第58話 五人とひとりと恋の行末 1章
七月に入りましたが、皆様いかがお過ごしですか。
俺は相変わらず、いつもの仲間とつるんで遊びながら、週に三度、午後から夕方までアルバイトを始めましたぜ。
バイト先は国道沿いの骨董屋。先代の頃はただの古道具屋だったみたいだが、今では扱うものも内装も洒落たものになっている。客層は主に女子学生や、他所から遊びにやってくる街遊びの客だ。
俺は八木真。学校で、バイトで、毎日大人の世界を垣間見ながら、それでも根っこのあほだけは変えられない、ちょっとキュートな大学一年生。いつでも彼女募集中、おっぱいのでかい美女、あなたの応募を待ってます。
八月は店長が三週間ばかり、仕入れを兼ねた旅行に行くとかで、その間はまた以前のように、まさやんの親戚の民宿を手伝うことになっているが、そこと試験前以外はコンスタントにシフトに入れてくれる。五十過ぎの、小柄でニコニコといつも笑顔の穏やかな人柄の店長で、商品の仕入れについては辣腕だが、店の内装や陳列は奥さんのセンスで、当人は仕事の他はサッカー観戦と酒が好きという、愛すべきおじさんだった。
俺は結城達剣士トリオが剣道部の稽古に参加している、月水金にバイトに入ることになり、今日もダラダラとサイダー飲んでアイス食いながら店番をしていた。こんなゆるーいスタンスが許される職場、控えめに言って最高。ゼミの仲間やサークルの友人には、もっと時給がよくて、入れる曜日も多いピザ屋やコンビニのアルバイトが人気だが、いいの、時給はやや控えめでも、働きやすい職場の方が俺はいい。
仕事はというと、簡単な店の掃除や接客と会計、商品が売れたら棚が空いたところに補充。それから、時折かかってくる電話の番と、そんなもんか。
基本的に暇ですが、何か?
それでもバイトを雇い、店番をさせているくらいに儲けは出ているところを見ると、のほほんとしてるように見えて、意外と商売上手なのかもしれないな、店長。
で、俺が今何をしているのかというと。
店番を口実に、店内に並ぶ商品を物色していた。
もうすぐお袋の誕生日で、今まではスルーしていたのだが、さすがに大学生になって世間がちょっと広がった分、親孝行の真似事でもしておこうかと思ったのだ。
洒落たコーヒーカップとソーサーのセットにティースプーンを添えて贈ることにした。いつも使ってる肉厚なマグカップと同じように、ぞんざいに扱ったらあっさり粉々になりそうな、繊細な磁器のカップだ。
あれこれ見ている間に、妙に気になるものがあった。
小石くらいのサイズの、ガラスの小瓶。摺りガラス越しに、ひと雫ばかり何かの中身が見える。淡い水色に透けるそれは、水ではないようで、瓶を軽く振るととろりと粘っこく、ゆっくりと動く。
妙に引っかかるものを感じた。
帰り際、俺と入れ替わりに店へ入るためにやってきた店長に、コーヒーカップとスプーンの会計を頼んだついでに、俺は瓶のことを訊いてみた。
「あれ」
瓶を棚から持ってきて見せた俺に、店長が首を傾げて、こんなもの仕入れたかな、と小さく呟き、商品台帳をめくると、これかとうなずいた。
「四年も前の仕入れじゃ、そりゃ忘れるよなあ。アンティークの香水瓶だね。先月売れたランプと一緒に仕入れたんだったか」
まあ一ヶ月弱いれば、店に入ってすぐ売れるものもあれば、何年経っても店に居残るものもあり、またその逆のパターンも何度か見ている。世の中ってわからない。
幸いコーヒーカップは俺にも手が届く金額だったが、店長は香水瓶を指して、うーんとしばし考えてから、八木君さあ、と切り出した。
「君いくらなら買う? 」
「え」
俺もしばし考えてから、そうですねと答えた。
「千円ぐらいなら」
「じゃあ千円ね」
「ファッ? 」
「千円」
「いやあの」
「毎度ありー」
かくして俺は、お袋へのプレゼントも込みで六千七百二十円を支払うこととなった。財布に厳しい!
その夜、バイトから帰って飯を食い風呂に入り授業の課題を仕上げ、いつものように過ごして、寝る前にふと、あの小瓶の中身が気になった。
香水瓶だというからには、中の液体は多少いい匂いはするのだろう。そもそも香水って腐ったりするのか?
プラモデルのパーツみたいにちっちゃい、これもガラスでできた栓をそっと、壊さないように外してみた。すげえな女子ってこんなことしょっちゅうしてるのか。器用か。
一瞬、何かがフワッと香った、ような気がした。水気の多い果物みたいな、淡い淡い花の香りみたいな、悪臭ではない。むしろ、そうだな、梅雨どきの、森の中の静かな水場で、花が咲いているみたいなイメージ。
イメージは摑んだけど、あんまり香りが淡く仄かで、すぐに部屋の空気に拡散してしまった。
やっぱり古いものだからなんだろうか。あんまり瓶の口を開けっぱなしにしていたら、中身が揮発してしまいそうで、俺はすぐに蓋をして、寝てしまった。
その夜は、ずっとどこかで優しく呼ばれているような、そんな気がして、深くは寝付けず朝を迎えた。
ちょっとだるくて、疲れが抜けきらない感じを抱えたまま大学へ行って、講義を受けて、今日は仲間全員が、駅前のいつもの喫茶店へ顔を揃える。
「どうしたヤギ顔色悪いぞ」
「クマができてる」
「ヤギなのにクマかよ」
「悪い草食ったんか」
いつものように仲間が一斉に、いじりながらも俺の体調を案じてくれた。
「マコあんた顔色ほんと悪いわよ」
美羽子までがそんなことを言うのだから、やっぱりよくないのだろう。
そこへ遅れて比企が来た。
奴はちょっとだけ眉根を寄せて、じっと俺の顔を凝視してから、どうした八木君、と訝しげに訊ねる。
「昨日の貴君はもっと色艶がよかったぞ」
いや色艶って。ドッグショーの毛並み見る部門じゃないんだから。
思い当たることは特になくて、俺もそんなにか、と逆に訊き返したら、全員がうんうんとうなずいた。
「本郷先生の課題、結構ハードだからな」
「あんま根詰めんなよ」
まさやんと結城が気遣うように言って、忠広も今日は解散すっか、と頭を掻いた。
その夜、夢うつつで俺は、こちらに呼びかけるきれいな声と、淡い人影を見たような気がした。
翌日はもう少しだるさが強まり、俺は洗面台の鏡に映った自分の顔にちょっと驚き、大学へ出るとやっぱり仲間達を驚愕させた。バイトに出れば店長にも、まあ八木君無理はしないでよ、とさして深刻とは思わないながら身を案じられ、どうにかこうにか気力と、留年は嫌だという意地でゼミのレポートを書き、ふらふらと倒れ込むようにベッドに撃沈した。
ゆうべ聴いたきれいな声は、今夜は確実に俺に呼びかけていた。そして、あの人影はもっと鮮明に見えて、顔つきは憶えていないながら、笑顔がかわいかった印象だけは、しっかりと記憶に残っていた。
夢なのか、それとも実際にあったことなのか。ふわふわと甘い、奇妙な感覚は、どちらだって構わないだろうと俺に囁いていた。
…くん。
遠くから声がする。
まことくん。
ぼんやりと、でも俺を呼ぶ声。少しづつ近くなって、鮮明になっていく。
真くん。真くん真くん真くん。
何度も呼ばれる。きれいな声だ。それから、微かにいい匂いがする。食べ物じゃなくて、もっと違う。花とか果物とか、そういう甘くていい匂いだ。あんまり仄かに香るので、もう少しちゃんと嗅いで、細部を知りたくなる。ふわふわとあったかい気配が濃くなる方に顔を向けると、いい匂いも少し濃くなるような気がした。
ふた晩ばかりそんなことが続いた。
仲間からはやれ人相が悪くなったの死相が出てるのと軽口を叩かれたが、俺はなぜだか取り合う気にならず、言われるがままにしていた。
今夜はちょっと勝手が変わっていた。
いい匂いがし始めて、不意に耳のそばで呼びかけられた。
「真くん」
後ろからひんやりとしなやかな腕が、俺にふわりと抱きついてくる。いい匂いが一段と濃くなった。
もっと嗅ぎたい。
胸いっぱいにこの臭いを満たして、この甘い香りに包まれたら。
サラサラと長い髪が頬にふれた。それから、柔らかい頬が優しく触れる。
そっと手をあげて、俺はおずおずと自分を柔らかく抱きすくめる腕の主に触れてみた。
掌にそっと擦り寄せられたのは、まろやかな頬。それから、優しく触れる唇の瑞々しさ。後ろにいた誰かが、するりと俺の正面に回り込んだ。
「真くん」
花のように健気な微笑みは、俺の心の片隅の小さな椅子に、ちょこんと腰掛けた。
何をどう訊いたものか迷う以前に、咄嗟に君は誰、と口をついて出る。ふふ、と楽しそうに笑ってから、彼女はねえ、と悪戯っぽく言った。
「真くんは、わたしのことなんて呼びたい? 」
「え、」
そうだな。俺がこの子を呼ぶのなら。
サラリと流れる黒髪。薔薇色の頬、甘くやさしい、薄い肩の丸み。薄い鳶色の瞳に、僅かに差し掛かる淡い水色。
「浅葱」
ポロッと俺の口から飛び出た。こんな淡い水色を、その昔はこう呼んだのだったか。
俺の言葉に、満足そうに彼女は笑顔になった。その笑顔で、俺もなんだか心がほかほかして、ちょっとくすぐったくて、なんだろう、不思議な心持ちだ。ふわふわと浮き上がるような、何かに引っ張られるような。
翌朝、俺の顔を見た仲間達がこれまでになく引き攣った表情でこちらを見ていたが、そんなことはさっぱり気にならなかった。
そんなことはどうでもいい。
その夜も、俺はお袋がやれ顔色が悪いのクマが出ているのというのを聞き流し、さっさと飯を食って風呂を浸かって部屋に引き揚げた。
そういえば、あの彼女の匂いを、俺はどこかで嗅いだような気がする。それもつい最近。他に心当たりが思いつかず、あの香水瓶の栓を開けてみた。
そっと繊細な栓を抜き、瓶の口へ鼻を近づける。あの秘めやかな香りがフワッと、仄かに漂った。
気がつけば、深い森の木陰の泉にいた。程よく薄暗くて、程よく月明かりが枝の隙間から差して、涼しい夜風が吹いて、下草は柔らかくて、居心地がいい。花が咲いていて、どこか近くに、果物が生る木があるのだろうか、甘い香りが花のそれと入り混じっている。
浅葱は泉の水面に低く伸びる枝に腰掛け、水に足を洗うように浸していた。こちらを見てにっこりと笑顔になる。隣に腰掛けると、そっと俺に肩を寄せ抱きついてくる。なんだか胸の中がいっぱいになって、俺もそっと抱き返した。それだけで、こんなにしあわせな心持ちになれるのだと、俺は初めて知った。
「うわ八木君どうしたの君すごい顔色だねー大丈夫なの具合悪くなったら言ってね早退扱いだけどあっはっはあ」
店長はこれっぽっちも危機感のない心配の言葉をかけてくれたが、どうにかバイトを終わらせ、ふらふらしながら帰宅した。
その夜も、俺は浅葱とただ二人で、静かな月夜を過ごした。夢なのか現実なのかなんて、もう俺にはどうでもよくなっていた。
翌朝、洗面台の鏡に映った俺の顔は、いつもよりやつれてるみたいだったが、気のせいだろう。
しんどいけど、どうにか授業を受け、いつもの喫茶店に行くと、仲間達が一斉にすごい顔で詰め寄った。
「おいヤギその顔色はやべーぞ」
「お前すぐ家帰って寝ろ」
「やばいまじやばい何がやばいかっていうとまじやばい」
「このままじゃヤギじゃなくてヤギ肉になるぞ」
源、まさやん、結城と忠広が口々にわめく。美羽子もマコが死にそうになってると驚愕した。
「ねえ比企さんこれ、マコやばくない? 」
比企は紅茶のカップ越しに俺を見遣って、眉根を寄せた。
「八木君、」
カップを置いて、俺に手招きする。え、なに何すか。呼ばれるままに近づくと、比企は俺の顔をぐいと捉えて、前髪を上げてデコ出し。それから指で下瞼を押し下げてあかんべえさせて、口を開けて舌を出せと言われた。言われた通りにして、それから耳の穴を見られて、ふん、と奴は鼻を鳴らす。それから最後に、顎を摑んだまま上を向かされて、比企は俺の鼻の穴を見た。
「貴君、すぐに師父の診療所に行きたまえ」
立ち上がって伝票をひっ摑むと、行くぞ戦友諸君、とひと言、出入り口のレジへ向かう。
険しい顔の比企に引っ立てられるように向かった接骨院で、俺を見た途端、李先生はうっはあ、と笑ってから、こりゃ参ったなと呆れたように言った。
「坊主、どこでこんなもん拾ってきた」
「へ」
何を言っているのか。
「しかしまあ、どこからこんなもんが出てきたのか、まったく」
李先生は愛弟子と顔を見合わせ苦笑いすると、俺に向き直った。向けられた眼差しは、どこまでも鋭かった。
「坊主、八木君だったな。最近ちっとばかし変わった知り合いができたろう」
「知り合い、ですか」
「知り合いなんていうとちっとよそよそしいな。そうだな、友達とか、」
「はあ」
「恋人とか」
思わず喉の奥からヒュッと洩れかけた声を、どうにか押し殺した俺、グッジョブ。
でもそんなもの、李先生にはお見通しだったようで、先生はふん、と鼻を鳴らして、何かぶつぶつ言いながら指を折って数を数え始めた。それを見た比企がちょっと驚く。どこにそんな驚く要素が?
キョトン顔の俺を始め仲間全員に、比企がひと言、まさか師父が指を折るとは、と漏らした。
「仙人は指を折って数を数え、ことの成り行きを占うんだが、指を折ることすら面倒がるのが仙人。戦友諸君のことがよほど気に入られたんだろうな」
え、なあに仙人ってそんなにめんどくさがりなんですか。
「仙人ってそんなめんどくさがりなん? 」
小首を傾げる結城。一九二センチのでっかい男が、そんな愛嬌のある仕草をしてもかわいくないからね!
比企はでっかい男がコテンと首を傾げるのを軽く見上げ、ああそりゃもう面倒臭がりだぞと答えた。
「右のものを左に置くのすら面倒がるぞ。中には寝起きのたびに着替えるのすら面倒だと言って、寝巻で一日中過ごしている仙師もおられる」
まじか。常にジャージ着用的な、部屋着のスエットで外に出ちゃう的な、夏休みの男子じゃないんだから。でも比企の普段着が油断しまくったジャージに下駄ばきという、その理由が納得できた。なんかすげえ仙人が部屋着で過ごしてるのを見ちゃえば、自分がやっても文句をつけられまいと思うよね。知らんけど。
李先生はふんふんとうなずきながら指を折って、ほほーう、と俺の顔を見てニヤニヤすると、白皙の美青年顔を助平親父丸出しなニヤニヤで一杯にして、隅に置けねえなあ坊主、と俺の脇腹を肘で小突いた。
「やるな色男。化け物とはいえきれいな嬢ちゃんにモテる気分はどうだ」
「モテるってそんな、」
李先生の言葉に、源と美羽子と比企以外の野郎三人が色めき立った。
「きれいな嬢ちゃんって」
「なんだヤギついに繁殖期か」
「この野郎抜け駆けかよチクショウ」
「ヤギのくせに生意気よッ」
「そうだヤギのくせに」
「四足歩行のくせに」
「俺は二足歩行だ! 」
思わず突っ込むと、否定しない! と目を剥いて驚愕された。
「何が恋の季節だコノヤロー! 」
「俺にも女の子紹介しろ! 」
「一人でいい思いしやがって! 」
忠広がへなへなパンチを俺に喰らわせる。比企は不思議そうにまさやん達の様子を見て、そんなに羨ましいのかと訊ねた。
「八木君を見ろ、妖物の女と付き合おうものなら、この通り精気を吸われて放置すれば死ぬぞ」
「え」
「マ? 」
「死」
え。え。待って。
「俺死ぬの」
思わず自分の鼻先を指差して、えへへと取り繕うように笑った俺だが、江戸っ子口調の仙人とその弟子はしれっと死ぬな、とうなずいた。
嘘。
「うそーん」
「いや死ぬぞ」
「お願い嘘って言って」
「いや死ぬっつってるだろ坊主」
縋って食い下がる俺だが、どこまでもドライなサバサバ系師弟! ひどいよ!
というか、
「浅葱がそんなひどいものだなんて」
思わず漏らしたその言葉に、甘酸っぱい青春ラブストーリーに飢えた悪友三人が食いつくよりも先に、ほう、と赤毛のロシア娘がうなずき、そうかそうかと美青年の皮を被った助平爺さんがニヤニヤ笑いを強くした。
「よーし坊主、そのお相手のこと、詳しく聴こうじゃねえか」
急にグイグイ来るな。なんだか鬱陶しく思えて、視線を外した俺だが、師弟は更ににこやかな笑みで詰め寄った。
「いやですよ、そんな」
「ああいや、わかるぞ坊主。いくら知り合い相手でも、好いた娘っ子のことをベラベラしゃべるのは気が引けるやなあ」
「それは、まあそうですけど」
「ご安心ください師父。弟子は
インタビューに不穏な当て字がされていそうな気がしたが、おそらく俺の気のせいだろう。と思いたい。
「そうか八木君、君の想い人は浅葱というのか」
だが時すでに遅し。一番聞かれてはまずい人物が、しっかり俺の呟きを聞いていた。
比企は実に朗らかな笑顔で、ときに八木君、とひと言、楽しそうに不穏なセリフを吐きやがった。
「貴君のお相手はどんなお嬢さんなんだ。友人としては実に気になる。雑談程度に聞かせてはもらえまいか。なあ戦友諸君、皆も気になるよなあ」
なるなるー、と無責任に乗っかる結城、ダチをこんな萎びたもやしみてえにしてくれた女の正体は気になるな、と右拳を左掌で受けるまさやん、うんうんとうなずく忠広と源、美羽子。いやあ友情だな、と楽しそうに李先生もご機嫌で比企に声をかける。
「ああ梅児や、やるなら奥でおやり。これから患者が集中する時間帯だ。診察室でやると悪目立ちするだろう」
診察室の奥の扉を指して、冷蔵庫に桃があるからみんなでお上がり、と俺達にも中へ入れと促した。
一時間後、俺はあの、バイト先で偶々手に入れた香水瓶のことから、浅葱との出逢いから現在の進展具合まで、比企の話術で丸裸にされていた。何あれコワイ!
「化け物だ妖物だと言っても、貴君に目をつけるとは、なかなか見どころのある賢いお嬢さんじゃないか」「一見お調子者のようでいても貴君は紳士だからな、真面目に節度を保った交際をしているのだろう」「八木君をそこまで魅了するのだ、さぞや魅力的なお嬢さんなんだろう」「それで、その愛らしい浅葱嬢とはどこでどんな風に出逢ったのかな」
こんな褒め倒しのラッシュを浴びせかけられてみろ。俺じゃなくたってなんでもしゃべっちゃうから。しかも、こいつの悪魔的なテクニックはこの褒め倒しの合間にちょこちょこと、君達を祝福し応援したいが大丈夫なのかというニュアンスで質問を挟み込み、障害を乗り越えるのに必要とあらば手を貸そうかと匂わせ、とにかく気がつけば、俺は気分よく全部をさえずっていたのだ。ほんと何なん。やだコワイ!
いつぞやの古書店の茶の間よりは広い、フローリングに茣蓙を敷きちゃぶ台を置いた茶の間で車座に座り、語り終えた頃には、俺はもちろん、美羽子や源、忠広達もすっかりドン引きしていた。うん、そりゃあコワイだろうさ。
比企は仲間達の顔を見回してから、さて、と手を打った。
「これがソフトな尋問術だよ。とにかく相手を乗せて気分よく全てをしゃべってもらう技術だ。ハードなやつの方が得意なのだが、まさか戦友相手に歯医者なんて、死んでもやりたくないからね」
「比企ちん歯医者ってなあに」
やめろ結城! 掘り下げるんじゃありません!
「そうだな、向き合って話をしていて、態度が悪い相手の歯が悪そうだったら、素人歯医者さんをやってあげるのさ。歯科用の道具がないからな、ナイフとか、その辺の工具やなんかで代用して」
当然、麻酔なんてステキなものは最初からないのだろう。知ってる。自分で掘り下げておきながら、うへえ、なんて言ってるんじゃないよまったく。
聞きたいことはあらかた聞いたのか、比企は勝手知ったる師匠の家、自分の家同然に冷蔵庫を開け桃を出して、洗って皮を剥いて、きれいに種を取り除けて俺達にすすめた。自分の分は、洗って産毛を取った皮のままかぶりつく。モリモリ食って、さて、と仙人の弟子は手と口周りを洗って桃の汁を落とした。
「結論から言うと、詳細は省くが八木君はこのまま放っておくといずれ死ぬ」
やだ何それ!
「やだ何それ! 」
「死ぬってちょっと」
「マ? 」
可憐な乙女のように悲鳴をあげた俺に続いて、美羽子が驚き、結城があまりのことに半笑いになる。忠広がそれって、と問いを発した。
「俺らが知り合った、あの魚の化け物のときみたいなことか? 」
「確かあのときも、ほっといたらヤギがサメに体乗っ取られて死ぬって言ってたよな」
「ってことはヤギ女の子になっちゃうのか? 」
源が記憶を振り返り、結城がボケ倒した。が、生憎当人にしてみればまじなのだ。ならねーだろ、とまさやんが突っ込む。さすが幼馴染、手慣れたものだ。
ならないよと比企はあっさり断言した。
「ただ、今回は八木君の生命力を狙われてるので、うっかりそのお嬢さんと深い仲になんてなろうものなら、エネルギー吸い取り尽くされて死ぬよ」
なんですって。
「なんですって」
思わずお嬢様言葉で驚くと、今言った通りだよと比企は答えて、お下品な握り拳を作った。
「今現在、口吸いすらない節度を保った清い交際をしていてさえこうなんだ。やることやったらそりゃあもう」
「あなた口吸いって」
「比企さんその握り拳やめろって」
忠広に突っ込まれ、まさやんにたしなめられて、今度は片手の親指人差し指で輪っかを作り、もう一方の人差し指を通す。もっといくない。
「しかし、お相手の正体がわからないことには、手の打ちようがないな」
さて困った、と頭をボリボリ掻いて、謎のロシア人はどうしたもんかなと伸びをした。
「こういう生命力を吸い取るお化けって、どのくらいいるの」
美羽子の質問に、結構いるよと比企は答える。
「私のご先祖もそうだし、東洋では幽鬼や夜叉、西洋には夜魔の類がわんさかいるし。人間が生きるちから、精気というのは、妖物には極上のご馳走なんだ」
ああそうだった、こいつのご先祖は吸血鬼だとか言ってたっけ。当人は鋼の意志で、李先生のところで修行して、「飯食い過ぎ」というところに目をつぶれば、人の生き血なんか啜らなくても満足できるようになってるけど。
よっこいしょういち、と立ち上がって、比企は茶の間の隣の和室に入り、硯と筆と紙を持って戻ってきた。カランビットナイフで半紙を切って、炭を擦り、慣れた筆運びでお札を書き始める。同じものを五、六枚ばかり書いて、その全部を、何かぶつぶつ唱えながら筆の軸先で上からなぞって、それを俺に手渡した。
「一日一度、そうだな、学校で昼食を摂るときにでも、燃やした灰を水に溶いて飲むんだ。それから、しばらく浅葱嬢とは会わない方がいい。──こいつが効いたら、」
私にもできることがある、ということだ。比企はそう言って、やれやれと肩を揉んだ。
比企の目は、つるんで遊ぶときのゆるい感じでなく、仕事や非常事態のときにだけ見せる鋭い光が潜んでいて、だから俺は、その夜から比企の言うとおりに行動した。昼にはお札を焼いて灰をコップ水に溶かし、一気にグイグイ飲み干し、夜は課題を片付けるとさっさと寝てしまう。あの小瓶は、翌朝比企に預けてしまった。
瓶の中の薄い水色の、あのとろりとした液体が、少しだけ増えているような気がしたのは、気のせいだろうと思いたい。
それから数日、俺は実にぐっすりと眠り、ことのほか飯がうまく、気分が清々しく感じられるようになったのだから不思議だ。あんな、スーパーで買ってきた半紙切って書きつけたお札の何が効いてるの?
翌日から比企は忙しそうにしており、大学で会っても、挨拶もそこそこにバタバタとどこかへ出かけたり、逆にどこからかふらふらとやってきて、傍に座ってぐうぐう寝始めたりという具合で、どこで何をしているのだか謎だった。
俺は徐々に回復しながら学業とバイトに明け暮れ、そして金曜日。
学食にふらりと姿をあらわした奴は、ちょっとげっそりしていたが、それでも不敵な笑みは、やっぱりいつもの比企だった。
全員が揃っているのを見てとると、比企は開口一番、みんな来週末は時間をとれるか、と訊ねる。
「え、来週? 夜? え? 」
「またえらく急だな」
驚く源にまさやんが受けて、全員が端末のスケジュール管理を確認。
「俺九時までバイトだ」
「俺らは七時まで部活」
「あたしは授業終わったら、夕方までサークルの集まりがあるけど、そのあとは大牙君待って一緒に帰るだけだから大丈夫」
忠広に結城とまさやん、美羽子と源が応じて、俺も何もないよと答えた。
「全員、時間は前後するけど集まれそうだな」
「そうか、そいつは重畳」
赤毛のロシア人は、おそらくは疲労からいつもより血の気のない白い顔を上機嫌に崩し、それなら話は早い、と手近な椅子を引き寄せテーブルについた。
「ここ数日、師父と一緒にあの小瓶のことを調べていてね。どうにか正体の目星がついたので、昨日は方々回って下準備をしていたんだ」
愛用のフライターグから紅茶のペットボトルを出して、ひと息に半分近く飲み干すと、ふいーっ、と深呼吸。
「来週金曜の夜、八木君の憑き物を落とそうと思う。ついては、戦友諸君にもちから添えをお願いできまいか」
その言葉に、全員が声を揃えて答えた。
「乗った! 」
え、やだ、そんなこと即答されたら俺、泣いちゃう。
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