第61話 五人とひとりと恋の行末 4章

 すごいスピードで上昇を続ける俺達。どんな原理なのかはわからないが、勢いはまったく衰えない。ぐいぐいと空を真っ直ぐ上昇し続けて、なんだか空の向こうから引っ張られているみたいだ。

 足の下を見ると、やっぱり同じように、真っ直ぐ俺達を追ってくる浅葱の姿。怒っているような、泣いているような、どちらともつかない表情で、ただ、必死に追いかけていることだけはありありと伝わる。俺達と浅葱の距離は決して開かない代わりに縮まることもなく、どこまでもどこまでも、追いかけっこは続いていて、俺はぼんやりと、昔聞いて「あほか」と思った、アキレスと亀の数学小話を思い出していた。両者の距離は絶対に縮まらないが開きもしない、永遠に追いかけっこが続くという、あの話だ。

 比企はチラッと追ってくる浅葱を見遣って、左手を道服の袂へ突っ込んだ。つかみ出した何かにふっと息を吹きかけ、足の下に放り投げる。

「行け」

 ヒラヒラと落ちる紙吹雪が、落ちるうちに蝶の群れに変わった。浅葱の全身にバサバサと覆いかぶさり張り付いて邪魔をする。浅葱が焦ったそうに腕を振り回し、業をにやして叫ぶと、ぼう、と淡い紫色の炎が上がって、蝶の群れは燃えて塵になった。その間に俺達は上昇を続ける。比企はすぐに次の紙吹雪をばら撒き、それはコウモリの群れに変わり、燃やされるとまた紙吹雪を撒いた。今度のは、見事な白頭鷲が数羽。紙吹雪が撒かれるたび、浅葱の速度は落ちて、距離はさっきよりも開いていた。

 いつの間にか周囲は、ぼんやりした明るい霧から、薄暗くなり、闇がどんどん濃くなっている。

「そろそろ出口だ。しっかり目を閉じて、みんなつかまって。いくぞ」

 比企がひと言、道服の袖に捕まっている俺たちに声をかけた。

 慌ててぎゅっと目を閉じる。その瞬間、瞼越しでもなお燦々と眩しい、真っ白な光に包まれ、光が七色に変わってから、そして。

 城址公園の、お堀の前の魔法陣の真ん前に、俺達は戻っていた。

 魔法陣の中には香水瓶。その口からこぼれ出た浅葱色のひと雫が、ふるふると震えている。風もないのに微かに揺れて、それはやがてブルブルと激しく揺れ始め、ぐるぐる渦を巻くようにゆっくり回転し始め、その勢いは徐々に増して、独楽みたいに回り出した。

 反時計回りでぐるぐる旋回している雫は、回転と同時に少しずつ大きくなっているような気がするが、いや、実際に膨らんできてるぞこれ、どうなってるんだ。

 雫が縦に横にぐいぐい伸び縮みして、それはさらに膨張を続けて、やがて形を整え始めた。

 五分も経たない間に、雫は人間一人分くらいにまで増えて、長い髪の女の子みたいなシルエットになった。

 シルエットが整うと同時に、すうっとどんどん色が変わっていく。すべすべの白い肌、薔薇色の頬と唇。長い黒髪がしなやかな体を隠し、ゆっくりと閉じた目を開く。

 唇が微かに開いて、浅葱は俺を見て、微かな声で問うた。

「どうして」

 悲しげに眉根を寄せて、目を潤ませて、俺結構な罪悪感。でももう、俺は同時に浅葱に対する本能的な恐怖も感じている。男としては浅葱に対する好意はあるが、生き物としては、あんな風に俺達を追いかける姿を見ちゃうと、まずコワイしか感想出ません。それに、あのとき美羽子も比企もいたというのに、浅葱は忠広やまさやん達男子組だけにしか反応しなかった。お友達、と言って野郎だけしか視界に入らないということは。比企だって美羽子だって友達には間違いないのに。大概の女の子なら、ボーイフレンドが野郎ばかりワサワサ何人も連れてきたら警戒するだろうし、その中に女の子がいる方が安心もするだろう。それなのに、浅葱は女子二人を無視して、男子連中を見て喜んでいた。

 俺はその様子を見て、浅葱は違うのだと思ったのだ。

 俺とは違う生き物なのだ。

 男と女の間には、深くてでかい川があるのだというが、比企の調べた結果を聞くに、浅葱は女の子の一番コアな部分を抜き出された存在なのだろう。俺とはあまりに違いすぎたということか。

 俺は浅葱のことが好きだった。でも、どう好きだったのか、自分で不安になる程曖昧だった。そりゃあ歳相応にえろいことに興味はある。いっぱいある。でも浅葱はそういう対象にしたくなくて、もっと大事にしたくて、だけど、あのとき浅葱は俺が男の友達を連れてきたことを喜んでいて、──ああもう訳がわからねえ!

 女の子と妖怪が悪魔合体するとどうなるんだろう。俺はそんなことを考えながら、夏のどっぷりと生ぬるい夜気の中、荒い溜め息をついていた。

 

「君には悪いが八木君はこちら側の者だ」

 不意に比企が口を開いた。

 小首を傾げる浅葱の目は、子鹿みたいに澄み切っている。

 その無垢すぎる表情を見て、比企になんでも代弁させちゃいけないと思った。

 俺の恋なのだ。

 終わらせるのも続けるのも、俺が決めて俺が意思を表示しなくちゃいけない。

 俺は、どうするのか。いや。どうしたいのか。

 覚悟がなかなか定まらない。

「ねえ、あなたに訊きたいんだけど、」

 そのとき美羽子がしゃしゃり出た。

 その瞬間、俺は見た。

「女の子同士、気になるから聞いてみたいんだけど、あなたマコの何がよくて、どこが好きなの? 幼稚園の運動会のリレーで、ゴールするとき顔からスライディングして鼻擦りむいてたような奴よ。その後の遠足の写真なんて、カサブタで犬みたいに鼻の頭黒かったんだから」

 やめて! 俺の赤っ恥をこのタイミングで晒さないで! 俺のライフはゼロよ!

 でも俺の黒歴史の暴露に、浅葱はまるで反応しなかった。それどころか、なんとも奇妙な顔をしていた。

 まるで、動物や物がいきなりしゃべり出したかのような、そういう場に出くわしてしまったような。少なくとも、彼氏の友達に対して見せる顔じゃなかった。

 その顔を見て、ストンと腹に落ちた。

「浅葱」

 俺の呼びかけに、パッと笑顔に変わるのがいじらしくて、でももう、俺はその様に違和感を強く覚えてしまっている。

「あのさ、」

 むわっとした夜気で鼻の奥まで蒸し暑い。

「浅葱は、俺のどんなところが好きなの」

 俺は。訊ねながら、答えをとっくに知っている。

 浅葱はニコニコ笑って、俺の知っている答えを、なんでもないように口にした。

「真君は、おいしそうだから好きよ」

 …ごめん。やっぱ無理。

「いのちがすごく濃くてきれいな色してるの。透き通ってて、キラキラしてて、舐めると甘くて」

 あまりにも素直な答えを無邪気に口にする浅葱に、比企以外の全員が呆気に取られた。

 比企がそうかとうなずいた。

「どうだ八木君。彼女と仲よくやっていけそうか」

 ぶんぶんと首を振る俺。無理っす。俺はまだ誰かのごはんになるのはごめんだし、何より、

「友達引き合わせて、相手によって態度が変わるとか無理」

「まったく、貴君はいい奴だな」

 比企は俺の言葉に破顔した。

 

 腰の荒縄にぶち込んだ鞘から刀を抜き払うと、比企は懐からお札を出して、刀身に突き刺した。

「浅葱嬢と会うまではどうにかなるかとも思っていたが、もう私にできることは一つしかない」

 あれはいけない、と首を振る。

「自分のありように微塵も疑問を持っていない。愉しんでいる」

 そう、浅葱は愉しんでいる。俺をおいしそうと言った浅葱の表情には、一片の邪念も疑問も後ろめたさも混ざっていなかった。

 浅葱は恋をすると相手を捕食して、しかもそれが当たり前だと思っているのだ。

 結城がうへえ、と情けない声をあげ、源はドン引きの表情で美羽子をかばい、まさやんは顔を引き攣らせ、忠広はそれって、と呻いた。

「つまりあの子にとっては、男が主食で性的に食うのが飯を食うってことなのか? 」

「大体あってる」

 端的にあっさり認めないでくれ比企よ。

「性的においしそうと思うのが、餌としておいしそうだと思うのとダイレクトに繋がっている。彼女にとって、恋は捕食行為なんだ」

 俺達一同が愕然として、はあ? とバカ声張り上げると、比企はよく言うじゃないか、としれっと片付けた。

「火遊びするには魅力的な異性を、やれおいしそうだのうまそうだのと」

「いやまあ言いますけど! 」

「比喩です! あくまでも比喩だからあ! 」

「もののたとえってやつで! 」

「そうですよ、そんな女性に対して失敬な! 」

「てゆうか、そういう表現するのっておっさんだよな」

 理由もなく大慌てで弁明する俺と結城、まさやん、忠広と、幾分表情を死なせた源が冷静にバッサリ斬り捨て、美羽子が源の後ろから白っぽい目でこっちを見ている。

 比企は俺達の遣り取りにはお構いなしに、懐から瓢箪を出し、刀に水をぶっかけた。手首を軽く振って余分な水気を切ると、天に捧げるように刀を持って、スッと居住まいを正した。

「さて、それでは始めよう。崑崙仕込みの退魔術、とくとその目に焼き付けやがれ! 」

 そしてまた、いつものように始まる、比企のマジカルバトルオンステージ。

 比企は刀を手に、舞うように広場の煉瓦を踏み始めた。円を描くように舞い、刀で空を斬り地を指していく。何かぶつぶつと口の中で低く唱えるにつれて、浅葱の様子が少しずつおかしくなり始めた。

 顔色が悪くなり始めた。唇が白くなり、息が荒くなり、冷や汗をかき始め、見るからに苦しそうになっていく。

 同時にあの五芒星の頂点に置いた石が、光を放ち始めた。浅葱が苦しそうになるほど、光は強くなっていく。目も眩むほどに輝きを放ち、浅葱がついに立っていられなくなってうずくまった。全身が透きとおり、ふるふると蠕動し、縮こまる。

 比企が刀の鋒で宙に五芒星を描いた。

「木生火、火生土、土生金、金生水、水生木。五行を以て祓魔の刃となす。祓え! 急急如律令! 」

 五芒星の真ん中を鋒でとんと突いて、チッ! と気合いをかけた。

 五色の石が、下に敷いたお札ごと中心に集まる。凄まじい悲鳴をあげて、ゼリーのようにふるふると透明になった浅葱が蒸発していく。その、最後のちからを振り絞って、片手を俺に向かって弱々しく差し伸ばした。

「どう、し、て、」

「しつこさもそこまでいくと見上げたものだな」

 比企が刀を構えるが、俺はそれを遮った。

 これは、俺がちゃんと答えないといけないことだから。自分の気持ちに決着をつけて、きちんと終わらせるために。

 俺は僅かに残った浅葱の、倒れ伏した顔を正面から見据えて、できるだけ目線を合わせられるように膝をついて、そっと言った。

「俺は、俺と君しかいない世界では生きられないんだ」

 あの、浅葱と過ごした静かな森は確かに安らぎに満ちていたけれど。

「俺はね、俺がいて君がいて、それだけじゃない、二人がいるためには、他のもっと色々なものが一緒にないといけないってわかったんだ」

 二人だけの世界ではダメなのだ。

 なんの変化もない。刺激もない。だから発展も成長もない。今を引き伸ばすだけのあり方は、すぐに退屈に蝕まれ、それは内側から俺達を壊していくだろう。

「二人だけだとすぐにダメになっちゃうんだよ。二人があるためには、世界が必要なんだ。あいつらみたいに」

 俺は源と美羽子を指して、できるだけ静かに、優しく声をかけた。

「だから俺は浅葱とは、もう一緒にいられない。ごめん」

「どうし、て、わたしだけ、…足り、ないの」

「それは、」

 言い淀んだ俺に、比企がズバッと切り込んだ。

「それは、人間は誰かを好きになれば、その先の先を考えるからだ。結ばれた後は伴侶と共に現実の生活を営むところまでを考える。人間は社会の中で生きるものだからな、恋をして結ばれたところはゴールではなく、実は単なる通過点なんだよ。人間は、恋愛とセックスだけでできてはいない。もっと色々な物で構成されているんだ」

 身も蓋もないことを言って、比企はお前の半身について聞かせてやろう、と赤毛をボリボリ掻きながら続けた。

「恋をする心、お前を抜き去られたお前の半身だが、ご亭主には機械のようで薄気味悪いと言われたそうだ。ただただ、自分の遺伝子を残すためだけに子を産み育て、およそ人の情愛を感じられないと、そんなことを友人達にこぼしていたそうだよ。相手が俺でなくとも、子供さえできればそれでいいんだろうと」

 彼女には社会生活を送るのに必要な知性と、生物として子孫を残すという本能が残ったんだろう、と比企は肩越しに何かを放る仕草。

「人間と動物の部分が残った。そして、女の部分であるお前が抜き取られた。だからお前は、恋をして相手と深い仲になったとしても、その先は想像の外だった。お前が生きているのは現実の社会じゃない、ただフワフワ甘いことを言っていればやっていける夢の中だったんだからな」

「ゆ、め」

「そうだよ。恋愛なんてのはな、トチ狂って見たいものしか見ない、寄り目の薬中ジャンキーみたいな精神状態だからできるんだ」

 イロイロひどいな! 比企さん台無しだよ!

「ひどいよ! なんかもう、ぶっちゃけにも程があるよ! 」

「何を言うんだ八木君。全部本当のことだろう。彼女は夢だけ食って生きていたかったが、貴君は恋人に対して、周囲の誰もに祝福され堂々と大手を振って交際できる関係を望んだ。そもそものところで、貴君らはこんなにすれ違っていたんだよ」

 取り付く島もない徹底的な言葉だが、実はそれは、この場にいる浅葱以外の全員が、分かりきっていて口に出すまでもないものだった。

 浅葱はかろうじて残っていた片目をいっぱいに、悲しげに見開いた。

 

「八木君、」

 比企が静かに、ちょっと哀しげに俺に問いかけた。

「これから私はひどいことをする。貴君にはできないだろうし、させるには忍びないから私がやる。浅葱嬢は二度と誰かを餌食にして罪を重ねることはなくなるが、もう二度と会うことはできない。覚悟はできているか」

 喘ぐように、どうにかああ、と応じるのが精一杯だ。

「最初に言ったと思うが、恨むのは私一人だけにしてくれたまえ。岡田君に肥後君、結城君、源君に笹岡さん。みんな、君をみすみす浅葱嬢に取り殺されるのを受け入れられないからこそ、ここに来た。私も同じ気持ちだ。私はね、生きるべきだし、その気になればもっと生きられる誰かが、目の前で死んでいくのは嫌なんだよ。アフリカで何度そんなものを見せられたか。私の手が届く範囲で、二度と仲間を見殺しになどするものか」

 どうしても最後まで立ち会うのがつらいなら、今みんなと一緒に帰って、と言いかけた比企を、俺は遮った。

「最後までいるよ。きっかけや成り行きはどうであれ、浅葱は俺が好きになった女の子だから」

 だったら、最後の瞬間までいてやらなくちゃダメだろう。

「それに、比企さん一人に悪役なんかさせられない」

 そうよ、と美羽子がずいと前に出た。

「よく言ったわマコ! そうよ、あたし達仲間なのよ。比企さん一人だけにそんなひどい役回り、押し付けられないわ。そうでしょヒロ! ねえ大牙君」

「美羽ちゃんの言うとおり! 」

「美羽子よく言った」

「だな、笹岡の言う通りだ。ここで比企さん一人に何もかも丸投げなんざ」

「友達甲斐ないよなー」

 まさやんと結城が大きくうなずいた。

「まあそういうことで、俺ら全員残りますのでヨロ」

 俺が締めると、比企は宇宙猫顔で目を丸くして、それからまったく君らは、と言いかけて、ブフォーッ! と盛大に吹き出した。

 

 道服の懐から巾着を出して、口を広げて比企が取り出したのは、おもちゃみたいな小さな門と、ジンジャークッキーみたいに人型に切り抜いた紙。比企は紙人形にふっと息を吹きかけてから、もうすっかり溶け崩れた浅葱にその紙を乗せた。淡い水色のゼリー状の何かを吸収しきったところで、紙人形がふるふると立ち上がる。よちよちとおぼつかない足取りでこっちへ近寄る。その前に、比企が門をコトリと置いた。

「開け」

 遠目で見ても板に扉みたいな絵が描いてあるだけのはずなのに、門は開いた。朱塗りの扉と、両脇に赤い紙に墨汁で何か描いてあって、真ん中に福の字を逆さまに貼っている、大昔のカンフー映画や紀行番組やなんかで中国の田舎に行くと出てくる、ああいう門だ。

 俺達は見た。

 開いた扉の向こうは、真っ暗い大地と、朝焼けとも夕焼けともつかない真っ赤な空。赤い空は地平線にへばりつくように低くて、そこから上は地面と劣らぬ暗がりだ。その、真っ暗いどこかを垣間見せる中から、不意に真っ白い腕が伸びた。蛇みたいに白くてしなやかで滑らかで、ほっそりとした女の腕だ。不意に、唐突ににゅう、と伸びた腕は、すぐに紙人形を摑んだ。ぎゅうっとスポンジでも搾り上げるように握りしめて、びゃっと引っ込む。バタン! 扉が閉まった。この間、一分もあっただろうか。

 俺は、あの腕を知っていた。

 門のおもちゃは、見せてもらうと扉はやっぱりただの板切れに絵を描いているだけで、そもそも開く訳がないのに、どうやって開いたのかが謎でしかなかったが、特定の条件が揃わないと開かないのだと比企は言った。

「今の真っ暗なところって、あれどこに繋がってたんだ」

 まさやんが訊ねると、比企は淡々とあの世だと答えた。

「正確には冥府の手前、あの世寄りの中間地点だよ。死後の裁判を受けようにも受けられない者がうろついているんだ」

「どんな人が受けられないの」

 美羽子が小首を傾げる。比企はうん、とうなずいて、

「魂魄が欠けたりなくしたり、何も信じていなかったりする人だよ」

 門の置物を巾着にしまってから、五色の石を拾い上げて一緒に収めると、さて、と比企は肩を揉んだ。

「帰ろうか」

「そだな」

「小腹減ったし」

「コンビニ寄って帰ろうぜ」

 ひと仕事終えた感じで、俺達全員ゾロゾロと移動を開始。

「おいヤギこれからは女には気をつけろ」

「ちゃんと人間の彼女にしろよな」

「お前にはまず、おっぱいだけで選ぶなと言っておく」

「そうだそうだ。女の子はおっぱいだけじゃないぞ、尻だってある」

 まさやん、源、忠広、結城が言いたい放題だけど、さすがに今回は反論できねえ。みんなすまん。

「ちょっと結城君セクハラ! 女の子は体だけじゃないでしょ」

「そうだよ、美羽ちゃんはいいこと言うな」

 バカップルに突っ込まれて、結城がうう、と小さくなってから、モゴモゴと料理の上手な子っていいよなと言い直した。

「唐揚げとか上手な子だと最高」

「完全に食い気じゃねえかよ」

「まあこいつらしいっちゃあらしい」

「そのままの結城でいてね」

 いつぞやの、冬の夜に行方をくらました後輩を探したあの夜のように、城址公園の門を開けて外へ。バスで公園前駅に出たところで、俺達男子五人は結城のうちで夜中までサメ映画を観て、美羽子は比企と桜木さんのマンションでひと晩パジャマパーティーだとかで、明日の午後に上海亭に集まろうと決めて別れた。

 その夜は誰も、さっきまでのことには一切触れず、いつも通りあほなD級映画を観てはゲラゲラ笑い転げ、あほな話に終始して雑魚寝した。

 

 待ち合わせた時間に上海亭に行くと、すでに比企と美羽子がいて、高校の頃の指定席で特盛焼豚炒飯と特盛もやしそばを食っている比企を、美羽子が宇治金時をつつきながらぼんやり見ていた。

「それにしてもなあ、」

 炒飯を片付けて、もやしそばの残りを啜り込みながら比企がぼやく。

「あんなピーキーなことができる術式、誰がどうやって実現させたもんかな。落魂陣らくこんじんじゃあ大掛かり過ぎるし、釘頭七箭書ていとうしちせんしょも効果の出方が違う。何をどうしたらあんなことができるんだ」

「比企ちん何それ」

「魂魄を吸い出す陣と、七箭書は特定の人間を呪い殺す暗殺の術法」

「やだ物騒」

 自分で訊いたくせして、比企の答えを聞いて忠広とキャッキャするな結城よ。

 そこに、お客が入ってきた。

 いらっしゃい、とおばちゃんがお冷やを出しに来て、いでたちを見て軽くギョッとするが無理もない。なんて言うのか知らないけど、ほら、あれですよ。松尾芭蕉みたいな俳句の人的な着物で、口髭も髪も真っ白い、丸眼鏡の爺さん。いかにも俳句名人って感じの爺さんが、草臥れた町中華のテーブルについているので、場違い感濃厚。

 爺さんは俺達の隣のテーブルについて、ここにいましたかと、迷わず比企に声をかけた。え、何知り合い?

 爺さんは氷小豆を注文して、ハンカチを出して汗を拭った。それから、お手間を取らせたようですね、と天気の話でもするように言って、うまそうにお冷やを飲んだ。

「あれはあんたの仕業か」

 比企が苦々しげに返事をして、危うく戦友が死ぬところだったぞと爺さんを睨んだ。

「え、何比企さん知り合い? 」

 思わず訊ねると、知り合いも何も、とため息をつく。

「裏社会や拝み屋の間ではそこそこ有名な爺さんだよ。年齢も本名も不明、とりあえず紫明先生とだけ呼ばれてる曲者だ」

「何してる人なん」

 結城の質問に、とりあえず占い師ってことになってる、と言う比企の答えは、ことになってる、というその一点で実に胡散臭かった。

「占いとはちょっと違うパラダイムで構成されてるんだろうと私は思っているが、まあ、そういう爺さんだ」

「まじか」

 全員が、なんとも言えない曖昧な引き笑いで爺さんを見る。

「そのお爺さんが、どうして比企さんに会いに来たの」

 美羽子の疑問に、爺さんが愛想よく笑って答えた。

「私が昔手がけた仕事を梅娘子めいにゃんつが締め括ったそうで、挨拶に来たんですよ」

「何が挨拶だ。あんたの仕事は、いつだって頼まれたこと以外は一切放置で、その後何が起ころうと我関せずじゃないか」

 どうも比企は、裏の社会では梅娘子と呼ばれているみたいだ。当たり前に爺さんと話を続けている。

 爺さんは好々爺と言った風情の穏やかな笑顔で、いやあ、とひどいことを言い放った。

「私は結果でなく過程に興味があるので、そういうものは別にいいんですよ」

 それってすげえクズじゃん。

「すげえクズじゃん」

 思わずこぼすと、そうだクズだ、と比企がうなずいた。

「人間の感情を、それも特定のものだけを抜くとどうなるのか。気になりませんか」

 爺さんがのほほんと、茶飲み話でもするように言ったが、のんきそうである程にクズぶりが際立つぜ!

 比企は盛大に顔をしかめて、カウンターに向かってバカ声張り上げた。

「すみません特盛青椒肉絲定食と胡麻団子とクリーム宇治金時お願いします! 」

 あいよ、と親父がウキウキと返事をして、待つという間もなく青椒肉絲が出てくる。てんこ盛りの白飯と肉をバクバク食い、そんなもんどうなるかぐらいやらんでもわかるわ、と爺さんの言葉をバッサリ袈裟斬りにした比企は、だからあんたは悪趣味と言われるんだと片付けた。

「やるまでもないことを、自分の愉しみだけのためにやって、しかも結果がどんなにひどいものになっても、頼んでやらせた連中の問題だと取り合わず、観察だけして放置する。悪趣味もいいところだ」

「愉しかったでしょう」

 ニコニコと穏やかに笑う爺さんの、丸眼鏡の奥の瞳は、とろりと歪んだ悦びに溢れていた。

 なんだこの爺さん。俺は本能的な嫌悪を感じた。忌まわしい。この爺さんは、たぶん他人の破滅をお茶でも飲みながら完全に他人事として愉しめる。誰かの苦しみが、この爺さんにとっては娯楽なのだ。

 どんなド外道だ。

 俺は、人生において初めて、他人の不幸を心底楽しめる人間に遭遇した。

 比企は狼のような目で爺さんを睨み、おいご老体、とそっけなく斬り込んだ。

「あんた何しに来た。普段露人街から出てきやしないのに」

「ああ、どうも古い因果が動いたようなのでね、結果を確認しに来たんですよ。どうでした、苦戦しましたか」

 あんなもん屁でもないわい、と切り返して比企は、ただ嫌いなだけだと吐き捨てた。

「人間を実験動物扱いか。何様のつもりだ。動物で実験するのだって胸糞だってのに」

「後学のために、話だけでも聞かせてもらえませんかね。人間の魂魄を古い道具と融合させた人工付喪が、どんなものになるのか。どの程度意思疎通ができるのか、知能がどのくらいなのか、知りたいことはたくさんありますから」

 乾いた音がした。

「とっとと帰れ混蚤ばかが」

 比企が押し殺した声で、満面に獰猛な笑みを浮かべ、バチン、と割り箸を置いて言った。割り箸はバキバキにへし折れていて、比企は新しい箸を取りながら、ニマニマと獰猛さをいや増しながら、花のように笑った。

「それとも今ここで死ぬか。手前ぇが昼に何を食ったのか、腹に風穴開けて確認してやってもいいんだぞ」

「私の演先天数うらないの原理、あなたには薄々わかっているのでは。それなら勝ち目は薄い。やるだけ損ですよ」

「何が演先天数だ。お前のはただのチートというんだ。チート技に頼るだけが能の常人が、そんなに本気の私と闘いたいか」

「本気ね。露人街の姫が、そこまでする価値があるとでも? ただの若者と、ただの紛い物でしょうに」

「生憎だったな、彼らは何ものにも替えられぬ戦友だ。お前にはそうでも、私にとっての価値は青天井だ。その彼らの心を弄ぶのは断じて許さん」

 笑顔のまま牙を剥く比企。ものの例えじゃない。実際に、比企の犬歯はガッと伸びていて、ニマニマとすごい笑いになっていたのだ。爺さんの、からかい半分の余裕面が引っ込んだ。

「じょ冗談ですよ、冗談」

 取りなすように両手を振って、比企のご機嫌を窺うと、さすがにいくらなんでも、あなたを相手に回すのは勘弁願いますよと取り繕った。

「あらゆる困難を馬力と瞬発力で打破するあなたでは、相性が悪すぎていけない。何より、万一あなた個人に勝てたところで、その後は大公家とエリコニン、李剣聖と玄都公主が控えているのではねえ」

 真っ赤な唇を笑み崩させながら、そうかと比企はうなずいた。さっきまで、いつもと同じように血の気のない色をしていたはずなのに。だけど牙が引っ込むと、すぐに血でも塗ったみたいな色をした唇も元に戻った。

「何をビビり散らしてるんだこの耄碌爺は。お前の血なんか頼まれたって飲むわけがなかろうが、このいちびりが」

 すげなく片付けて飯を再開すると、比企はあっさりと爺さんの欲しがっていた答えを放り投げるように言った。

「まあ、あんたの予想通りの経過を辿って、予想通りのオチがついたさ。人間は理性も感情も本能も揃って初めて人間なんだ。特定の部分だけをピックアップしても抜き去っても、存在は歪む」

「またえらく素直に答えをくれたものですね」

 爺さんが驚くが、比企は箸を持ったまま、右手をハエでも払うようにひらひらと振った。

「わからんか。二度と私の戦友に関わるな、とっとと帰って道観路で易者の真似事でもしていろと言っているんだ」

「なるほどね。わかりましたよ、私もまだ命は惜しい、おっしゃる通り、甘味をいただいたら帰ります」

「食えん爺だ」

「お互い様でしょう」

 

 爺さんが引き揚げると、比企は二度と面ァ見せるな、と毒づいて、かき氷を掻き込んだ。一気喰いしすぎて頭がキーンとなったのか、こめかみ辺りを押さえる。

「比企さんさっき牙伸びてなかったか」

「春先にクリスが言ってたのってまじだったんだ」

 忠広と結城がぼんやりと納得する。

 あの爺さんは厄介なんだと比企は言った。

「どうも私の推測だと、因果律をいじって望み通りの結果を持ってくる能力みたいでな。本気で挑んで、爺さんが自分に都合のいい結果を生み出す前に、秒で倒さないと危ない」

「まじか」

「どんな万国びっくりショーだよ」

 まさやんが驚き俺がツッコむと、比企はああまったく、とため息をついた。

「東京露人街ってのは、まあ、ああいうデタラメナイズな奇人変人怪人がトグロ巻いてる場所だ。よい子も悪い子も、面白半分で行く場所じゃないぞ」

 ああ、うん、と曖昧に笑って流す俺達だが、美羽子がそう言えばと蒸し返しにかかった。やめなさい。

「あのお爺さんに、頼まれたって血なんか飲まないって言ってたけど」

 コラー!

「比企さんはどんな血が好みなの」

 やめろ! お前まじでやめろ! だけど比企は、でへへと照れ笑いしてぺろっと答えた。

「実は自慢だが、私は一度も血を飲んだことがないんだ。だから好みもよくわからない」

 いやー恥ずかしいなー、とうへうへ笑っている比企。

 なんというか、うん、照れるポイントそこなの? って感じだが、今度桜木さんに教えておこう。

 人間はこうやって、知っている誰かや知らない誰かに囲まれて生きるのが本来のあり方なんだろう。

 今ここに、浅葱を連れてきてやりたかったな。俺以外の友達を、たくさん作れる場所に連れて行ってやりたかった。

 俺はそんな感傷を飲み込んで、照れるところそこかよ! とツッコミを入れた。

 俺は浅葱を忘れない。忘れずに一緒にこれから生きて、大人になって、歳をとってから浅葱の記憶と一緒に死んでいくのだ。

 恋をするというのは、人それぞれの意味があるんだろうけど、俺にとってはそういうことなのだ。

 しかし比企よ。もう一度じっくりと言う。

 照れるところそこかよ!

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