかん色のセーターにグリーンのスカートとグレーのタイツ、靴下という格好で、ニコニコと立っている繭。ちょうど着替えている最中で、トランクス一枚でジーンズを履こうとしていた結城が、ズボンを取り落とし両手で胸を隠した。
「いやんだあ! エッツ! 」
結城の反応に少女が腹を抱えてケラケラ笑い出した。うん、心が小学生くらいなら、まだ結城のこういうのはツボだよね。
ほぼ着替えが終わっていて、セーターをもそもそかぶっていた源が、スポンと顔を出してから、繭ちゃんだったよね、と声をかける。
「おはよう。何かご用かな」
源はほんとこういうのうまいよな。繭はえヘヘえ、と笑って、ええとね、とちょっとモジモジしてから、あのねえ、おじいちゃんがねえ、とモジモジ。
「ごはんだからおにいさんたちにおしえてあげなさいってゆってたんだよ。でねえ、伊織にいちゃんがねえ、たまごやきとウインナーだって」
「伊織? にいちゃん? 」
忠広が誰のことだと頭をひねるが、繭はおにいちゃんたち、伊織にいちゃんのおともだちでしょー、と困ったようにまさやんを見上げた。あ、宮本先輩、伊織っていうんだ。
まさやんが腰を落とし繭と目線を合わせると、ありがとな、と礼を言った。
「隣の部屋でお姉さんが寝てるだろうから、声かけてやってくれるか」
「あい」
コックリとうなずいて、とたとたと縁廊下を隣の十二畳へいく繭だが、すぐに戻ってきた。
「おねえちゃんいないよ。おしっこかな」
「えー? 」
靴下を履き終わったので、俺も一緒に十二畳を覗いてみれば、きちんと畳まれた布団が壁際に置かれ、鴨居に取り付けたフックにハンガーがかかっているのには、ハンチングと軍用コートがかけられていて、ということは、さほど遠くへは行っていない。
ということは。
「比企さんやっぱりいねーわ」
部屋に戻ると忠広が、そんなら朝稽古じゃねえの、と答えた。あ、そうか。
そこにプラッと帰ってきた赤毛のロシア娘は、いささか物足りなさそうに肩を揉んでいた。
「やっぱり手合わせを頼める相手がこれだけいるのに、独りで鍛錬というのは、どうにも物欲しくなっていかんな」
さすがに冬場なので長袖の、それでもやっぱりでっかく「人として軸がぶれている」と書かれた珍Tシャツに、これまた毎度おなじみのジャージといういでたちで、やれやれと軽くため息をつくと、それで、と仕切り直した。
「朝から全員集合で、どうしたのかな」
宮本の本家の朝食は、さすがに元網元で地域の名士なだけに、実に豪勢なものだった。朝からだし巻き卵とか、まじか。そんなもん出されたら、当然の如くがっつく野郎五名。そして比企は、側から見れば俺達に劣らずめちゃくちゃ食ってますが、みんな知ってる。これだいぶ遠慮してます。奴が本気で飯を食ったらこんなもんじゃない。放課後の上海亭で、講義が終わった後のソレイユで、何度見たことか。
ありがたく、かつ山賊のような勢いで飯をいただく俺達を、ご隠居は愉快そうに見てはそれ食えやれ食え、と焼き魚や煮物漬物をすすめてくれた。比企の食いっぷりに驚いたのも最初だけで、あとはもう面白がっている。一方で、宮本先輩はブルドーザーかと突っ込みたくなるほどの比企の食事を、ポカンと擬音がつきそうなくらいのポカン顔で呆然と見ていた。
朝食の膳を完膚なきまでにきれいに駆逐したところで、ご隠居の脇でゆっくりゆっくり、もちもちとご飯を食べていた繭が、ごちそうさまあ、と手を合わせてから、家政婦さんが持ってきたマグカップのココアをゆっくりゆっくり、半分ぐらい飲んだところで、食後のお茶をいただいている俺達をニコニコと見遣ってから、伊織にいちゃん、と切り出した。
「にいちゃんのおともだちの、おにいさんとおねえさんと、繭もいっしょにあそびたいな」
「うーん、今日は改めて、町をぐるっと案内しようかと思ってたんだけど、歩くだけだから、大して面白いことないぞ? それでも我慢できるか? 」
「にいちゃんばっかりずるい! 繭もおにいちゃんとおねえちゃんに、東京のおはなしききたい! 」
「あー、わかったわかった。そんならお兄さん達がいいって言ったらな」
そこで宮本先輩は俺達に、そう言うわけで、すまない、ちょっとおまけがついてくるが、いいか? と困ったように笑った。俺達も別に、断るなんて意地の悪いことをする気なんかない。いいですよと全員が即OKした。
「いいか繭、いっぱい歩くんだから、ちょっとだけ歩いて疲れた、なんて言っても、誰もおんぶなんかしてやれないからな」
釘を刺す先輩に、お目々ぱちぱちのいい笑顔でうんうんうなずく繭は、一応中学一年生なのだそうだが、中身は確かに幼女で、見ていると何だかまさやんの歳の離れた妹を思い出して、ちょっと微笑ましかった。
蜜柑色のセーターに淡いグレーの上着を着て、バラ色の頬にニコニコ笑顔で、小柄な繭が俺達を先導し、町を歩く。あそこはさかなやさん。あそこはおじいちゃんがときどきおさけのみにいくおみせ。あっちはみどりばあのおみせ。
「みどりばあって何」
「みどりばあのおみせはねえ、おかしがいっぱいあるんだよ」
源の質問に対する答えから察するに、駄菓子屋なのだろう。川沿いを歩き、橋にぶつかると渡り、くねくねと蛇行するように歩きながら、あっちには何、こっちには何、と説明してくれる。河口に行き当たると折り返して、今度は川を遡る。町の外れ辺りまで着いて橋を渡ると、俺達がバスを降りたあの広場に抜けた。繭はそのまま、ご機嫌に鼻歌なんか歌いながら、石段を登っていく。
「この上って何があるんだ」
石段の思わぬ長さに息が上がりかける忠広に、繭は子供のご機嫌テンションでひと言、おてらだよ、と答えた。
俺と忠広は軽く息を切らせ、あとの六人はさしてこたえた様子もなくゴールに到着。そこにあったのは、古びて質素だけど堂々としたお寺だった。釣鐘があって、本堂があって、小さなお堂があって、池には山からの湧水が引かれている。水はきれいで、錦鯉が何匹か泳いでいた。本堂の隣には立派な土蔵もあって、なかなか歴史がありそうなお寺だ。境内を一瞥しただけで、比企がふん、と感心したようにうなずいた。
「ここまで来る石段もそうだが、境内もゴミ一つ落ちていない。熱心なお檀家さんが大勢いるのだろう」
「そんなん見てわかるの」
宮本先輩が冷やかすように半笑いで訊ねると、これだけ掃除が行き届いていますからねと、当たり前だとばかりに、ただし淡々と答えた。
「この町のような土地なら、お檀家さんが数軒あれば、その家の高齢者が掃除や簡単な用事を請け負ったりするものですよ。法事の雑用を手伝ったり、境内の植物の世話や木の剪定をしたり」
「ああ、それでたまに朝早く散歩すると、山の方からジジババが何人かで箒持って歩いてくるのか」
比企は本堂から聞こえる、お経を上げる声に耳を傾ける。
「ああ、いいものだな。私はどうにも、子供の頃から読経の声を聞くのが好きでな。実に落ち着く」
容姿と中身のギャップが激しすぎる。もはや詐欺だろ。
待つというほどの間もなく、お経の声がやんだ。石畳の脇の玉砂利で遊んでいた繭が立ち上がって、本堂にトコトコ歩いていく。いいのか? お邪魔じゃないの? 無邪気な繭はお構いなしに、和尚さあん、と開け放たれたままの扉から本堂の中を覗き込んだ。
「こら、このお転婆、まずはおはようが先だろう」
中から出てきたのは、シャキッとして風格を感じる初老のお坊さんだった。繭に孫をたしなめるように言って、ひょいと顔を上げると俺達に気がついて、なんだ、お客さんを案内してたのか、と頭を撫でる。
「東京から伊織にいちゃんがきたんだよ。あとねえ、伊織にいちゃんのおともだちもきたんだよ」
そうかそうかとうなずいてから、お坊さんは本堂から出てきて、拓厳と申します、と若造の俺達に、丁寧に挨拶した。
「ここの住職をしとります。宮本の家とも古い付き合いでして、この子もお袋さんの腹の中にいる頃から知っとります」
俺達も名乗ってご挨拶。先輩がお久しぶりですと挨拶するのに、おお、と拓厳和尚は応えて、刀自の葬式以来か、立派になったの、と相好を崩した。
「今は大学で建築学をやってます。で、彼らは剣道部の後輩とその友達です」
「ほう。後輩とご友人方ね。もしかして、あれを観に来られたのかな」
ふんふん、とうなずく和尚に、こんなこと滅多にないですから、と先輩が答えた。
「百年以上も前にこの町の浜から舟出したものが、今こうして戻ってくるんです。そりゃあみんな騒ぐでしょう」
「ああ、そうだな。だがなあ。何もわざわざ扉を破って中を暴かずともよかろうに。中に座すのは仮にも御仏、罰当たりな真似はよすに限る。そうは思わんか」
どうやら二人が話題としているのは、すぐそこの海に戻ってきた、渡海船のことみたいだ。そこで比企が、すっとぼけて口を開いた。
「もしかして和尚様のおっしゃるのは、宮本先輩が我々に、変わったものが出てきた、と聞かせてくれた渡海船のことでしょうか」
和尚、見るからに西洋のお姫様顔の女子から流暢な日本語が出て、しかも渡海船なんて日常ではまず耳にしない単語が出たもんだから、ポカンとしている。気持ちはわかりますが、すぐ慣れますよ。
ああ、と気を取り直した和尚がうなずいた。
「お嬢さん、ええと、比企さんだったか。ああいう古い風習にご興味がおありかな」
問われて比企はしれっと答えやがる。
「仕事柄、どうしてもその手の知識には詳しくならざるを得ないもので」
「お仕事? 確か伊織の大学の後輩だと今お聞きしたが」
「学業の傍ら、訳あって働いております」
てゆうか学業が傍らだよね。サイドメニューだよね。和尚さん、ちょっと興味が湧いたのか、どんなお仕事を、と訊ねたが、比企は笑ってはぐらかした。
「下品な仕事です」
俺達もニコォ、と歯を見せてクイっと口角を上げて笑顔。事情をこれっぱかしも知らない宮本先輩は、もしかしてバイト休ませちゃったかな、悪いことしたな、と頭をかいた。
「お気になさらず。どうとでもなる仕事ですし、何よりこんな貴重なものを間近に観られる機会はそうそうないでしょう」
それにしても、百年から経っているとしても、時代は大東亜戦争後ですよね、と軌道修正して、比企はうーん、と考え込む。
「文献で確認できる一番新しい時代の補陀落渡海は明治四二年の天俊上人による事例。それを鑑みると、時代が合わないと思うのですが」
「お嬢さんお詳しいの」
「比企さんなんでそんなこと知ってるの」
和尚と先輩が呆れながら感嘆した。
「民俗学部なので」
ものはいいようってこういうことか。ほらー! 二人とも納得しちゃってるじゃーん!
そこで、繭の話し相手をしながらやりとりを聞いていたまさやんが、あの、と軽く挙手。
「どうもさっきのお話を聞いてると、和尚さんは渡海船、でしたっけ。色々調べたりするのは反対なんですか」
まあ、そうですな、と和尚さんが答えかけたタイミングで、繭が小さくくちゅん、とくしゃみをした。
「おお、すまんすまん。さすがにまだ朝のうちは冷えるな。さ、みなさんも、よかったらちょっとお茶でもどうぞ。汚いところですが、コタツにでもあたっていただいて」
いやいや、と遠慮した側から、繭がトコトコ和尚さんの後にくっついていってしまうので、仕方ない、俺達もゾロゾロと続いた。
本堂の奥には法事や法要で檀家さんに精進落としや弁当を振る舞う座敷があって、その更に奥が和尚さんの住居部分だった。裏の玄関から上がると目の前の、座敷からもすぐの部屋だ。入口は障子を開け放っているが、広い廊下に衝立を置いているから、玄関からは中の様子は見えない。ただ、外から誰かしら入ってくるのはすぐわかるようになっていて、やっぱり人が集まる場所なのだろう。
何もない田舎だが、みかんと魚だけは腐るほどあってな、と言って和尚さんは、こたつの上にみかんの入ったカゴを置いて、どうぞ、と俺達にすすめてくれた。まさかお寺でコーヒーもないだろうとは思っていたが、緑茶を出されて比企があからさまにほっとする。繭は妙に場慣れしていると思ったら、ちょくちょく和尚さんのところへ遊びに来ているのだそうだ。夏には裏の縁側でスイカを食べ、冬にはこうしてコタツにあたっておやつやみかんをもらって食べている、らしい。
自由だな。
「ミガワリサマは生まれ出るときに町の厄を背負って身代わりとなってくださった、有難い存在だ。だから町の者はみんな、ミガワリサマが家を訪ねてくれば歓迎し、遊びに付き合ったり、昼寝をさせたり、自由に過ごしてもらうのですよ」
それがこの町に根付いた風習ということか。
「つまり、当代のミガワリサマである繭さんは、町の共同体内では災いを肩代わりし瑞兆を呼ぶ福子として扱われているのですね」
「まさしく。ミガワリサマとして生まれついたこともあるのだろうが、この子は素直な子で、町の年寄りや大人連中にはかわいがられております」
「確かに、繭さんは無邪気で物怖じしないぶん、余計に孫のように思えるんでしょうね」
自分のことが話題になってるとかどうでもよさげに、繭は無心にみかんを剥き、白い筋を取ってツルツルにしている。まさやんが皮を剥いたみかんの筋を申し訳程度にとって、二つ三つ房をまとめて口に放り込むのを見て、驚いて目を丸くしていた。真似をしてふた房いっぺんに口に入れようとしたが、和尚さんにたしなめられてやめる。
それで、と和尚さんはゴミ箱に急須の茶殻を捨てて、仕切り直した。
「この前打ち上げられた渡海船のことでしたな」
比企ものほほんと相槌を打った。
「先程のお話のご様子から、和尚様は分解調査などは、どうも気が進まないように拝察致しましたが」
「そりゃ調べたくはなるけど、きのう比企さんが教えてくれた話が本当だったら、ってまあ本当なんだろうけどさ、」
忠広が比企の言葉を受けて続けた。
「だったら中に誰か昔の人の死骸があるってことだろ」
源がうなずいて、結城がうええ、と情けない顔をした。普段は物事に動じないまさやんですら、微かに眉根を寄せている。
「調査っていっても、先輩から聞くまでニュースとかですら見なかったんだ、まだ本格的に調べる訳じゃないんでしょ」
なんとなく思ったことをそのまま口にして、俺はお茶を啜った。
「非破壊検査とか、壊さずに中がどうなってるかとか、調べられますよね」
「あー」
「その手があったか」
「どうしたヤギ冴えてるな。旅先で違う草食ったんか」
結城と源、忠広が俺の言葉に顔を上げるが、比企はどうだろうな、と気のない様子だ。
「あれもそれなりの設備がないとできないからな、おそらく今来ている調査とやらは、そこまで大掛かりに調べるだけのものか否か、判断するためかもしれない」
和尚さんがそうだな、とうなずいた。
「これがただ漂流してきただけの船であったなら、扱いはもっと簡単だったんでしょうが。何せものがものだ、乱暴に戸をこじ開けて中を暴いて、というのは、こんな田舎の山寺の坊主とはいえ、仏教者の端くれとしてはどうにも抵抗がなあ」
「お坊様であれば、渡海船と言われたらすぐさま、中にあるのが何なのかはすぐお判りになる。無理もないかと」
比企は実にうまそうにお茶を飲み、それで、と水を向けた。
「宮本先輩のお話では、町じゅうがちょっとしたお祭り騒ぎだということでしたが、単純に住民皆が調査だ学者先生をご招待だ、うまくすれば町おこしだ、というわけでもなさそうですね。現に和尚様は、調査自体が罰当たりな行為にならないか案じておられる」
こいつは本当に、プライベートでもあらゆる物事を分析しやがる。休めって。休むために誘われたのに乗っかって来てるんだから。
和尚さんはまあなあ、と渋い顔をして、
「実際、今町は調査推進派と、まあ反対、というほどではないが、それもどうなのかと考える者達とで、緩やかにではあるが、割れておりましてな。お恥ずかしい話だが、大掛かりな調査をすることにでもなれば、それをきっかけに、この町の観光誘致や移住をアピールできる、ひいては税収やらなんやら、町に落ちる金も増えて潤う、と、こんなことを考える者もおれば、私のように、中で眠っておる仏を騒がせてまでせんでもよかろう、という者もおります」
こういう鄙びた小さな町でのあるある来ました。
和尚さんによると、推進派の中心人物は町長と、日に二回港へ来る遊覧船と俺達も乗った路線バスの会社の社長に、町の青年団長。そっとしておくのがいいのでは、という、強いていうなら現状維持派、だろうか。こちらは和尚さんと、町にある古い神社の宮司さん、それから、海で働くとやはりゲン担ぎというか、そういうものを気にかけるようになるのだろうか、漁協長も、表立っては口に出さないながら、やはりあまりいい顔はしていないのだそうだ。
そこですっかりぬるくなったお茶を淹れ替えてくれた和尚さんは、要は年寄りと若い衆とのジェネレーションギャップですな、と苦笑した。
すっかり体もあたたまったところで、比企におっとりと訊ねた。
「おねえちゃん、おふねみにきたの? 」
繭おふねのあるところしってるよ、とコタツからもそもそと抜け出て、立ち上がりかけたところで、あ、と膝立ちでみかんの皮を片づけた。
お寺を去り際、和尚さんがよかったら後で神社にも立ち寄ってみてください、と俺達に勧めてくれた。
「あそこの宮司は、伊織の親戚筋でしてな。本家の御隠居、伊織の曽祖父ですな、あの御隠居の末の弟です」
繭が先輩とまさやんの腕をとって引っ張るのに先導されながら、俺達は丁寧にお礼を言って辞去した。
わずかな時間ですっかり気に入られたようで、まさやんは繭に手を引かれ、あっちにこっちに飛ぶ話に、うんうんと耳を傾け付き合ってやっている。幼女の相手は妹で慣れているのだろう。何やかやいって、まさやんは妹をかわいがっている。
ちょこちょことかわいらしい案内に連れられて、俺達は港に面した倉庫にやってきた。
普段は漁船の修理などに使っているのだろう、個人経営の自動車整備の工場くらいの、似たような大きさと造りの倉庫が数軒、軒を並べている。そのうちの一軒が、シャッターを開けて中を覗けるようになっていた。
中の暗がりには、小さな漁船くらいの大きさの、木造の船がうずくまっていた。
たまにテレビや動画コンテンツでお目にかかる、漁師が親子や兄弟で乗って漁をするような、こぢんまりとした漁船くらいのサイズだ。四人五人で乗り込めば、もう甲板が一杯になってしまう。船室も魚群探知機のモニタを置いて、舵をとる一人が入ればもう一杯。ただ、この木造船にあるのは、網を巻き上げるリールや舵をとる船室でなく、四方の壁を色褪せた丹塗りの小さな鳥居で塞ぐように取り巻いた、窓もない小屋だった。
ちょうど十時を回るところで、八時前に屋敷を出て、繭の歩く速さに合わせて移動し、小一時間ばかりお寺で和尚さんの話を伺っていた計算になる。俺達が倉庫の入り口を覗いていると、向こうから数人の男性が歩いてきた。ワイシャツネクタイにセーター、ダウンジャケットで着膨れた四十過ぎのおっさんが二人。片方は痩せて髪を短く刈り込んでおり、もう一方は中肉中背、メタルフレームの眼鏡がいかにも事務屋という感じ。人のよさが見て取れるが、同時にやや頼りなくも見えてしまう。背の高い方は若い、俺達とそう変わらない年恰好の、色の白い男を連れており、背の低い方は三十過ぎくらいであろう、作業服姿の男が一緒だった。
河口からこっちへ歩いてくる四人を見て、比企がふん、と軽く鼻を鳴らす。
「おそらく、背の高い方が調査に来た大学教授、低い方が町長か。同行者はうらなりの若いのが教授の助手、作業服のゴツい方が、そうだな、さっきの和尚様のお話から察するに、青年団長ではないかな」
先輩が何でわかるんだと驚き、繭はのほほんと町長さんと電気屋のおじさんだよと答え、俺達はまたかと、もう驚きすらしない。慣れって怖いねー。
案の定、倉庫の前まできた四人は、比企の言い当てた通りに名乗った。ここまでの道中では、すれ違う人や畑に出ている高齢者を見ると、必ず子供特有の元気な挨拶をする繭だったが、ここでは勝手が違った。
町の行政課に招かれて、三重の大学から調査に来たという三枝教授を見ると、繭はまさやんと宮本先輩の後ろに隠れて、二人の間から胡乱そうにチラチラと顔を出しては様子を窺っている。二人の服の裾をしっかり握り、さっきまでのおしゃまな少女の片鱗すらなくなっている。
「すっかり嫌われてしまいましてね」
苦笑いする三枝教授に、町長がいやあ、と困ったように眼鏡を外してレンズを拭った。
「すみません。どうにも、ミガワリサマは繊細なもので」
青年団長の加藤さんが、おはよう、と声をかけると、それには小さな声で、まさやんと先輩の間から顔を覗かせ、おはよう、と答えた。
「村のお年寄りは皆さん、この船が昔この町から船出したものらしいとわかると、それまでもまあ、ありがたいものだと敬ってはいたが、更に熱烈になりましてね。そんなに尊いものなら、ただありがたい、で終わるのでなく、渡海船の歴史や、その中での位置付けや乗っている、というか、まあこの場合は弔われている人ですね、と副葬品の有無や船の構造、内装、そういう細かいことまで調べられれば、町の名前も少しは有名になって、活気が出るのではないかなと、」
色気だと言われてしまえばそれまでですがと町長の清水さんは言った。
そうして近隣の大学に声をかけたところ、調査に手を上げたのが三枝教授一人だけだった。
「たまたま暇だったしね、年代の合わない渡海船ってのも気になったんだよ」
教授は助手の緑川青年が船の写真を撮影してはノートに何か記録している様子を見ながら、君らだって、縄文時代の地層から携帯端末が出土したら、おかしいと思うだろう、と笑った。そう言われると確かに、わからなくもない。
「我々もおととい着いたばかりで、昨日は村のご老人がたにお話を伺って、船そのものの調査は今日からだ。ここへ来るまでは、扉を開けて中を確認して、とも思ったんだが、どうもそれをやってしまうと地元の皆さんの反発が強くなるのがわかってね、さて、どうしたものかな」
あんまり繭が嫌がるので、適当な理由で俺達は倉庫を辞去した。
河口で冷たい海風に耳をちぎられそうになりながら、倉庫から離れたところでやっと繭が笑顔を取り戻す。
「どうしたー、」
先輩が繭のおでこを軽くつつくと、むう、と目を伏せて口を少し尖らせた。
「大学の先生、困ってたぞ。嫌われたって残念そうだったじゃないか」
そこで、繭はまさやんのジャケットの肘のあたりを握りながら、小さい声で答えた。
「繭あの先生きらい」
おそらく、滅多に他人に対しマイナスの感情を持たないであろう繭が、幼い感情からだろうけどこんなにはっきりと口に出すとは。
比企が黙ってその様子を見ていた。それから、腹が減ったなとひと言、コートのポケットから飴を出して口に放り込んだ。いちご味だよと繭にも一つやる。
「さて、どうなることやら」
飴で腹の減りを誤魔化しながら、比企がぼんやりと水平線へ視線を投げた。
「あの先生さんの調査とやらが、どこまで本気なのか、まずそこにかかってくるな」
「比企さん、あの船なんかやばいのか」
忠広に問われて、ああ、とぼんやりと答える赤毛の探偵は、たぶん私の気のせいだと片付けた。
「そんなにトラブルにばかり遭うわけがないだろうさ。この広い世界で」
なあ八木君、貴君もそう思うだろう、と俺に振り向いて笑う。
あってたまるかと思いながらも、でもなあ。何せ比企だからなあ。今ひとつ否定しきれないんですけど!
何もない。ないはずだ。ないんだったら。俺はできるだけいい笑顔でニカッと歯を見せて、次はどこに行く? と繭に声をかけた。
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