第60話 五人とひとりと恋の行末 3章
「恋っていうのはさ、」
源がろくろを回す手つきで語る。
「いつの間にか落ちてるもんなんだよ」
真面目な顔つきでもっともらしく語る源に、薄ら笑いになってしまう俺だが、喫茶店のボックス席に収まった他の仲間──結城、忠広、まさやんも俺と同じように白っぽい目で、曖昧にヘラヘラ笑っていた。
真面目に聴けよと文句を言うが、いや、だってクサいんだもん。
だからさあ、とアイスコーヒーをぐいぐい飲んで仕切り直して、源は続けた。
「ヤギの彼女が、普通の女の子だったら俺だって、もっと嬉しいと思うさ。でもさ、話聞いてるともう違うじゃん。そうじゃないじゃん」
「それは確かに」
「たしかにたしかにー」
うなずく忠広と結城。
「俺もさすがに、生命力吸い取る女がヤギと付き合うとかはねーわ」
まさやんまでそんなことを言い出した。やだ俺仲間に愛されてる?
「俺の場合はさ、きっかけは些細なもんだったかもしれないけどさ。俺と美羽ちゃんはつまんないことも話して、喧嘩もして、そうやってずっとやっていける。でもヤギはその彼女と、どんな風に長く付き合っていくのか、見えるか? 」
黙って紅茶を飲んでいた比企が、そこで顔を上げた。
「八木君」
俺を見据えて比企が問う。
「貴君は、浅葱嬢とどうやって仲を深めたんだ」
俺は。
「彼女とどんな話をして、どんな時間を過ごしたんだ」
何も答えられなかった。
夕方の喫茶店で、草臥れた顔を並べてダラダラ過ごし、李先生の接骨院が終わる時間を待つ間、俺達はゆるーい感じで、そんな風にだべっていた。
何も答えられなかったことが俺にはちょっとショックで、李先生のところへ行くまでの間、ずっと黙りこくっていた。
ただ一緒にいるだけで、何も話さなくたって、俺はそれでよかった。本当にそれだけでよかったのだ。でも。
どうやら源に言わせると、それじゃいけないみたいだった。
「浅葱ちゃん、だっけ? どんな女の子なんだ」
源が質問を重ねる。
「何が好きで、どんなところで意気投合したんだ」
比企は黙って俺達のやりとりを、聞いているんだかいないんだか。
「お前は浅葱ちゃんの、どんなところがどう好きなんだ? 」
──俺は。
答えられなかった。
源君、と声がかかった。
「まあその辺にしてやりたまえよ」
比企がポットから紅茶の次の一杯を注ぎながら、妖物に魅入られるというのはこういうことだと言って、そのままごくごく飲んだ。
「相手の心に入り込み、いつの間にか握っている。これこそが魅了型の妖物のおそろしさだ。心を摑んでしまえばもうこちらのもの、あとはいいように操ろうと、そのまま餌にしようとも思いのままだ」
「まじか」
「やだコワイ! 」
「ヒイ! 」
小鳥のように怯えて震える結城と忠広、源。まさやんもやべーなとため息をつく。
比企はそんな四人に、他人事と思ってはいけないぞと釘を刺した。
「今回は偶々八木君が出逢ってしまっただけのことだ。いつ何時、どこで行き当たるのか知れたものじゃない。いや、相手が妖物とは限らないぞ。世の中には妖物よりもっとおそろしくてタチの悪い人間だっているんだ」
李先生と比企は取り憑かれていると言った。
俺はとにかく浅葱が好きだった。何の根拠もなくても、きっかけがなくても、そんなものなのだろうと思っていた。
どうもそうじゃないみたいだ。
てゆうか、知らねえよ他人様の恋愛事情なんてさあ! 俺は偶々こうだったの! そもそも、こんな風に好きになっちゃう女の子と出逢ったのなんか、初めてなんだからさあ! そんなもんだと思うじゃん!
俺達を出迎えた李先生は、そんな俺の顔を見て、黙って肩をポンと叩いただけだった。それから、比企に細長い布の袋を渡し、お札の束と巾着袋を渡し、ふた言三言囁き交わしてから、邪気払いだ食っていけ、とお菓子とお茶を振る舞ってくれた。クッキーみたいな焼き菓子は、ほんのりと桃の匂いがした。
ぼんやりと考え込みながら、仲間のお尻にくっついて、城址公園へ。お堀の前の広場で、煉瓦敷の上へ白墨で図形とまじないの印らしきものを書き込んでから、比企は大きく書き込んだ五芒星の頂点にポンポンと、懐から出したものを並べていく。俺を中心に立たせて、まず青い石を置いた。指先くらいの小ささだ。それから時計回りに、同じくらいの大きさの石を、赤、黄、白、黒と置いていく。よく見れば、青いのはサファイアみたいだし赤いのはルビーみたいだ。え、全部宝石なのかこれ。石の下にはお札を敷いて、俺にもお札を持たせた。
「火行金行にやや不安はあるが、対応する宝玉と増幅させた木行水行土行の相生で補おう。まずは、彼女が何を思って、行く先々で男を取り殺していたのかが肝心だ」
無意識なのか、あるいは意識的になのか。
「その上で、それを浅葱嬢自身が嫌だと思っているならどうにか手を尽くしてやらなくては。そうではないなら、そのときには」
比企はそこで言葉を切って、チラリと俺を見た。
そうでないのなら。
「私でも師父でも救えない。身も心も怪物になり切ってしまっている証拠だ」
「そうなってたなら、何が違うんだ」
モゴモゴと歯切れ悪く訊ねる俺に、比企は簡潔に答えた。
「そうであれば、出逢ったのが偶々八木君だったというだけで、浅葱嬢にしてみれば、誰でもよかった、ということだ。健康で、生命力にあふれた若い男性であれば、餌として見て捕食するということだよ。そこに愛とか恋とかの入る余地はない」
「そう、か」
「八木君がこの前聞かせてくれた話から考えるに、おそらくだが、浅葱嬢は貴君に自分を好ましい乙女だと思わせるよう働きかけている節がある。催眠なのか、そうでなく単純な人心掌握のテクニックなのか」
それがどんな心の動きから、どう発露しているのか、と比企は懐手で腕組みした。
「まあ、その辺を見極めるのは八木君だ。真実彼女が自然な心の動きで八木君に恋をして、自身のあり方が嫌だと思うなら助けるよ。ただ、それとは真逆であるなら、私も、今ここにいる戦友諸君も、何としても貴君を助け出す」
その結果、浅葱嬢が傷ついたりしたとしても、皆のことは恨まないでくれ。比企はそう言って、俺をまっすぐに見据えた。
「私のことはどれだけ恨んでも構わない。ただ、きっと彼等は人から恨みや憎しみを向けられた経験はない。それも親しい友人からとなれば、ショックもひとしおだ」
「それは、」
「みんな貴君のことが大好きなんだよ」
「わ、かってるよ、そんなの」
俺達が比企と知り合った、高二のあの、初夏の事件でもそうだった。みんな俺が元の体に戻れる、早く戻さないと体に取り憑いた魚の怪物に魂まで喰われると聞いて、当たり前に俺を助ける手助けをしてくれた。そのあとだって、巻き込まれた騒動や事件の真っ只中で、みんなが当たり前に助け合い補い合って、俺達は乗り越えてきたのだ。
「俺、なんか助けられてばっかりだ」
ポロッと漏らした言葉に、比企は即座に切替した。
「何を言っているんだ。私など、これまでにどれほど人から助けられ続けていることか」
何やら指を折って数えながら、
「曽お祖母様に引き取られ、師父と師公に育てていただいて、親父殿の仕事を手伝わされるようになったら本郷や山崎に命を助けられ、アフリカから返されたあとは母上や千翠の女将さんに姐さん達に助けられ、学校へ入れば貴君らが助けてくれた」
「比企さん俺らのこと助けてくれてばっかじゃん」
俺の返しに、いやいや、と苺色の髪を掻き回して比企は笑う。
「私は命の危機からは助けられるが、社会的な常識とか最低限のルールとか、そういうものに疎いからな。誰にも教えてもらえなかったら、永遠に身につかないんだ」
あ、自覚はあったんだ。
道服姿のロシア娘は、ちょっと照れたように目を逸らして、広場の隅のベンチでこっちの様子を見守っている仲間達に、片手を上げて合図した。
「いいかい、浅葱嬢がどんな存在なのか、八木君自身が判断するんだ」
「わかった」
「万が一のそのときには、みんなで君を迎えに駆けつけよう」
比企がうなずく。俺もうなずき返して、五芒星の真ん中に胡座をかいて座った。
「これから八木君は試練にあう」
比企が、最前からずっと抱えていた、細長い布の袋の口を開ける。
「見たくないものを見て、聞きたくないことを聞くだろう」
しゅる、と中から出てきたのは、黒漆の鞘に収まった刀。沖縄で見た脇差よりもっと長い。
「まさか今日がこいつの初陣になるとはな」
源と美羽子が、忠広がまさやんが結城が、比企のやや後ろに固まって控える。あ、と刀を見た結城が声を上げた。
「もしかして、去年の夏休みの? 」
「ああ。研ぎに出して、拵えも仕上がったんだ」
二度目の怪獣退治で報酬がわりに引き取った、あれか!
比企は鞘を払って刀を手に、軽く姿勢を整えた。
「始めよう」
すう、と足を踏み出し、前へ進んで後ろへ下がって、摺り足で奇妙な足捌きをする。
「天蓬」
風がお堀の水面にさざなみを起こす。
「天内」
しんと静まり返った公園の中。
「天衝」
空には半月が浮かんでいる。
「天輔」
もうすっかり夏の空気だ。
「天禽」
それなのに、不思議と俺はさっきからまったく蚊が寄ってきていないことに気がついた。
「天心」
周りを飛び回る羽音すら聞こえない。
「天柱」
夕方、李先生の接骨院へ行く間すら、プーンという羽音が鬱陶しかったのに。
「天英」
比企が道服の懐から、あの小瓶を出した。ふっと息を吹きかけ、栓を抜いて、瓶の口に指をあてがって小さく
「姿をあらわせ」
その瞬間、蒸し暑さすら感じていたはずの初夏の風が、ひんやりと違う季節の匂いを運んで吹き抜けた。
あの、霧の立ち込める森の中。夏の終わりの深夜の、ひんやりと秋の気配をひと刷毛まとった、花と果物の甘い香り。
俺はあの森の中にいた。
バイト先の骨董屋で買った小瓶を比企に預けてから、もうしばらく訪れていなかった、森の中だ。もう少しあっちへ行くとあの泉があって、そこには浅葱がいて、水面に伸びかかる枝にちょこんと腰掛け、白い素足を泉で洗うように浸している。
ノロノロと歩き出す俺の隣に、比企がいた。
「また随分とわかりやすい風景だな」
比企が周囲を見回してひと言、そっけなく斬り捨てる。
「夜霧よ今夜もありがとう、って、ありゃ横浜の港の話だろ。こんな森の中じゃないぞ」
「いや比企さんわからんって」
まさやんが周囲を見回して、何だここ、と漏らす。
「人どころか生き物の気配がねえ」
静かだなと結城がうなずく。
「虫の鳴き声もないもんな」
美羽子と忠広が森を見て、随分と深い森だと感嘆した。
「何だか原生林みたい」
「京都でこんな森見たよな。下鴨神社だっけ」
「あそこもこんな感じだったな」
源も、どこから出られるのか見当もつかないなと空を仰いだ。
「出口はたぶんないんだろう」
比企が淡々と答える。
「え」
「嘘だろ」
「ちょま」
「ファッ? 」
源、まさやん、忠広、結城が慌てて周囲を窺って、美羽子が源と比企の顔を交互に見た。
「強いて外への道を探すなら、ここだ」
比企は空を指差して、まったくなあ、と刀を鞘に収めて肩を叩く。
「壺中天、ということか。こんなところに結界張って、目星をつけた人間を引き込んでいたのか。誰の邪魔も入らない閉鎖環境で、相手を自分の色に塗り替えて、うまいこと器に適応したか」
空を見据える目は狼のようで、軽くふん、と鼻を鳴らしてから森を見回した。
「虫もいない、動物もいない。植物だけの森、か。イメージだけの少女漫画的な生物相だな。大概の女子は虫もカビも嫌い。動物も受け付けるのはリスや小鳥程度。熊や猪は怖いと嫌がる。ここは若い女性の恋心を封じているからね、だからそういう、女子が嫌うものがまるっきり欠けている」
何となく下生えが途切れて踏み固められた道とも言えぬ道を、俺達は揃ってゾロゾロと歩いた。
「この森に出口がない理由は、おそらく二つある」
道服姿の比企が、たぶん俺達の誰より軽々とした足捌きで森を歩きながら続ける。
「そういえば香水瓶に封じ込めてたんだよな」
結城がうーん、と考え込んだ。
「だから空にしか出口がないんかな」
「それは一つ目の理由だな」
「え」
当たってるんかい。さすが天然の馬鹿力。
目を丸くして結城と比企を交互に見る俺達。比企は淡々と続けた。
「この森はちょっとした結界でね。あの香水瓶の中に収まっているわけだ。だから出口は空の、瓶の出口にしかない。そして理由の二つ目は、」
そこで俺をチラリと見遣ってから、八木君には酷な結果につながらないといいが、とため息をついた。
「あくまで推測でしかないが、浅葱嬢がここから出たいと思っていないから、ではないか」
つまり、
「出たくないから出口はいらない」
まさやんがボソッと漏らして、
「必要がないからそもそも最初からない、ってこと? 」
美羽子が囁くように訊ねて、俺は思わず息を呑んだ。
そして、唐突に下草が途切れ、あの泉が姿をあらわす。
水面に低く張り出す枝の上には、いつものように浅葱が腰掛け、冷たい水で素足を洗うように浸していた。
白い素足、長い黒髪は濡れたようにツヤツヤで、白いワンピースの裾がひらひらなびいていて、その様子はいつも通りだったのに。
俺は、浅葱のその姿を見た瞬間、理由のわからない本能レベルの恐怖を感じた。
怖い。ただただ怖い。
その恐怖は、夏に二度見た知能を持った怪獣どもとも、ついこの前出会った、自分の娘の亡骸と何年も暮らした芸術家とも、性質の異なるものだった。
怪獣どもへの恐怖は、言葉が通じない、理解し合えないところから生まれたものだった。芸術家へのそれは、言葉は通じ合えるのに、言葉が指し示す感情や現象がどうしようもないほどずれている不気味さからくるものだった。それじゃあ、浅葱へのこの恐怖は、何が生み出しているんだ?
姿形は俺達や美羽子、比企と同じ、人間の若者で、言葉だってちゃんと、俺には意味も単語の音の並びも馴染みのある日本語だ。言葉は通じるし意味だって通じる。それなのに。
ふと浅葱が視線を上げた。
「真君」
花のように笑う。
いつも通りの笑顔で、いつものように俺を呼んで、それがあまりに当たり前なので、俺はうっすらとした違和感をうなじ辺りに絡みつかせながら、何もおかしなことなんかないじゃないか、と小さく息をついた。
比企が囁くような小声で俺を呼ぶ。
「彼女には貴君の姿だけが見えるよう、皆には阻害の符印を持たせている。いつも通りに頼む」
「わかった」
うなずいて、俺は浅葱の隣にそっと腰を下ろした。いつものように。
しばらくは黙って、ただ微笑みでお互いの顔を見ては静かに肩を寄せ合っていた。
やや間があってから、浅葱が仔猫のように肩をすり寄せ、嬉しいな、と言った。
「今日は真君、お友達も連れてきてくれたんだ」
「え、」
「あっちに、男の子が四人」
「何を、」
俺達が森を抜けてきた道の方を迷いなく指差して、浅葱はニコニコと笑っている。
「浅葱」
そこで俺の違和感が絶叫した。
浅葱は「男の子が四人」と言った。ということは、俺にはバッチリ見えている、まさやんに源、忠広、結城は認識しているが、一緒にいる美羽子と比企をまるっと無視しているのか、それとも認識していないのか。美羽子の目は、比企がみんなに持たせている阻害のお札とやらを突き抜けて、男子四人のことだけは認識しているということになるが、じゃあ美羽子と比企をどう判断しているんだ。同じようにお札を持っている美羽子と比企を、まるっきり無視しているのか?
ねえ、と浅葱が俺の顔を覗き込んだ。
「わたし、真君のお友達ともお話ししてみたい。真君のこと聞きたいな」
俺の首に白い腕を回して、お互いの息がかかるくらい近づいて、それから浅葱はぎゅう、と抱きついて俺の耳に唇を寄せる。清々しい、甘い、あの香水瓶の中に入っていた、淡い水色の香水と同じ香りが立ち込めた。
頭の芯が痺れかかって、その瞬間。
もっと濃い、蓮と桃とハーブの匂いが漂ってきた。頭の芯がシャキッとして、俺はハッと浅葱の顔を見ると。
悔しそうな、険しい顔で俺の肩の向こう、みんながいる辺りを睨みつけていた。
「八木君下がっていたまえ。貴君、生気を吸われかかっていたぞ」
比企が吊り香炉をぶら下げて、仲間を背に庇うように立っている。香炉からはうっすらと煙が立ち上り、俺が間合いにまで近づくと、ぶんぶんと頭の上で振り回し、蓮と桃とハーブの香りを振り撒いた。京都の置き屋さんの怪物退治のときに見た、あの香炉とお香だった。
「どうして」
浅葱がぎりぎりと歯を食いしばり、比企を睨み付ける。
「どうやって入ってきたの」
それでもこっちへ寄って来られないのは、香炉の煙のせいなのだろうか。
方法はご想像に任せるが、と比企は香炉をぶんぶんやりながら答えた。
「八木君は男女を問わず、分け隔てなく友人になれる気さくな奴でな。友人一同で迎えにきたんだ。あんまり我々の仲間を独占しないでもらいたい」
「何が友人よ。わたしは真君の、」
言いかけた浅葱に、比企が遮るように切り込んだ。
「独占禁止法を知らんのか。独り占めはいかんぞ独り占めは」
「あのなあ比企さん」
「比企ちん今は法律講座じゃないから」
思わず忠広と結城が突っ込んだが、それに、と比企は取り合わずに続ける。
「どうやら恋人だとか続けたいのだろうがな、まともな人間の恋人同士というのは、相手の正気を吸い取ったりしなくても成立するものだ。むしろ、そんなことをしたりされたりする関係は恋仲なんかじゃない」
黙って睨み続ける浅葱に、赤毛の道士は声高らかに言い放った。
「それは捕食者と被食者というんだ。ただの食物連鎖だ。私の戦友を、そんな下品な連鎖に組み込まないでもらいたい」
そりゃもう堂々と言い放って、比企は結城に香炉を渡した。
「結城君、こいつを私が今やったように頭の上で振り回してくれ。この匂いがちょっとした魔除けになる」
あ、手が塞がってるのが嫌なんだな。ということは。嫌な予感がする。
「みんな私の後ろで固まっていてくれ。少々荒れるぞ」
慌てて美羽子を中心にスクラム組んで固まる俺達御一行。美羽子もぎゅっと背を縮め、源がしっかり抱え込む。結城は比企のすぐ後ろ、スクラムの前面で香炉をぶんぶんやっている。
「邪魔しないでよ! 」
浅葱が激しく叫んで、同時に俺達へ向かって地割れがめりめり近づいてくる! あんなの落ちたら即死だぞ、と慌てふためく間もなく、地割れは香炉の煙が落ちかかるところでピッタリ止まった。バリバリバリボゴゴゴゴ、とすごい音がして地面が捲れ上がるのも、バキバキ森の木々がへし折れていくのも、破片は香炉の煙のこちら側へは一切入ってこない。どうなってるの。
「比企さんこの煙何なん」
訊ねると、ああ、と比企はあっさり答えた。
「お山で学んだ錬丹術を応用した、魔除けの香だよ。桃は妖物が嫌うし、ハーブは嗅いだときに清々しくなるだろう。邪気に当てられても正気に戻りやすい。蓮も魔除けにいいんだ」
「さいですか」
「だな。…ところで八木君、困ったことにこの香が効いてしまったということは、浅葱嬢は邪気に慣れ親しんでしまって、無害な乙女に戻してどうこう、という次元の話ではなくなってしまった」
「とおっしゃると」
俺はお愛想笑いを顔に貼り付けて、とっくにわかりきっている答えを確認する。うん、と比企はうなずいて、俺の予想通りの返事をした。
「説得も浄化も無理となると答えは一つ。退治だ」
やれやれ、とため息を一つ、比企はどうあっても私は「白蛇伝」の坊主をやるしかないのか、とぼやいた。
俺は何も言わなかった。
「『白蛇伝』を知っているか」
比企が腰に巻いた荒縄にぶち込んだ、黒漆塗りの鞘から刀の鯉口を切り、淡々と語る。
「若者が偶然出会った乙女と恋をして、深い仲になったところで、坊主や道士から乙女の正体を知らされる。このままでは乙女に化けた蛇の妖物に命を吸い尽くされて死んでしまうと言って、坊主は蛇を退治し封じて、若者は無事助かってめでたし、という、ザックリ言うとそんな物語だ」
だいぶ古い伝説のようでね、と比企はゆっくりと刀を抜きながら続けた。
「それでも複数あるヴァリアントの、大まかなあらすじは同じだよ。恋に落ちた相手が怪物だった、それを坊主や道士が封じて助かった。西洋にも似たような話が伝わっている。リシアスを虜にしたレイミアは、婚礼の席で夫の友人に正体を明かされ破滅するが、彼女もまた、男を魅了し精気を吸い取る女怪だった」
鋒まで抜き放たれた刀をスッと構え、あの浅葱嬢は蛇ではないようだが、と比企は静かに言った。
「どうやら蛇に劣らず、肉の欲には逆らえないようだな。なるほど、人から恋をする心の機微だけを抜き取るとこうなるのか。社会的なことを気にする理性や、良識や先行きを考える冷静さがない、言ってみれば瞬間の衝動だけしかないんだからな」
「衝動だけだとどうなるんだ」
まさやんが頭を捻って考え込んだが、忠広がそれってさ、と推論を述べる。
「相手の、今回はヤギだけど、家族や友達の存在や心配かけてるとかがどうでもよくて、そもそも存在すらシカトで二人だけの世界だと思っちゃってるってことか」
「そうだな。時間も現実の社会も念頭になくて、永遠に二人だけで語り合い、どえろいこともやりたい放題でやりまくる。それでどんなリスクを背負うのかはどうでもいい。実際、魅了されていたときの八木君は、自分の健康状態に無頓着だっただろう」
「えろいことって、どのくらいえろいんだよう」
結城がぶんぶん香炉を振り回し続けながら、小五の夏休みぐらいテカテカして訊ねた。えろいというワードに対する反応が、もはや入れ食いで実に情けないが、何せ結城なのでこれが通常運転だ。そりゃもうえろいぞと比企が律儀に答えた。
「ネットの動画アーカイブの、十八歳未満はアクセス権限がないジャンルくらいえろいな。人妻とか女学生とかナースとかが有り難がられる類のやつだ。あとは葛飾北斎の『蛸と海女』とか」
「え、北斎? 描いてるの? えろい絵を? 」
「描いてるなんてもんじゃないぞ。春画は誰もが認める一流どころの絵師でないと注文が来なかったんだ。絵が上手くないとえろさに説得力が生まれないんだよ」
「まじか」
「北斎すげえ」
思わず北斎のえろい絵という驚きの事実に反応しちゃった俺だが、忠広と結城もすげえすげえと感嘆し、美羽子が白っぽい目で彼氏以外の男子全員を見ている。
比企は淡々と、こと恋愛というのは、往々にして人をあほたれにするものだが、と続けた。
「そういう変なパワーのある部分だけを抜き取って純粋培養した結果が、あの浅葱嬢だ。魂魄の一部分、恋をする心の動きだけを器用に抜き取ってこねて固めるとこうなるんだな。こんなもの初めて見た。さて、」
どうしたものかな、と刀の鋒で宙に何か書きながら、
「抜き取った元の魂魄の主が存命なら、戻してやれば簡単に片付くが、生憎とうの昔に
「なんかまずいんか比企さん」
「あたし達どうなっちゃうの」
源と美羽子が不安を滲ませると、まあ手は打ってあるからどうにかできなくはないけど、とひと言、比企は頭をボリボリ掻いた。
「いささかアクロバットじみた手段だが、そろそろ始めるか。頃合いだ」
そこで何か書いていたのが完成したのだろう。いくぞと言って比企は悪い笑みを浮かべた。
「それでは諸君。私の服の袖をしっかり握っているんだ。──
気合いと共に目の前の宙を、刀の鋒でとんと突いた、その瞬間。
俺達全員が、すごい速さで空へ向かってすっ飛んでいた。真っ直ぐに、森の木々を突き抜けて、ゴムで引っ張られた、というより、あれです。レールガンみたいに撃ち出されてカタパルトから滑り飛んでいく、あのイメージ。そこで、ふと足の下を見ると。
浅葱が呆気に取られて、それでもすぐにハッと気を取り直し、ググッとかがみ込んで踏ん張って。
弾けるようにこっちに向かって、真っ直ぐにジャンプして追いかけてきた。
嘘だろ。
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