第59話 五人とひとりと恋の行末 2章

 どこかで誰かが泣いている。

 微かに忍び泣く声が聞こえる。

 どこから聞こえるんだろう。俺は霧煙る森の中を歩き、周囲を見回すけれど、自分の他に人影は見えない。鬱蒼と茂る木々と下生えの草花が、露を葉の上に結ぶばかりだ。ぼんやりと明るいから昼間なのだろうけど、朝なのか午後なのか、時間は判然としない。

 下草の露でジーンズの裾を濡らしながら、俺は当てもなく森を歩き回る。自分がなぜ、どうやってこんなところに来たのかよりも、どこで泣いている者がいるのか、それだけで頭がいっぱいで、そもそも外へ出ようとか帰らなくてはとか、思うことすらない。

 泣いている。

 その静かに、微かに耳を打つ声は妙に俺の心をざわつかせた。行かないと。早く。あの子が。

 そこでハッと気がついた。

 浅葱だ。

 あの声は、浅葱がどこかで泣いているのだ。

 俺は森を走る。闇雲に探し回る。浅葱。しなやかな黒髪と、触れるだけで崩れてしまわないか不安になる、砂糖菓子みたいな甘いまろやかな肩。

 探して、探して、でもどこにも姿が見えない。どこだ。

 早く探し当てて、泣いているのなら、慰めてやらないと。

 あの子が笑っている方がいい。

 森を走る。走って、走る。下生えを突っ切って、抜けた。

 あの泉が出てきた。どこだ。周囲を見回し、それから対岸へ目を上げると、そこに、たった一人で岸辺に座り、自分の肩を抱いて震える浅葱の姿があった。

 そこで俺は目を覚ました。

 ベッドの下に夏掛け布団を蹴り飛ばし、冷や汗にまみれ、眠っていたというのに寝巻きがわりのスエットは膝から下がずぶ濡れで、足の裏は土で汚れていた。

 スエットの裾に草の汁の汚れが入り混じっているのを確認して、俺は汗を拭って端末を取り、チャットルームで比企に夢の内容と足の汚れについて報告する。

 

 俺は八木真。あまりにもかわいいが過ぎるので、人間だけでなく妖怪とか化け物にもモテちゃって大変な大学生。高校生の頃、魚の化け物に取り憑かれたことがあったけど、今回はなんかやばいものに取り憑かれてる、らしい。

 俺、一体これからどうなっちゃうのー?

 

 重箱いっぱいのブロッコリーマヨネーズがけをがっつきながら、チャットは読んだよと比企は言った。

「肝心なのは、貴君が浅葱嬢と話をしたかどうかだ。遠くから見かけただけで終われば、縁はだいぶ薄くなってきている。が、迂闊に言葉を交わせば、以前より更に結びつきは強まってしまう」

 どうだ、と重箱から顔を上げて、俺を見る。

 話はしてないよと俺は答えた。

「てゆうか、俺はこっち側で浅葱は向こう岸にいたし。泳いで渡るとかぐるっと回り込むとか、全然思いつかなかったし、その前にそこで起きちゃったんだよ」

「そうか」

 うなずいて比企は信じるよとひと言、重箱の最後の段を開けた。一段目は人参と玉ねぎ、レタスにきのことコーンのサラダがぎっちり、二段目はブロッコリーが入っていたが、最後の段には粉吹き芋がぎっちり入っていた。金曜の夜、つまり今夜俺から憑き物を落とすと言ってからこっち、比企は肉を食わず、野菜だけのこの弁当で通している。

 オムライスをつつきながら、気遣うように美羽子が比企さんお弁当足りそう? と声を掛けた。んー、と芋を口いっぱいに頬張りながら、ぼんやりと答える。そりゃあ心配にもなるだろう。普段何でもバクバク食う奴が、今週はほぼほぼ三食野菜で通しているのだから。どうしたと訊ねると、今夜に向けてなまぐさを抜いているのだと言った。

 A定食を飯大盛りで食っている結城が、自分の盆に乗ってる南瓜の煮しめを比企に差し出す。

「比企ちんがんば」

 B定食のサラダをそっと出す忠広。

「俺も」

 まさやんも黙ってきゅうりの糠漬けを差し出した。源もハンバーグのパインを小皿に取って差し出す。俺も思わず、チャーハンセットについていた豆腐花トウファを出し、美羽子も鞄からマスカット飴を出した。

「何だかお供え物みたいだな」

 比企は情けない顔で漏らしてから、ありがとうと受け取り、猛然と食い続ける。

 それで、とまさやんが牛丼の丼を置いた。

「今日はどこに集まればいいんだ」

 各々基礎科目のレポートを仕上げるという名目で集まって、夜まで皆で勉強してから男子連中はいつものように結城の家に、美羽子は桜木家に泊めてもらうことになっている。

 そうだな、と比企は重箱を片付けながら、師父の診療所にしようかと言った。

「預かっていただいているものもあるし、お願いしたいこともある。ちょうどよかろう」

「え、今回李先生も参加? 」

 結城がピャッと気持ち跳ね上がるが、そんなわけなかろう、とあっさり否定された。

「私や小虎シャオフーでは手に余る相手でもなければ、師父はお出ましにならないよ。それにうちの洞府は実戦主義、私も小虎もそれなりのことはできてしまうからな、暇で仕方ないといつもおっしゃっている」

 ということで、今夜八時、李先生の診療所が終わる時間に集合し、そこで先生が俺達に邪気払いをしてくれるんだそうだ。それから移動して、

「さて、どこか広くて人家が少ない場所はないか」

 こだま市の地図を端末で見ながら考えている比企だが、そういえば、俺達が初めて出逢ったあの事件のときには、市南端のグラウンドで、あの魚の化け物を落として退治したんだったっけ。

「またあのグラウンドでいいんじゃないの」

「いや、今あそこは整備中でな」

 俺の提案に、比企は頭を掻きながら、どうしたもんかなと唸った。

「やっぱり城址公園しかないか」

 まあそうなりますよね。

「ところでヤギ体はいいんか」

 忠広が俺の顔色を確認するように覗き込んできた。

「おかげさんで」

 美羽子と源も、この前よりだいぶよくなったみたいだとうなずいた。え、そんなに俺、ひどい感じだったの。

 比企は地図で城址公園の配置図を見ると、お濠と広場、植え込みをトントンと爪の先で触れながら、まあ行けなくはないかと独りごちた。

「木行に水行土行は揃っている。あとは火行に金行をどうにかすればいいか」

 それからふん、と鼻を鳴らす。まあそれはあとでいいなと片付けた。

 

 それで、とため息のように比企は俺に確かめる。

「八木君は浅葱嬢をどう思ってるんだ」

「どうって、」

「それによっては、私の対応も変わる。妖のものと知った今、恐怖しかないのか。それとも、いまだ憎からず思っているのか」

「それは」

 どうなんだろう。正直、よくわからない。ただ浅葱のことは、どうにか助けたいと思うのははっきりしている。俺といることが一番いいことなのか。そうじゃなく、退治しないとどうしようもなくて、そうするのがいいことなのか。それとも、俺じゃなくもっと上手に浅葱と向き合える誰かに託すのが正解なのか。そんなのわかるわけないだろ。俺、女の子とこんな関係になったの初めてなんだからさ。 

 なんで人間、こういう答えにくい質問をされると視線が左斜め下に落ちるんだろう。

「そんなの、わ…からないよ」

 そうかと比企はうなずいた。

 

 それでとひと言、赤毛のロシア娘は仕切り直す。

「今回、八木君を恋する青少年に変貌させた妖物の正体だが」

 全員がバッと顔を上げた。

「なんかわかったのか」

「まじか」

「すごい」

「どうやって調べたの」

「ヤギ助かるん」

 一斉にしゃべるな。

 ああ、と比企はテーブルに乗ってる保温ポットの麦茶を湯呑みに注いだ。

「四十年ほど前から、裏の、いわゆる拝み屋の業界内で噂になっている怪異があるんだ。八木君から聞いたのと似たような噂が流れていないかと思って、方々訊ねてみたら、みんな京都で会っただろう、水月さんだよ。あの方が教えてくださった」

 麦茶をひと息に飲み干し、次を注いで比企は続けた。

「八木君には実に酷な話だが、何も知らずに交際を続けるというわけにもいくまいよ。交際を続けるなら、相手の人となりや育った家庭、友人知人、そういう面にだって目を向けざるを得まい」

「比企ちん、なんかいかにもヤギが結婚視野に入れてるかのような発言じゃね」

 結城のツッコミに、たまにいるんだそういう人間が、と奴は答えた。

「それで、ヤギの彼女ってのはどんなやばい正体なんだ」

 まさやんが水を向けた。うん、と比企はうなずく。

「水月さんは、まああの人は真物だから表には出てこないが、本当に危険なものや重要な案件を引き受けている方でね。まだお若いが西日本では重鎮だよ。何でも御先代の頃に、ポツポツと聞こえ始めた噂があったそうだ。いわく、骨董屋や古美術商からあるものを買って以降、その家の若い男が衰弱し始め、そう時をおかず亡くなってしまう」

「若い男が」

「衰弱して」

「死? 」

 忠広と源と結城が順繰りに驚く。

「一度だけ、御先代が実際に見たそうだ。水月さんには、妖物としてはさほどではないが、あれは実にタチが悪い、と」

「どう悪いの」

 美羽子がそっと、何とはなしに周囲を窺いながら訊ねると、比企は湯呑みを置いて答えた。

「相手に回すと実に厄介だ。自分が取り憑いた男の、一番純粋な部分に付け入って、自主的に自分に食われるよう働きかけるんだ。最初は生気を吸い取り、最後には亡骸まで食ってしまう。そうやって生きながらえていたんだ」

「亡骸? なきがらって死体ってこと? 食うの? 」

 思わず声を上げると、ああそうだと比企は肯定した。

「これから私は、実にひどいことを言う。理由は一つ、八木君は何にも変えられぬ戦友であり、死んでなど欲しくないからだ。いいか八木君、浅葱嬢から見た貴君は、ちょっとしたご馳走程度のものなんだ。当人が何を言おうと、根っこのところはそれだ。彼女本人は八木君と恋をしているつもりでいるが、その行為自体が無自覚な捕食行動でしかないんだ」

 だから私は、君に恨まれようと浅葱嬢をどうにかしないといけない。そう言って、比企は湯呑みに残っていた麦茶を飲み干した。

 忠広が、美羽子が源が、結城がまさやんが、俺をじっと見ている。

 俺はぐっと息を飲み込んで、それで、と口を開いた。

「浅葱の正体って何だ」

 何も知らずに、ただただ友人が浅葱との仲を引き裂いたとか思って恨むのは簡単だが、それは違うと思ったのだ。ちゃんと事実と向き合って、その上で、どうするのかを決める方が、よっぽど納得できるだろう。

 比企は俺の目を見てから、そうかとうなずいた。

「浅葱嬢の正体は、あの香水瓶の付喪神と融合した、ある女性の魂魄だ」

「コンパク? 」

「って何」

 俺の鸚鵡返しに結城が続いた。

 比企の説明は以下の通り。

 人間の魂ってのは、魂と魄に分かれていて、魂は三つ、魄は七つで三魂七魄。これが揃っているのが通常の健康な人間だが、命の危機や、誰かに呪いをかけられたりで死にかけると、少しづつ抜けてしまうことがあるそうだ。

 まず、比企は俺が預けた香水瓶から持ち主を辿った。最終的に行き着いたのが、中部地方某所の素封家で、第二次大戦のしばらくあと、一時期、家が傾きかけたらしい。

 原因は若夫婦の折り合いだったとも言われるが、夫婦はいわゆる入婿、一人娘に成金の息子を婿に取ったのだが、

「婿殿は理由をつけては外で飲み歩き遊び歩いて、ことあるごとに俺の女房はつまらん、人形みたいな女だと、仲間にこぼしていたそうだよ」

 なるほど。新興の金持ちのドラ息子が、旧家の御令嬢と結婚すれば、不満の一つも出るだろう。だが。

 お嬢様が急ぐように結婚したのには理由があったのだ。

「ありがちな話だが、悪い虫がついたのさ。お嬢さんの口からは、ついに相手のことは何一つ聞けなかったがね。片や、傷物になった娘をどうにか、世間体を繕えて利益を産む形で片付けてしまいたい。片や、悪い遊びをおぼえて手のつけられない倅を落ち着かせたい。利害が一致した結果の縁組だ。それでも、最初のうちは亭主は満更でもなかったそうだよ。最初のうちだけは、ね」

「お嬢様美人だったんか」

 忠広が定食についていた梨を齧りながら、あーあー、と笑った。そのようだなと比企も否定はしない。

「だが、いくら美女でも、新婚らしいイチャイチャとかが生まれなければつまらんだろう。見合いと政略の結果とはいえ、結婚はしたものの、まるで男として見られなかったら、ご亭主殿の心中は察して余りある。荒れたとしても何も言えまいよ」

 わかる。それはほんと、俺よく桜木さんの精神が保ってるなと思う。こんなイチャイチャとか初々しい恥じらいとかと無縁の女を相手に、どうやって恋心維持してるんでしょう。俺だったらもっとかわいいところ見せろとか言っちゃいそう。

 それはともかく。

「これはついに、夫婦が死ぬまで明らかにされなかったのだが、夫から人形のようだと評された奥方は、魂魄を一部抜かれていたのさ」

「はあ? 」

 源がどういうことだよと天井を仰いだ。

「種を明かせばこうだ。お嬢様が何処の馬の骨だかしれない男と親密になっているというので、どうにか縁談をまとめて諦めさせようとしたものの、その気配は一向になく、祝言の日は近づく一方だ。ついに痺れを切らせた親戚の年寄りが、どこからか拝み屋を連れてきて、相手との縁を切らせるご祈祷を頼むと言い出した」

「拝み屋ねえ」

「いるよね、そういう爺婆」

 うーん、と眉間に皺寄せ考える俺達一同。

「さして近いとも言えない親戚だが、色々断りにくい付き合いがあったんだろう、ひとまず拝み屋を歓迎し、祈祷を頼んだのだが、この拝み屋が提案したのがざっとこういうことだ」

 ──御令嬢の恋心を抜いてしまいましょう。その、誰ともしれぬ相手を忘れてしまえば、縁談にも支障がなくなるでしょう。

「ふた親は一も二もなく飛びついた。そうして、お嬢さんはご祈祷を受け、婿殿がやってきて、幸せかどうかはともかく、まず人並みの生涯を送った。恋はしなくても子供は授かる。子供達はまあ、それなりに裕福な家庭でそこそこ恵まれた一生を送った。結果、誰も気づかなかったが、拝み屋が抜き去ったのは、お嬢さんが特定の恋人へ向けた心じゃなく、恋をする心そのものだったんだ」

 そんなことが、本当にできるのか?

 俺の顔色を読み取って、できるよと比企はあっさり認めた。

「他人の魂魄を抜く道術もちゃんとある。抜かれても瓢箪に集めておけば、脳天から吹き込んで戻すこともできる」

 まじか。やだなんかコワイ!

「おそらくだけど、抜いた一魂一魄をこいつに集めたんだろうな。中に入っている香水も、その当時はもっと入っていたんだろう。私が預かったときに八木君が、中身が増えているような気がすると言っていたが、過去の持ち主を遡っていくと、やっぱり手放すときにほんの僅か増えていたと、証言があったケースも確認できた。ということは、妖力と連動しているんだろうな」

 もしも、もしもその話が本当だったとしたなら。いや、こいつのことだ。俺達につまらない嘘はつかないだろうけど。

「じゃあ、浅葱は、」

 本当に化け物だったのか。

 比企は俺の呟きには答えなかった。

「打つ手はまず、香水瓶から彼女の魂魄を引き剥がせるか、そこにかかってくる。分離できるなら、同時にヒトを食う付喪の習性は抜けるだろうから、あとは足りないものを補ってやれば済む。だが、もしも分離できないほどに一体となっていたら。あるいは彼女が分離を望まなかったら」

「どうなるの」

 美羽子が掠れた声で訊ねると、比企は俺の顔を見てから、ひっそりと答えた。

「一番嫌な手段をとるしかなくなるね」

 それからボソリと、まずいものでも食ったように顔をしかめて、次の麦茶を注いだ。

「殺したり壊したりは、できれば避けたいんだけどな。『白蛇伝』の坊主の役回りなんか願い下げだ」

 

 午後は本郷先生のゼミだったが、俺はどうにも落ち着かず、だが先生は比企から何か聞いているのだろうか、黙って見守ってくれていた。ただ、帰り際にぽんと肩を叩いて、無理は禁物だよと、ニコニコ笑って見送ってくれた。

 

 一度家に帰って、まとめておいた着替えを持って、お袋に声をかけて出かける。玄関で靴を履いていると、ちょっと、と呼び止められ、ゼリーの詰め合わせの袋を渡された。

「また結城君のお宅に集まるんでしょ。あんた達で食べるんじゃなくて、お家の方に渡しなさい」

 いつぞやのように手土産を持たされた。俺はうーともんーともつかない返事をして、家を出る。

 夕刻、まだ空は明るくて、李先生の接骨院の診療時間が終わるまでの間、時間を潰しながらポツポツ合流する待ち合わせ場所として、比企が指定したのは、俺と忠広、美羽子の自宅近くの東駅前にある、シャンソン喫茶だった。中学校で起きた怪談話騒ぎのときに入った、あの喫茶店だ。待ち合わせですとひと言、奥へ入ると、忠広とまさやんが先に入って待っていた。

 おう、と挨拶とも言えぬ挨拶を交わして、俺はアイスコーヒーを注文してボックス席に収まる。

 いつものように他愛のない話に興じ、いつものようにくだらない話でケラケラ笑い、結城が合流し、それからやや間を置いて源と美羽子が揃ってやってきた。七時を回った頃、比企がふらりと店に入ってきた。

 今日はいつもの防弾チャイナの戦闘服でも、気の抜け切ったジャージにTシャツでもない。初めて俺達が出会ったあの事件の、グラウンドでの夜と同じ、ガサガサした着物の腰を縄で縛り、ガサガサした草履を履いていた。

「なんか懐かしい格好だな」

 まさやんが比企のスタイルを評した。美羽子は初めて見る比企のいでたちに、目を丸くしている。

「比企さんその格好どうしたの」

 ああ、と何でもないことのように赤毛のロシア人は答える。

「今日は本格的に道士の領分で仕事をするからね。道服でないと気合が入らないだろう」

 ほんと、何だろうこの無国籍感。

「子供の頃はお山で修行していたからな。ずっと道服で生活していたんだ。何というか、着慣れたものはやっぱり落ち着くな」

 子供の頃、ね。こいつの子供の頃なんて、ちょっと想像がつかないが、一体どんな子供だったんだろう。いつぞやの親父さんとの決闘を見れば、どこにでもあるフツーの生活、というわけじゃないのはわかるけどさ。俺はこの前、親父がアーカイブで観ていた「少林寺三十六房」を思い出していた。ああいう、池の上に丸太浮かせた上を歩いて向こうに渡れとか、細い塀の上歩いて重たいレンガ運べとか、そういう修行をしていたんだろうか。やべえ、自分で想像しておいてあれだけど、違和感が息絶えている。生きろ。そして働け。

 そのまま八時近くまで、喫茶店でだべりながら過ごした。俺も仲間も比企も、誰もこれから行う憑き物落としについては、おくびにも出さず、いつも通りのくだらない話で押し通した。そういうのは、接骨院で李先生に会ってからすればいい。変に気にして、必要以上にビビったりするのはあんまり意味がないし、何だか状況や、これから実際に相対するであろう怪異に呑まれるみたいで、それもどうなのかなと思った。ことが起きる前から舐められるのは面白くない。

 それとは別に、俺は正直、浅葱のことも気になっていた。

 調査の結果、比企がたどり着いた、浅葱の分身ともいうべき女性は、どんな人だったのだろう。どんな相手に恋をして、どんな暮らしをしていたんだろう。魂と心の一部を抜き去られたままの結婚生活は、幸せだったのだろうか。抜き取られた浅葱の方は、どんな経緯であの小瓶に封じられて、どこへ流され、どんな風に百年以上の時を渡ってきたのだろう。

 最後には亡骸まで食べてしまうと比企はいうけれど、そんな結末を迎えるとはいえ、百年の間に何度かは恋をしただろう、その間、浅葱は幸せだったのだろうか。そんなことを思いながら、俺は仲間と一緒に歩いていた。みんな俺の気持ちを思ってか、いつも通りに、だけどさりげなく俺をそっとしていてくれた。

 俺はぼんやりとした覚悟が、どんどん輪郭をはっきりさせているのを感じていた。

 これから、俺は浅葱にサヨナラを告げるのだ。告げなくてはいけないのだ。人が生きていく上で、そういうサヨナラは、避けて通れなくて、受け止めて飲み込まないといけないサヨナラは、きっと何度かやってくるのだろう。そのうちの一回が、今俺にやってこようとしているのだ。納得しきれなくても、諦められなくても、そういうサヨナラはいきなりやってきたり、どうしようもなく動かせなかったりするのだろう。

 信号待ちの間に、ふと横を見ると比企がいた。

「八木君、」

 前を見たまま、俺に問いかける。

「浅葱嬢のことは、最善を尽くすつもりだが、」

「うん」

「どういう結末を君は望む」

 俺はちょっと考えた。できるだけ考えないように、見ないようにしていた未来を。

 俺は正直、未来とかは考えたことがなかった。浅葱と過ごす時間には今だけしかなかったのだ。今、この現在。

 だから、昼休みの食堂で浅葱をどう思っているのかと訊ねられたときにも、わからないとしか答えられなかった。けれど。

 それではいけないんだ。

 どうするのが正解なんだろう。ただ化け物と断じて祓ってしまうのが正しいのか。正体がどうであれ、恋人だと庇うべきなのか。

「正解なんかないよ。私が聞きたいのは、かくあるべしの理詰めじゃない。八木君がどうしたいのか、だ」

 俺は、

「どうすればいいのかはわからない。ただ、浅葱が俺じゃなくてもいいっていうなら、人間を食ったりしないでいいようにしてやった上で、自由に選べる道を保証してやりたいとは思う。自由に選べるようになっても、まだ俺がいいって言ってくれるなら、そりゃ嬉しいけどさ。でも、」

 あの小瓶が流れ着いた先にいた男を、行き当たりばったりで、ただそこにいたからというだけで選んでいたのなら。それは、浅葱の自由な意志じゃないような気がした。相手を見て選ぶ、せめてそのくらいの自由は、用意してやりたい。

 いくら何でも、浅葱にだって好きになれるタイプとか、生理的に受け付けないタイプとか、そういうのだってあるだろうし。

 比企はそうだなとうなずいて、できる限りのことはやってみるよと言った。

「ただ、何せ浅葱嬢はあの小瓶に封じられてから相当年月が経っている。最悪の事態も覚悟してくれたまえ」

「わかった。そのときは、変に遠慮しないで言ってくれよな」

 たとえ納得しきれなくても。受け止めきれなくても。そのときが来てしまったなら、俺は受け入れて飲み込まなくてはいけないのだ。いつか納得して、自分の中でちゃんと置き場所を見つけられるようになる、その日のために。

 信号が青になった。交差点の向こう、接骨院の前で、李先生が診療中の札を裏返している。俺達に気がつくと、来たな、と扉を開けて中へ招き入れた。

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