第65話 五人とひとりと海から来たもの

 今から俺は、大事な話をしようと思う。

 俺達五人が決定的に、後戻りしようもなく現実の酷薄さを目の当たりにした、分水嶺というべき事件だ。

 冬休みの数日間、気軽な旅行のはずだったその僅かな時間。俺と仲間達──俺、忠広、結城、まさやん、源の五人は、訪れた山と海に囲まれた小さな町で、とんでもない大事件に遭遇したのだ。

 あのとき、あの町で何があったのか。

 扇情的な報道や、あちこちのサイトやソーシャルネットのブランチ、チャットルームで好き勝手に語られているばかりで、実際のところ何があったのかは、報道規制の向こう側で、本当の姿なんて見えやしない。何も知らない御見物衆からは。

 俺がこうして語るのは、ごく限られた人に向けて、だけど、どこかに本当のことを残しておかなくてはと思ったから。興味本位の知りたがりじゃない、正面からこの出来事を受け止めてくれる誰かに、知っておいてほしいと思ったのだ。

 だから、これを読んでいるあなたに一つお願いがある。

 この事件は俺達にとってとても重たくて、強くて、まだ上手に受け止めきれていないけれど、確かに動かしようもなく存在している。傍目から見れば、俺達は何も変わってなくて、あほなことやって、あほなことで一喜一憂するあほな大学生のままかもしれない。それでも。俺達と一緒に、あの小さな町であったことを、あなたも考えてほしいのだ。あれは一体なんだったのか、と。

 だからあえて、いつも通りに始めよう。

 俺の名前は八木真。どこにでもいる、ちょっとかわいい大学一年生。好きな異性のタイプは、おっぱいがでかくてかわいい子。彼氏募集中なそこの天使ちゃん、俺なんていかがですか。

 

 そもそもの始まりは、結城とまさやん、源の剣士トリオだった。

 揃って剣道部に所属している三人が、冬休みに入って早々に、旅行に行かないかと言い出したのだ。

 元々、旅行の予定はあったのだが、そのために夏休みに、まさやんの親戚の民宿で資金稼ぎのアルバイトをしていたのだが。どうせ行くなら春の後期休みにしようかと、全員その前提でいたところに、急なお誘いが入った。

「剣道部の先輩がさ、よかったら来ないかって」

 豪農の家の坊ちゃん育ちで、万事につけよきに計らえな結城が、のほほんと言ってカフェオレを啜った。締めるところはビシッと締めるまさやんが、源と二人して、結城の言葉に続けて詳しい経緯を語った。

「うちの部の主将知ってるか。宮本先輩」

「酒弱くて、新歓コンパでまさやんがおんぶして家まで送っていった先輩? 」

「それ先代の脇先輩。そうでなくて、宮本先輩は連休の頃に主将引き継いだんだよ。四年生は忙しくなるから」

「実質的には、もう四月の頃には宮本先輩が部の仕事の中心になってて、脇先輩は就職やなんかで実質引退してたけどな」

 忠広がぼんやり記憶を振り返ると、源とまさやんがいやいやと手を振った。誰だ脇先輩にしこたま飲ませたのは。まあそれはいいとして。

「宮本先輩、和歌山の出身でさ、正月に一族集まる習慣になってるからって、親御さんと帰省してるんだよ」

 源が軌道修正した、その説明によると、宮本先輩一家の故郷は古くからの小さな港町で、本家はかつて庄屋だか網元だかをやっていたらしい。今でこそ町長は選挙で選ばれているが、いまだに一族は町の名士の一員なのだそうだ。

 名士の一族の生まれだとはいえ、生まれも育ちも東京で自称シティボーイな先輩は、いくら正月の祝いの席だとはいえ、早速暇を持て余し、すっかり退屈しきっていたところに、

「なんでもこの正月は、ちょっと面白いものがあるとかで、町じゅうでお祭りムードなんだってさ」

「なんじゃそら」

「いかにも何もないど田舎みたいな言い方してたのに、何があったんだよ」

 俺と忠広が眉根を寄せて考え込む。そこで、ずっと俺達のやりとりを黙って聞いていた比企が口を開いた。

「よほど珍しいものでも出てきたようだな」

 それから、目の前のティーカップをとってごくごく一気飲み。ポットから次の一杯を注いだ。

 場所はいつもの俺達の溜まり場、大学最寄りの駅前の喫茶店・ソレイユの二階席。冬休みではあるけど、剣士トリオは部活の野暮用、俺と忠広は休み前に出したレポートを読んだ本郷先生から、休み明けまでに読んでおくといいよと推薦図書のリストを渡され、図書室に行って、と全員が大学に揃っていたので、それならと昼飯を食っていた。比企は俺と忠広が偶々図書室で出くわして合流している。

 あーあ、と源がため息をついた。

「美羽ちゃんもいれば迷わず誘うのになあ」

 美羽子は大勢いるいとこ達の一人が、モルジブで結婚式を挙げるとかで、両親の代理で海外に行っている。まあ、チャットルームで堂々とラブいやりとりをしているので、源は口では心配だ心配だとこぼしちゃいるが、浮気はまずありえないだろう。幼稚園のお砂場以来、俺も忠広も知っている。美羽子は一度こうと決めれば頑として、自分の意見を曲げないのだ。ましてや自分の彼氏ともなれば、余計にそうだろう。

 何が出てきたのか聞いているのかな、と比企は水を向けて、次の一杯を飲み干し、更に次を注いだところで、隣のテーブルを片付けていたウェイトレスへ声をかけ、次のポットを注文した。

 いやそれがさ、と源と結城が身を乗り出し、な、とまさやんと三人して、なんだっけ、とアイコンタクト。それから、えーとそうだ、と呟いた。

「確か、とかいぶね、だったっけ」

「そうそう」

 何っじゃそりゃ。俺と忠広は顔を見合わせ、剣士トリオも名前だけは教えられたものの、どんなものなのかまでは理解できていない様子だ。

「ちょっと待ってくれ」

 赤毛のロシア娘が、耳慣れない単語に甚だしく反応した。

「本当に諸君らの部活の先輩は、とかいぶね、とそう言ったのか」

「え」

「ああ、うん」

「言ってたけど」

 いささか鋭く訊ねる比企に、ぼんやり答える三人。なんだどうした。

「その、先輩のご実家の田舎というのは、どこだったかな」

「わ、和歌山」

「そうか。…それなら、まるでない話ではないのか」

 おいおい、

「比企さん一人で納得すんなし」

 忠広が突っ込むと、ああ、と比企は答えたが、しかしなんで今更あんなものが、と考え込む。

 なんだかよくわからんが、比企はそれで、と続けた。

「その先輩は、貴君らになんと言っていたのかな」

 あー、と結城がぼんやり答えた。

「なんか町がお祭りっぽくなってて、そのナントカ船を調べるのに大学の先生が来てたりして、他所からの人間もいつもより抵抗なく入れるだろうから、よかったら遊びに来ないかって。何なら俺らだけでなく、誰か他にも友達誘って来いって」

 なるほどな。田舎じゃ大した娯楽もなくて退屈だから、気心知れた誰かを呼びたいところだけど、何もないのじゃ呼んでも気詰まり、だけど目新しいものが出て来たとなれば、田舎町とはいえ退屈凌ぎ、話の種くらいにはなるだろう。招く側も、そう気が咎めることもない。

 どうするよ、とまさやんがアメリカンを啜った。

「ゆうべ先輩からチャットが来てよ、来るならすぐにでも、いつでも待ってるってよ。宿も先輩が手ェ回してくれるそうだし。俺ら三人は、先輩の招待だし、折角だから行ってみようかと思うが」

 お前らどうする、と重ねて、まさやんはカップを置いた。

「そうだな」

「どうするよ」

 うーん、と考える俺と忠広、の脇で、比企があっさり答えた。

「実に興味深いな。是非伺いたいが、まるで面識のない私がお邪魔してもご迷惑ではないかな」

「比企さん行くんか」

 思わず漏れる俺の言葉に、だってと比企はあっさり返す。

「このご時世に渡海船とかいぶねだなんて、ちょっと気にならないか」

 あー、はい、こうなったらもう俺らも行くしかないですね。三名追加でお願いします。

 

 その翌々日。俺達六人は早朝の東駅で集合し、東京駅から新幹線と特急列車を乗り継ぎ、一路和歌山へ。リゾート地として有名な白浜から、更にひなびた路線バスへ乗り換えて三時間近く、山道を揺られて、日もすっかり傾いた午後三時半、ようやっと目指す草浜の町にたどり着いた。

 東京駅で朝飯がわりの弁当やサンドイッチを買い込んで、車内で食う間、比企による渡海船のレクチャーは唐突に始まった。

「渡海船というのは、」

 チキン弁当の唐揚げに、レモン汁の小袋を開けて振りかけながら、チキンライスを頬張りながら、比企はぼんやりとした調子で携帯端末の画面を見ながら言ったものだ。

「高知に徳島、鹿児島、茨城、島根でも行われた記録があるが、有名なところではやっぱり、これから我々が向かう和歌山だな。文献で確認できる最古のものは、八六八年の慶龍上人のケースだ」

 半分眠いまま、握り飯やサンドイッチを齧り箸を持つ俺達は、黙って耳をそよがせているが、続く言葉でギョッとして目が覚めた。

「渡海船というのは、ザックリ言ってしまえば能動的でポジティブな自殺だな。小船の上に人一人が入って座れる程度の小屋をかけ、海を渡る者が入ったら入り口を封じてしまう。船には舵も櫂もないから、他の船が沖合まで曳航してから放して流すのさ」

 まじか! いや、まじか!

 源が齧りかけのツナサンドをそっと、ミニテーブルの上の包装の中へ置いた。忠広もペットボトルの緑茶の蓋を閉めてテーブルに戻す。いやほんと、人数多いからボックスシートおさえたゆうべの俺、英断。昔はボックスシートなんかなかったみたいだけど、今はもう、もっと早く移動したい人、ビジネスマンとかはリニア路線とか飛行機のシャトル便とかを選ぶからね、新幹線で移動するのはゆっくり移動したい親子連れとか、俺達みたいにできるだけ金をかけずに済ませたい学生のグループとか、そんなもんでしょ。しかも俺達の場合は、同行者がこうだから話題が物騒に偏りがち。ほんとボックス席のある交通機関にしてよかった。

 比企はそんな俺達の、いささか白っぽくなった顔色なんてお構いなしに話を続けた。

「一大メジャー地の和歌山で行われる場合は、原則、補陀洛山寺の御坊によって行われていた。そこからついた行の名前が『補陀落渡海ふだらくとかい』。中には、元武士が補陀落山で号を名乗って渡海したなんて事例や、公家が渡海に挑んだ記録もある」

 淡々と語る比企に、さすがにまさやんの箸も止まる。それでも牛丼大盛りを四分の三近くまで食っているんだから、大したもんだ。

「御仏へ至る行、と言えば聞こえはいいが、実質閉鎖環境での餓死だ。それこそ狂信に近い状況でもなければ、生きた人間が取り組んで成功する率はお察しだと思うよ。文献には実際、失敗例も残っているし、失敗して戻った場合は、送り出した村人総出で、死ぬまで袋叩きにするんだというから悲惨だ。だから時代が移ると共に、生前に渡海を希望した者を弔うという形に変化した」

 結城もよほど腹が減っていたのだろう、それでも青椒肉絲弁当を食い切ったが、食後の楽しみに買っていたチョココロネは、封も切らずにミニテーブルの上に置いて眺め、俯き加減にモジモジしていた。

 比企は三口でチキンライスを食い唐揚げを駆逐し、次のチキン弁当を開けると、またレモン汁の封を切りながら更に語った。

「どうした結城君、小便か? …文献で確認できる事例は五十七件。一番新しいものは明治末。明治四二年のもので、最盛期は十七世紀前半、江戸初期の終わりくらいだな。それ以降はほぼ行われなくなったというから、明治末に行われた際には、随分と奇特なことをするお坊様じゃあ、くらいの認識だったんじゃないのかな。近代現代の感覚で見れば、そこまでやるかとも、そこまでの信仰を持てるのはすごいなとも思えることだろう」

 またしてもチキンライスを三口で片付け、唐揚げを頬張り付け合わせの柴漬けを口へ放り込む。こいつ、顔が小さくて口もそれほどでかくはないのだが、何せ食い意地が凄まじいので、一口がでかくて思い切り頬張るものだから、咀嚼している間はリスの頬袋がぱつんぱつんになってるみたいで、色々台無し。この様子を指して「おいしいものを夢中で食べてるのかわいいよね」と平気で言える人を、俺達は一人だけ知っている。

 だから、と比企は口の中のものを飲み下し頬袋が縮んだところで、ホットの緑茶のボトルを開けてごくごく飲んでから、端末を見てすごい速度でおそらく仕事の事務連絡に返信してから、何やら検索を始めた。

「いつ頃の船が打ち上げられたのかはわからんが、仮に明治以降のものだったとしたら、ちょっとしたオーパーツみたいなものだよ。気にならないという方がおかしかろう」

 俺はもうとっくに、ポジティブな自殺云々の辺りで食欲がやせ細って、ゆっくりゆっくり、どうにかツナマヨおにぎりを食い終わったのだが、比企は三つ目のチキン弁当を開けて食い始めた。この様子を指してかわいいってのは、相当な目腐れだと思う。あと比企よ、同じもんばっか食うな。

 そこで俺達の様子に気がついたのか、どうした、と顔を上げて、赤毛のロシア娘は小首を傾げた。

「諸君、飯が進んでいないようだな。食えるときに食っておかないとあとが保たんぞ」

「お構いなく」

「もう胸が一杯で」

「あたしダイエット中だから」

「僕らには構わず比企さんお食べよ」

「俺らはテキトーにやるから」

 曖昧な微笑みと共に言って、俺達は乙女のように恥じらった。

 だがなるほど、おととい比企が三人の話を聞いて驚いていたのは、そういうことだったのか。場所はともかく、いつ船出させたものなのかが判明すれば、時代が合わないどころの話じゃない。だから船の調査で大学の先生が来てるというのも、いつ、どこから船出させたものなのかを調べるためなのだろうか。

 それにしても、ここまで詳しいのはやっぱり、比企にしてみれば仕事上必要であろう知識だからなのか? こいつの仕事といったら、呆れるほど、こういう非日常的な知識を必要として非常識事態を打破するものだからな。

 繊細だなと比企は評して、新大阪駅に着くまでの間で、買い込んだチキン弁当五箱をきっちり、チキンライスの一粒に至るまで食い切った。これだから仔猫ちゃんの皮をかぶったゴリラは!

 

 新大阪から南紀白浜へ特急列車で、そこから更に路線バスに揺られ、目的地の鄙びた港町へ着いたのは、午後も三時近くになってからだった。

 山の中へ伸びて木々の間へ消える、古びた石段の前にある、年季の入った停留所で、草臥れたバスが停まった。ここが終点だか折り返しだかのようで、石段の前はちょっとしたロータリー状の広場になっていて、バスは円形に広い路面をグルンと一周してから、元来た道へ抜ける手前で停車した。石段の向かいに小さな定食屋、というより一膳飯屋といった風情の店で運転手が一服している。俺達の到着を待っていたらしく、運転手のおっさんと入れ違いに飯屋から出てきた宮本先輩は、後輩三人を見てきたな、とニヤリとしてから、俺と忠広を見て、それから比企に気がつくと目を丸くした。

「お前ら、何でこの子がこんなところに」

 半ば呆然として漏らしてから、ハッと我に返り、まさやん達剣道部員に詰め寄り、キャンパスいちの美少女が何でこんなところでお前らといるんだと、比企をチラチラ窺いながらどうなってると小声で訊ねた。

「いや、俺ら高校が一緒で」

「本当にそれだけか」

「え、先輩、比企さんタイプなんすか」

「そうじゃねえよ。そうじゃないけど気になるだろ! お前らが何であんな破格の美少女とお友達やってるんだ」

 まさやんと結城の言葉に食い下がる宮本先輩。源が取り繕うように、まあ色々ありまして、と曖昧に答えた。うん、ほんと色々あったよねー。色々あり過ぎて、俺らそもそも比企を恋愛対象と認識してないもん。

 それにしても、比企は相も変わらずの着た切り雀というか、変わり映えのしない格好だ。いつものハンチングにいつもの黒いタートルネックセーターとブーツカットジーンズ、いつものアーミーブーツにいつもの白い軍用コート。愛用のキャリーケースをゴロゴロ引いているが、どうせ荷物の半分は武器なんでしょ、知ってる。

 冬の旅だというのに、マフラーも手袋もない比企は身軽過ぎて、日本の冬舐めてるんだろと思うが、俺達は各々、コートやダウンジャケット、ゴアテックスの登山用ジャケットなどを着込み、マフラーや手袋でしっかり防寒していた。冬の海辺なんて、もう絶対寒いだろ。全員が特に打ち合わせたわけでもないのに、蛍光色の登山ジャケットや明るい色のコートを着て派手なスニーカーをはいているのは、いつどこで何が起こって、比企と行動を共にしたりしなかったりを想定しているからだ。すっかり場慣れしちゃったなあ。明るくて目立つ色のものを着ていれば、最悪何か、例えるならハムとか作る機械に巻き込まれる的な厄介に巻き込まれて遭難したとしても、間違いなく見つけてもらえる。まあ、比企と行動を共にしてれば、崑崙育ち戦場仕込みのサバイバル術で、俺達の五人や十人、鼻毛で助けながら人里まで脱出できることだろう。

 が、当の比企はのんきなもんで、すっとぼけてこっちへ来ると、先輩に丁寧に挨拶した。

「宮本先輩、今回はお招きいただきまして、ありがとうございます。肥後君結城君源君づてにですが先輩のお話を伺い、わがままを言って仲間に加えてもらい、ついてきた次第です」

 にこやかに、よろしくお願いしますとお辞儀を一つ。四十五度のそれは見事なお辞儀だった。おそらく北風のせいでなく頬を淡く染めて、裏返った声でいやーいやーいやーなんかこんなクッソ田舎になんか呼んじゃってごめんねーあははははひゃあ、とワンボイスで応じた。いや、先輩緊張し過ぎです。所詮こいつはあれ、ほらゴリラとかシャチとかアムール虎とか、なんかそういう獰猛な生物だから。目が合うとぶっ殺し合いが始まりかねないので気をつけて!

 先輩に言われて、ゾロゾロと飯屋に入ると、そこは店の半分を飯屋、残り半分を何でもありの売店として使っていた。ロータリーに面した一面はガラスの引き戸、残りの壁は商品が並ぶ棚で、真ん中にテーブルを四つばかり並べ、入り口から入ってすぐはカウンターというより帳場とでも言いたくなる雰囲気。帳場には推定五十年前の看板娘が座ってお茶を飲んでいた。

「お前ら、テキトーになんか食うもの買っておけよ。いつでも買い物はできるから、そんなに大量に買わなくてもいいけど、飯がなあ。寿司とか鍋とか、そんなんばっかりだから飽きるぞ」

 とりあえずポテチとか菓子パンとか、ジュースの大きなペットボトルを好き勝手に選び、ジュースを分け合えるように紙コップを買って、ほぼ通常運転の俺達五人。一方で、これまたいつも通りだというのに周囲をざわつかせる奴が一名。比企はポテチと菓子パン、の他にもポップコーンや煎餅、クッキー、飴玉やキャラメルをわさわさとカゴに詰めて帳場へ。その様子を見ていた先輩と、半分居眠りしていた看板娘がぶったまげた。いやもうほんと、なんかすんまっせん。これねえ、こいつまじで全部おやつですからね。しかも一人で食うの。やんなっちゃうなあ、もう。

 買い物が終わる頃、テーブルでコーヒーのペットボトルをお供に一服していた運転手がバスへ戻り、ロータリーを抜けて山の間を縫うように流れる川にかかる、風雪に晒されだいぶくたびれた橋を渡った。街の方へ戻っていく姿を見送って、先輩の案内で俺達六人はゾロゾロと、半分眠ったような、それでもにわかに起こったお祭り騒ぎに沸く港町をそぞろ歩く。

 凪の浜の町は上空から見ると、細い川の流れに沿って、河口に貼り付くように築かれているのだそうだ。中心には川があるから、両岸の交通のため数カ所に橋がかけられ、河口の先まで伸びた岸の間を割って、細いいりうみが切れ込んでいる。町の東岸側は少しだけ浜が長く伸びていて、ささやかな漁港が作られていた。その地形のおかげだろうか、外海がどれだけ荒れても、湾の中の波は穏やかなのだそうだ。

 町から漁港へ出る途中には小さな神社があって、神社の御神体は漁港の先、外海を見渡す崖の上にでんと鎮座する大岩だ。何にもないだろ、と苦笑いする宮本先輩だが、ご安心ください、めちゃくちゃ古い神社と寺があってこんな目立つ御神体があって、なんて聞かされた比企はすっかりご機嫌でごぜーます。町の中は本当に何もなくて、どこを案内したものかネタに困ったのだろうか、先輩は町役場や集会所、町の中心部に二軒だけある商店の乾物屋と洋品店とは名ばかりの何でも屋、駐在所に診療所、児童公園に郵便局まで、俺達を連れて歩いた。

 案の定、どこへ行っても比企はあほほど目立った。無理もない。外国人丸出しの容姿に中性的な雰囲気、すらりと背の高いモデル体型は、地元のこだま市でも大河内学園のキャンパスでも、ただそこにいるだけで目立つんだから、こんな小さな町では余計だ。

 先輩のガイドの最終地点は、町の中心からやや寺に寄った辺りの、えげつないほどでかい、古いお屋敷だった。

「うちの本家だ。お前らも一緒に泊めてくれる。一族集まってるからちょっとうるさいかもしれんが、そこは勘弁してくれよ」

 まずは屋敷の主人に挨拶、なのだが、先輩の曽祖父だという爺さんは、なかなか豪快な人物だった。枯れ木のように痩せてはいるが、頭も足腰もしっかりしていて、俺の祖父さんよりも元気だが、これで九十を二つ三つ過ぎているというんだから驚きだ。

「宮本岳蔵、いいます。わしの親父は、何せ苗字が宮本やからな、本当なら同じ読みで武蔵と名前つけたかったようやけどな、お袋がそらもうものごっつい反対したそうでしてな。名前負けしてしもたらどないするん! ちゅうて」

 宮本のご隠居、話しながらドッカンドッカン笑ってるが、俺達はいやでも笑うのも失礼だしなあ、ととりあえずニコニコしてるのだけど、一人だけメチャクチャ腹抱えて笑っているんですがお願いやめて。

 比企はヒイヒイ笑って、笑い過ぎて涙出てきたのを拭い、引っ込みかかった笑いが戻ってブフォッ、と吹き出しながら、いやしかし、いい名前ではないですか、とお茶を啜った。

「宮本だからって武蔵では、なかなかしんどいこともあるでしょう」

「ほんまやわ」

 え、なに笑うところなんですか、ここ。

 すっかりご機嫌のご隠居は、長旅で疲れたろうと俺達に風呂をすすめ、先輩には俺達が風呂から出るのに合わせて夕飯を出すよう台所に声をかけてこいと言って、よっこいしょういち、と謎の掛け声で立ち上がった。

 

 俺達に割り振られたのは、母屋の中座敷、仏間からふた部屋ばかり間を置いた、三間続きの座敷だった。手前の六畳と八畳は間仕切りの襖を取り払い、男子五人が寝泊まりする。間仕切りはそのままで、奥の十二畳は比企にあてがわれた。

 先輩に案内されて座敷へ入ると、ちょうど家政婦さんが布団を運び込んでくれていた。お礼もそこそこに、まずは風呂だ。比企は俺達に順番を譲り、早速キャリーケースの蓋を開けて、やっぱり中から愛銃のスチェッキンとホルスターを出し、それから国広の脇差を出し確認してから、座卓に携帯端末を置いてメールだのチャットだの、仕事絡みの事務連絡を片付け始めた。

 先輩の曽祖父さんの屋敷はとにかく広かった。表屋敷は主に客人の接遇や宿泊に、中屋敷は親族の宿泊に。そして母家は、屋敷の主人家族の生活の場だ。今回、俺達が母屋に泊めてもらえたのは、元々ご隠居が先輩を気にいっており、更に大学の剣道部の主将になったというので、大層喜んで、それなら友達でも呼んで正月を過ごしてもらい、曾孫の普段の様子を聞かせてもらいたいと、そういうことだったようだ。先輩とご隠居は、曽祖父と孫というよりか、気の合う相棒といった感じだった。

 この屋敷に逗留しているのは、先輩のご両親と伯母さん、先輩のお祖父さんの妹の孫だから、えーとなんていうのこういう関係。またいとこ? この人は和歌山市内で地方紙の記者をやってるのだそうだ。で、ご隠居とこの屋敷で同居してるのは、お祖父さんの弟の家族で、先輩のお母さんのいとこに当たるおじさん夫婦が屋敷の中を取り仕切っている。総勢九人、そこに近所からもう一人、ご隠居の末の弟だという老紳士も来ていて、夕飯はなかなかの大所帯で食卓を囲んだ。

 和やかに進む会食だが、俺はどこか尻の据わりが今ひとつ落ち着かない。何となれば、夕飯が始まって早々、隣に座る俺に比企が小さく耳打ちしたのだ。

 ──八木君、人数に対して席が一人分多いな。御隠居の脇を見たまえ。

 気になって見ちゃうじゃん。見れば気がついちゃうじゃん。夕飯はその間にも進み、わいわいと楽しく話は弾む。

 それは、卓上の鍋の具が半分がた減った頃だろうか。

 不意に障子が開いた。鍋の湯気でムワッとしているくらいの室内の熱気が、縁廊下から入ってくる冷気でさっと涼しくなる。

 廊下には、小さな女の子が立っていた。

 中学生くらいだろうか、黒髪を顎の辺りで切り揃え、前髪はウサギのパッチン留めで白い額を出し、モコモコのピンクと白のボーダー柄セーターで着膨れて、ちょっとオーバーサイズなのか、少しだぼっとした、ココア色のコーデュロイのズボンをはいていた。色が白くて、ぱっちりした黒い瞳、繊細な鼻筋、淡い桜色の小ぶりな唇。とこう表現すると、何だか比企のような美少女と誤解されそうだけど、実際にその子のちっちゃな顔に収まるパーツは、ジャンルというか分類というかは比企と共通していたけれど、何より、その雰囲気だけは天と地ほども違っていた。

 比企はギッチギチに智略やら暴力やら戦闘意欲やらが詰め込まれて、中身を詰めすぎて弾ける直前のぬいぐるみみたいになっているが、この子はどちらかというと、自我が薄くて、ちょっとポーッとしていて、世の中のことなんてまだ何も知らない、あどけない無垢な感じ。菜の花畑にでも連れて行けば、花を摘むでもなく、きれいな花を見てただニコニコ喜んでいそうな、そんな女の子だった。ちなみに我らが比企小梅は、そんなところへ連れて行けば、即座に花を摘み「今日はお浸しで一杯やるか」と引き揚げるのは、火を見るより明らかだ。

 比企は容姿だけなら中学生のようにも見えるが、一六八センチという上背の高さと、何より妙な気迫というか、黙っていても周囲に漏れ出す剣豪みたいな空気というか、そのおかげで、まるっきり中学生に間違われることはあまりないけれど、この子はきっと、本当に中学生なのだろう。その割にはポーッとしているようにも思えるけど、まあ、とても素直に素朴に育った子なのかもしれない。

 ぽやんとした少女は室内を見回して、わあ、とニコニコと感嘆した。

「人がいっぱいいるねえ」

 喋り方がトロトロとしている。まあ、かわいいからいいけど。

 御隠居が少女を見て、こっちだと呼びかけた。

「ほら、こっちでご飯をおあがり。祖父ちゃんの隣なら、お鍋はまだいっぱいあるぞ」

「はあい」

 少女はトコトコと御隠居の隣へくると、そのままペタンと座って、あどけない口調でいただきまあす、と手を合わせてから、箸をとってのんびりと食べ始めた。

 その子の正体がわかったのは、夕飯の後だ。

 少女の名前は繭。この本家の屋敷で暮らす、御隠居の曾孫だそうだ。宮本先輩のまたいとこに当たる。

「まあ、ご覧の通りの子だよ」

 ちょっとだけ言いにくそうに、慎重に言葉を選びながら、先輩が打ち明けた話によれば、繭はちょっとだけ、年齢よりも内面が幼いのだそうだ。日常の生活には支障はないし、生活圏内にいるのは事情を知る町の人間しかいないので、普段の暮らしに困ることはない。

「うちの家系に、たまに出るらしいんだよ。見た目はきれいなんだけど、知能とかメンタルでハンディキャップ抱えた子供がさ。で、うちでは一族の厄を肩代わりして背負ってくれた子供だって言って、大事に育てられる。ミガワリサマって呼ぶんだ。本家は網元だったから、うちの厄を背負ってくれたってことは町の厄も肩代わりしてくれたって解釈で、ミガワリサマは町ぐるみで大事にされてる」

 なるほどとうなずく赤毛の探偵。

「いわゆる福子というやつだよ。その昔は、何がしかのハンディキャップを持って生まれた子供は、得てして共同体内で持て余されがちだったが、時折彼女のように何かの役割を与えられ、生涯大事に育てられるか、あるいは命を絶たれるかすることもあった。後者のパターンは鬼子と言って、死ぬことで共同体内の厄を背負う。死ぬことで機能する、共同体に居場所を得て敬われるのだが、」

 繭さんだったか、彼女の場合はどのような位置付けなんだろうな、と言って、夕飯の席から持ち出したお銚子から、湯呑みに酒をドバドバ注いでグイッと飲んだ。

 こいつは本当に、日常生活にはおよそ役に立たなさそうな知識は豊富なんだよな。そうなのか、と先輩も目から鱗な顔で感心してるが、俺の仲間ももれなく同じような表情で、俺もやっぱり感心しちゃってる。

 まあ、俺の友人達は女の子、それも繭みたいな無邪気な女の子を邪険に扱ったりしない、気のいい奴らだし、比企も女の子にはイケメンなので、先輩、心配しなくて大丈夫っすよ。

 凪の浜の町へ到着した旅の初日は、こうして穏やかに過ぎた。その夜は、旅の疲れもあって俺達は全員、そりゃもうぐっすりと熟睡した。

 町を見て回るのは、朝になってからだ。

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